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民話 語り手と聞き手が紡ぎあげる世界

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「希望の星」 マイ・エッセイ 22

2016年08月14日 00時35分21秒 | マイ・エッセイ&碧鈴
   希望の星
                                 
去年の暮れ、月曜日の午前十時ごろ部屋で本を読んでいると、めったに鳴らない携帯の着信音が響いた。瞬間、気がついた。
(あっ、いけない。今日は歯医者の日だった)
 受信先を見ると、まさしくそうだった。
「すみません、忘れていました。今から行きます」
 月に二度、月曜の午前に歯医者に行くようになってからもう二年以上が経つ。ようやくあと二回の治療を残すだけになっていた。その日も前の日にカレンダーで、明日は歯医者に行く日だと確かめてあった。それなのに当日になってすっかり忘れていた。

 いつもは歯を磨いて行くのに、その日は時間がないので、習慣になっていた粒状のガムを二つ噛んで出かけた。
 歯医者を目の前にした交差点で信号待ちをしていると、ガムを噛んだ拍子に、グキッといやな音がして、右下の糸きり歯がグラッと根元から崩れた。
(あちゃー、参ったな。でもこれから歯医者に行くんだし、つけてもらえばいいか) 
 歯医者に見てもらうと、両側の歯で支えていた差し歯が歯ごと折れてしまって、もう差し歯はできない。ブリッジにするには、一度治療した歯は向こう一年間、治療することができない決まりがあって、来年の七月まで治療ができないという。
「えっ、じゃ、それまでこのまま?」
「両側をバネで支える入れ歯にする方法があります」
(入れ歯……)
 洗面所で見かける年寄りの口元が思い浮かぶ。

 その日はとりあえずくっつけてもらったが、すぐにグラグラして取れてしまった。取れたら来てくださいと言われていたけれど、どうせまたつけてもムダだろうと放っておくことにした。それ以来いままで、歯が一本ない状態になっていて、口を開ければマヌケな顔になる。
 これまでも白髪、老眼、足腰の衰え、記憶力の低下、もの忘れの激しさなど、自分が老いていく現実を突きつけられた。そのたびに、そんなことは年を取れば誰もが経験する自然なことで、あらがっても仕方がないことはいやがおうにも学んできた。
 今まではそんな老化現象もゆっくり、じんわりやってきたから、その対応にあれこれ試行錯誤することができた。ところが、あまり突然のことでショックは大きい。気になるのでしょっちゅう舌でさぐっては、そこに歯がないことにガクッと肩を落としていた。それも一カ月以上経った今ではだいぶ慣れて、喫煙していたころだったらここにタバコが指せるのに、なんてバカなことを考える余裕もでてきた。

 これから先も、さらに深刻な老化現象は襲ってくるだろう。そのときは老体にきつい冬の寒さを一つひとつ乗り越えていくことを目標にしよう。だけど、必ず春が来ると思うからこそ、厳しい冬に耐えられるのではないか。ただ枯れるのを待つだけの年寄りは、一体なにを楽しみにしていけばいいのだろうか。
 それでなくても女性には縁がないのに、この歯なしではますます……。あきらめる? いやいや、まだまだ、ひと花咲かせたい夢は捨てられない。
 良寛和尚は七十歳のとき、三十歳の女性に出会って恋に落ちた。幸い私は七十歳まで数年残っている。それまでは良寛を希望の星として、これから作ってもらう入れ歯に❤のマークでも刻印してもらおうか。