民話 語り手と聞き手が紡ぎあげる世界

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「もののはずみ」 その2 堀江 敏幸

2017年01月15日 01時18分59秒 | 生活信条
 「もののはずみ」 その2 堀江 敏幸(1964年生まれ、作家、早稲田大学教授)  角川文庫 2009年

 「もの」の「はずみ」――あとがきにかえて

 こんながらくたばかり集めてなんの役に立つのか?社会的には、もちろんなんの役に立ちはしない。さらに言えば、手に入れた「もの」をなにかに用立てようなどと考えた時点で、真の「物心」を失ったも同然なのである。ただし、買った当人には精神衛生のうえでたいへんよい効果があるにはちがいなくて、そうでなければやむをえず処分したり人に譲ったり押し入れに眠らせたりするのを上まわるリズムで古くさい「もの」に触れたりするはずはないし、ごく私的な生活圏のなかでは、やっぱりそれなりの役には立っている、と言ってもいいのではあるまいか。

 実際に使っている「もの」も、見ているだけの「もの」も、特定の生活空間に呼び込まれてはじめて息を吹き返す。ずっとそこに置かれたままで力を発する場合もあれば、あちこち移動し、隣りあうなにかとの関係のなかで、それまでの自分にはないあたらしい文脈を発見している場合もある。彼らのしずかな変幻を見守ることも、「物心」のおおきなはたらきのひとつなのだ。つまり、「仏心」ならぬ「物心」とは、「もの」を買ったり愛でたりすることと、かならずしも一致しないのである。どんなに生き延びようとするとき、他のだれかのもとではなくこの自分のところにやってくることになったいくるもの偶然の重なりと、そこに絡んでいた人と人のつながりをこそ、「物心」あらんと欲する私たちは愛するわけで、もしかすると、「物」じたいより、背後にあるさまざまな「物」を語ることのほうを、物語のほうを大切にしているのかもしれないのである。