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「書く力は、読む力」 その5 鈴木 信一

2017年01月25日 00時04分49秒 | 文章読本(作法)
 「書く力は、読む力」 その5 鈴木 信一(1962年生まれ、公立高等学校に勤務) 祥伝社新書 2014年


いい文章をひたすら肌で感じる経験が、一方ではどうしても必要です。文章には、呼吸とか間合いとかいうよりほかにない、測りがたいものがたしかにあるからです。P-186

 とくに書き手の「思い」が曲者です。出来事の描写をいくら精密におこなってもまだ許されますが、「思い」を書き過ぎたときには、人はもうその文章を読まなくなってしまいます。主観を押し付けられた気分になってしまうからです。P-193

「膨らみのある文章」とは、つまり「読み手が想像の世界に遊ぶ余地を残している文章」ということになります。
 書き過ぎれば、読み手の出る幕はなくなります。その文章は字面どおりの意味を表明して終わります。しかし、書かれていないことがあれば、そこには読み手が想像力で補うしかありません。文章は逆に多くのことを語りはじめます。膨らみが生まれるのです。P-201

(例文)今世紀に入って世界はますます混乱をきわめている。しかし、私たちは人類の全英知を集めてこれに立ち向かい、いつか必ず、世界平和を実現しなければならない。

 たとえばこうした文章は、子どもが書いたものというならともかく、大人の書き物としては認めるわけにはいきません。ここには、「書くに値すること」が何も書かれていないからです。
 何か読む以上、私たちはそこに発見を求めます。知らなかったこと、気づかなかったこと。つまり新しさを求めるわけです。だとすれば、書くべきことも決まってきます。自明のものではない、何か新しいこと。それしか書いてはならないのです。
 何を書こうと人の勝手じゃないか。もちろんそのとおりでしょう。手帳に書く。日記をつける。読書ノートをこしらえる。自由にやっていいのです。しかし、人に読んでもらうことを前提に何かを書くなら、話は違ってきます。「世界平和を実現しなければならない」というような、ある意味わかりきった、それでいてどこか絵空事のような話を書くわけにはいきません。P-214

 他人が書いたものを読むというのは、エネルギーの要る仕事です。文の長さ、文の運び、呼吸、言い回し、どれも自分のものと違うわけですから、それに合わせてこちらがチューニングし直さなければなりません。面倒な仕事なのです。
 したがって、よほどうまくやらないと、人に自分の文章を読んでもらうことはできません。