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「テキストの句読点は尊重して、しかもとらわれない」 鴨下 信一

2016年09月27日 00時29分32秒 | 朗読・発声
 「日本語の学校」 声に出して読む<言葉の豊かさ> 鴨下 信一 平凡社新書 2009年

 「テキストの句読点は尊重して、しかもとらわれない」 P-24

 朗読・音読のレッスンをしていると、テキストに書いてある句読点に皆がとらわれていることに驚きます。そして句読点は大昔から存在していると思っている人が多いのにも、びっくりします。

 天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと云へりされば天より人を生ずるにハ万人皆同じ位にして生まれながら貴賎上下の差別なく万物の(以下略)

 これはあの有名な福沢諭吉の『学問のすすめ』の初版本(明治5年)です。文語文ですが、とてもやさしい。それなのに、なんとも読みにくいのは、句読点が何もないからです。
 すべての人に読みやすく、と思って書いた福沢諭吉がこれですから、句読点が明治初頭の段階ではまだまだ普及してなかったことがわかります。
 それでも明治36年に出版され、翌37年から実際に学校で教えられた日本最初の国定教科書『尋常小学読本』は、

 タローハ、イマ、アサノアイサツヲシテイマス。

 とちゃんと句読点を打っています。
 句読点が言文一致体、口語普通文といっしょに普及していったのには意味があると思います。文語文のような「定型」が文章からなくなった。文章のどこがアタマで、どこがシッポなのかひと目でわからない。文章のパターンが増えて、構文も複雑になった。句読点を打たないと現代文はわからなくなった。
 しかも句読点はその発生から便利のために使われたもので、さしたる規則性がない。恣意的に打っても誰も文句をいわない。そしてここまでずっといってきたように、句読点はそのままでは<朗読・音読の区切り>にはならないのです。(中略)区切りの打ち直しは、台詞や文章を「音声化」する人の義務です。
 もっとも、作品の、文章の「解釈」に、作家の打った句読点は重要なガイド、指標になります。このことは後に何度か触れることになるでしょう。


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