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「どくとるマンボウ青春記」 その1 北 杜夫 

2016年06月10日 00時10分42秒 | 雑学知識
 「どくとるマンボウ青春記」 その1 P-9 北 杜夫  新潮文庫 (平成12年)

 青春とは、明るい、華やかな、生気に満ちたものであろうか。それとも、もっとうらぶれて、陰鬱な、抑圧されたものであろうか。
 むろん、さまざまな青春があろう、人それぞれ、時代に応じ、いろんな環境によって。
 ともあれ、いまこうして机に向かっている私は、もうじき40歳になる。40歳、かつてその響きをいかほど軽蔑したことであろう。40歳、そんなものは大半は腹のでっぱった動脈硬化症で、この世にとって無益な邪魔物で、よく臆面もなく生きていやがるなと思ったものである。まさか、自分がそんな年齢になるとは考えてもみなかった。
 しかし、カレンダーと戸籍係によって、人はいやでもいつかは40になる。あなたが27歳であれ、15歳であれ、あるいは母の胎内にようやく宿ったばかりにしろ、いつかはそうなる。従って、40歳をあまりこきおろさないがいい。そうでないと、いつか後悔する。
 人間というものはとかく身勝手なもので、私は50歳になれば50歳を弁護し、60になれば60を賛美するであろう。
 そして、今はもはや若からぬ私が、「青春記」なる題を記して、すぐさま連想したのは、草の芽もふかぬ寒々とした川原の光景である。土手は枯れ伏した草と霜柱におおわれ、眼下には見るからに冷ややかな川が流れている。
 その多摩川の土手を、黒いマントをはおり朴歯をはいた痩せ細った一人の高校生が歩いてゆく。貧乏神にもう一人貧乏神がとっついて、乾からびて、骨ばって、何日もものを食べておらず、栄養不良と厭世病と肺病にとっつかれているような風貌である。それこそ「カントより哲学的な」と芥川龍之介が言った旧制高校生の姿であった。

 

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