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「書く力は、読む力」 その6 鈴木 信一

2017年01月27日 00時21分31秒 | 文章読本(作法)
 「書く力は、読む力」 その6 鈴木 信一(1962年生まれ、公立高等学校に勤務) 祥伝社新書 2014年

 文章を書くということの中には、「嘘をつく」ということがはじめから折り込まれています。にもかかわらず、事実に忠実になろうとするあまり、失敗する人は多いようです。とくにエッセーというと、見たり聞いたりしたこと、つまり事実を書くものと思っている人が多いのではないでしょうか。しかし、これは間違いです。虚構はあっていいのです。
 人に読んでもらう以上、事実を曲げ、装飾を加え、話を作り込んでいくことは、むしろ礼儀だということです。ラッピングをせず、リボンもかけず、むき出しのまま相手に渡す無礼――、これはぜひとも避けなくてはなりません。P-242

 同僚の美術の先生に聞いた話です。ギリシャ彫刻に躍動感はあるが、蝋人形にはそれないというのです。むしろ死人に見えると。なるほど、そういえば蝋人形はいかにも生彩を欠いています。

「蝋人形にはたとえばマリリン・モンローというモデルがあって、それと比較されてしまうからじゃないですか。その点ギリシャ彫刻はモデルと比べようがないからずるいですよね」

 私がいうと、美術の先生はそうではないといいます。いくら生彩を欠いているといっても、リアリティということでいうなら蝋人形のほうがまさっている。それにギリシャ彫刻のあの手足のバランスでは歩くことさえままならないだろう。にもかかわらず、ギリシャ彫刻のほうが生き生きしていて、蝋人形は死んでいる。
 抽象や捨象がないからだそうです。
 よくいわれることですが、日常会話を録音し、それをそのまま会話文として筆記しても、逆にリアリティは損なわれます。小説にそのまま用いることはできません。どうも、それを同じことのようです。
 大いに強調すべきところを強調し、省くところは省く。ときにはあらぬものをつけ加え、あるべきものを無視する。文章同様、彫刻にもそうした手入れ、いわゆるデフォルメが必要だということなのでしょう。P-243

 

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