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「徒然草を読む」 上田 三四二

2015年01月13日 00時08分08秒 | 古典
 「徒然草を読む」 上田 三四二(みよじ) 1923年生まれ 講談社学術文庫 1986年

 「徒然草」における「つれづれ」 P-51

 つれづれなるままに、日ぐらし、硯にむかひて、心にうつりゆくよしなし事を、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ。(序段)

 『徒然草』はこの有名な序段をもってはじまり、第一段「いでや、この世に生まれては、しかるべき事こそ多かンめれ」とつづく。序段が『徒然草』243段の総序として、のちに書き加えられたとする説は採らない。それでは、第一段の「いでや」と息をついて出る語気が、宙に浮いてしまう。兼好は彼の『徒然草』を、「つれづれなるままに、日ぐらし、硯にむかひて」という文章から書きはじめたのだ。

 すると、兼好の書くという行為は、『徒然草』以前からはじまっていたとしなければならない。彼は『徒然草』の名に呼ばれるエッセイをはじめるに当たって、すでに、「つれづれ」に居てこのような文章を書くことの、言いがたく「ものぐるほし」い事実を知っていた。「ものぐるほし」には、常軌を逸し、気違いじみているという強い意味から、単に、われながら馬鹿馬鹿しいというほどの弱い意味までの幅があるが、私はその中程にあってより前者にちかい、なにかただならぬ心中の波立ちの意味にそれを理解する。単なる馬鹿馬鹿しさでは、「あやしうこそ」と、われとわが心を疑うような強意の言い下しが、活きてこないからだ。

 この「ものぐるほし」の語、さらに言えば序盤全体の語調には、兼好の自嘲がある。自嘲とまでは言わぬにしても、序としてのやや対他的なもの言いの中に、兼好の分疎(ぶんそ)や謙抑(けんよく)の気味合いの籠められていることは否定できない。しかし、隠遁による「つれづれ」の境涯の選択は、彼の意志より出ている。またその境涯にあってする執筆三昧は、だれに強要されたものでもない。彼は、世間に対するのに脱体制者としての沙弥(しゃみ)の身分をもってし、沙弥たる自己の心に対するのに、日ぐらし、硯に向かうことをもってしようとする。そうだとすれば、そのことの結果としての「ものぐるほし」は、彼の好んで求めたものだと言うほかはない。

 では、なぜ心に浮かんでは消えるよしなしごとを書きつけるという行為が、そんなにももの狂おしいのか。それは、書くことによって過去が押しよせてくるからである。捨てたはずの名利(みょうり)が見えてくるからである。『徒然草』執筆のはじめにおいて、兼好はまだ世間を捨てきっていない。このとき、彼はみずから選びとった「つれづれ」の境涯にあって、本意なくも「つれづれわぶる人」(第75段)であり、閑居を求めてそれに拠りながら、その為すこともない日々の所在なさを、つらいと感じている。彼は、閑居に徹しようとして徹しきることのできない心をもてあつかいかねて、その心中に動くものを文章に移そうと試みる。もちろん、ただ移すのではない。漫然と移しているかに見えるその過程において心を立て直し、言いがたくもの狂おしいみずからを克服しようとしているのである。

 こうして、序段における兼好は、世捨て人としての不徹底を嘆く人である。そして序盤以下の全段は―――ことに、序段のときからおよそ10年の歳月を隔てて書かれたとされる第30段あたりより以下の緒文は、この嘆きに解答を与え、もの狂おしさを宥(なだ)めようがための心術を中心としている。彼は、序段ののちしだいに、「つれづれ」なるままに、ではなく、「つれづれ」そののものうちに、心の定位を求めて、金石のような段章を重ねていく。

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