民話 語り手と聞き手が紡ぎあげる世界

語り手のわたしと聞き手のあなたが
一緒の時間、空間を過ごす。まさに一期一会。

「ピンピンコロリ術」 安保 徹

2014年01月21日 00時06分47秒 | 健康・老いについて
 安保流「ピンピンコロリ術」  安保(あぼ) 徹 著  五月書房 2008年

 「死ぬまで元気!」を実現する「ミトコンドリア」と「自律神経」

 元気に長生きするには、押さえるべきポイントがあります。
そこに気を配って暮らせば、元気で病気になりにくい生活を送ることができます。

 そのキーワードになるのが「ミトコンドリア」と「自律神経」です。
ミトコンドリアは生命現象の要といってもいい存在であり、生死の鍵を握っているところ。
また、自律神経は人が生きていくうえで欠かせない生命現象をつかさどる
指揮者の役目をする神経です。

 中略

 ミトコンドリアは細胞の中で浮遊しながらいろいろな仕事を受けもっている小器官の一種で、
生きるのに不可欠な「エネルギー」を、酸素を使ってつくり出す発電所のようなところです。
私たちが呼吸をして酸素を体内にとり込むのは、とりもなおさずこのミトコンドリアに
酸素を供給するためです。

 中略

 このように人間の生死の鍵を握っているのはミトコンドリアですが、
生きているときの健康をつかさどっているのは自律神経です。

 多くの病気には「白血球の働きが自律神経によってコントロールされている」という
共通のメカニズムが関係していることがわかっています。
白血球がバランスよく働いていれば病気になりにくい。
そして、そうなるためには自律神経がバランスよく働いていなければならないのです。

 中略

 自律神経というのは、自分の意志と関係なく自律している(勝手に動いている)
臓器などを調節する神経です。
自律神経には、全般的にエネルギーの消費にかかわる交感神経とエネルギーの温存にかかわる
副交感神経という二系統があります。
その二つはスイッチが切り替わるのではなく、互いに拮抗しながらシーソーのように働いています。
この神経の動きと免疫を担う白血球の動きが連動しているのです。

 ところで、「副交感神経」と聞くといかにも「交感神経」とは主従関係のように感じるかも
しれません。
でも「副」とはもともとは「並んでいる」というような意味ですから、
この二つの神経の関係はあくまで対等です。

「夭折した天才数学者」 田中宏季

2014年01月19日 00時02分55秒 | 雑学知識
 「夭折した天才数学者」 囲碁を通じて「答えのない世界」を知った

 NEWSポストセブン  取材・文/田中宏季
 http://www.news-postseven.com/archives/20140106_233776.html

 ヨーロッパではコンピューター技師、建築士、画家、数学者などに「碁打ち」が多い。
黒と白の碁石を打ち合い、最終的に陣地の大きさを競う囲碁は、
“小宇宙”に例えられるほど広い視野を捉える目がものをいう。

「碁は試行錯誤と構想力のバランスが大切。頭を使う機会、きっかけとしてはとてもいいと思います」

 かつて囲碁専門紙にこう語っていたのは、日本の若き数学者、長尾健太郎さん。
開成高校、東京大学、京都大学大学院、オックスフォード大学への留学と、
絵に描いたようなエリート街道を歩み、将来を嘱望されていた長尾さん。
6歳から始めた碁の腕前も、とっくに趣味の域を超えていた。

 昨年まで名古屋大学の助教として携わっていた研究分野は、「多元数理科学」。
これも長尾さん自身の言葉を借りれば、「物理学の6次元を出発点に、新しい空間を調べていくと、
はじめの幾何学からは想像もつかないような構造が見えてくる……」のだそうだ。

 一般人には到底理解できない数学者という職業。
その驚くべき頭脳構造や碁との共通項に迫るべく長尾さんにインタビューしたかったが、
彼はもういない――。
昨年10月、「胞巣状軟部肉腫」と呼ばれる難病と16年にわたって闘った末、31歳の若さでこの世を去った。

 数学と囲碁。この先時間をかけて突き詰めたいことはいくらでもあったはず。
だが、もっとも志半ばで無念だったのは、愛すべき家族との人生設計だったろう。
妻の華奈さん(32)と息子の想太くん(3)との明るい未来が途絶えてしまったのだから。

 囲碁サロン(東京・千代田区)でインストラクターをする妻の押田(旧姓)華奈さん(32)はいう。

「彼はとにかく明るい人だったから大病をしていても暗い雰囲気はなかったし、
結婚して彼の留学先であるイギリスに滞在していたときは、毎日デートしているような気分でした。
子供ができてからも普通の家族以上にいろんな場所にも出掛けましたしね。
短い人生だったけど、常に家族想いで楽しい思い出をたくさん残してくれたことに感謝しています」

 病気とは無縁でも数学者と聞けば、気難しい性格でひとり自宅にこもっていつも研究に没頭している姿を想像しがちだが、長尾さんの人物像は正反対だった。

 2人の共通の知人である囲碁ライターの内藤由起子さんが話す。

「東大出身ともなると、長尾さんに限らず正解のある受験戦争を勝ち抜いてきた人ばかり。
でも、碁は他のゲームと違って相手を全滅しようとするとうまくいかないゲーム。
陣地を欲張らずに相手にも満足してもらい、
自分が少しだけ得するくらいがうまくいくようにできているので、平和なゲームともいえます。
エリートのみなさんにはとくに負ける経験も必要ですしね。

 だから、碁は人生を歩んでいくうえでも大事なことを教えてくれるのです。
囲碁には“敗着”はあっても“勝着”はめったにありません。
負けてもらうゲームなのです。
常に相手の立場で考えることで、相手の気持ちを労わる心も芽生える。
長尾さん夫婦はお互いに碁を通じてそんな他人を思いやる優しさが染みついていたのだと思います」

 現在、東大や早稲田、慶応、青山学院など15校以上の名門大学で、
正式な単位が取得できる一般教養課程として囲碁が採用されている。
現代の若者が答えのない社会で逡巡したとき、生きるヒントを得るために碁が有効だからだ。

 それは、碁の奥深さを伝える役目を担う押田さんも痛感している。
いずれは息子の想太くんに碁を通じて人生を教え、将来は親子で「ペア囲碁選手権」に出場したいと話す。そして、最愛の夫を亡くしたいま、自分自身の決意も新たにする。

「たまには教えるばかりではなく、真剣に打ち込んでみようかと思っています。
いつまでもクヨクヨせずに少しずつ前を向いて頑張るためには、
気持ちを落ち着かせて碁に没頭することも大事なのかもしれませんね」

 囲碁で育んだ大切な絆を心にしまいつつ、新しい自分と向き合うためにさらに碁を深めたい。
こんな健気な押田さんを、天国の長尾さんは優しい眼差しで見守っているに違いない。


「美人囲碁インストラクター」 押田華奈

2014年01月17日 00時08分57秒 | 雑学知識
 私の趣味のひとつに囲碁がある。そのおかげでこんな話を知ることができた。

 「美人囲碁インストラクター」 亡き夫は開成で伝説の天才だった

 NEWSポストセブン  取材・文/田中宏季
 http://www.news-postseven.com/archives/20140105_233774.html

 人生、「定石」通りに事が運ばないことは往々にしてあるが、囲碁が結んだこの2人の運命もまた、
打つ手、打つ手が効果なし。
ことごとく定石が通じない日々に、募る悲しみの深さは如何ばかりだったのか――。
その胸中を推し量ることはできない。

 ダイヤモンド囲碁サロン(東京・千代田区)でインストラクターを務める押田華奈さん(32)は、
昨年10月に最愛の夫を病で亡くした。

 長尾健太郎さん、享年31歳。病名は聞き慣れない「胞巣状軟部肉腫」。
いわば筋肉にできる珍しい癌で、1000万人に1.5~3人の確率でしか発症しない難病だった。
押田さんが振り返る。

「彼は15歳のときから発病していて、私と付き合い始めた頃にはすでに足に大きな手術の傷跡がありました。ただ、詳しい病名は聞きませんでしたし、彼も至って元気だったのでさほど心配もしていませんでした」

 2人が出会ったのは今から13年前。アマチュア日本一が主催する若手の囲碁研究会だった。

 当時、長尾さんは私立男子校の御三家、「開成高校」に通う3年生。
中学から高校にかけて出場した数学オリンピックでは、連続して銀メダル1つ、金メダル3つという
史上初の快挙を成し遂げ、「開成始まって以来の天才」とまで言われていた。

 一方の押田さんは慶応大学1年生。
2人を繋いだのは、ともに幼いころから習い始めた趣味の“碁縁”だった。

「子供のころから碁でできた友達は、なぜか気を許して長く続く関係の人が多かったんです。
彼も学業は優秀だったみたいですが、そんなところに惹かれたのではなく、
決して偉ぶらずに謙虚で優しい性格だったので……」

 と少し照れながら話す押田さん。その後、長尾さんは現役で東京大学に合格。
数学の研鑽を積んだ後、京都大学大学院に進学するも、2人の交際は遠距離恋愛で大事に育んでいった。
押田さんもまた、大学卒業後は囲碁の世界で身を固め、NHK囲碁講座や囲碁将棋チャンネルの司会に
抜擢されるなど、華々しい人生をスタートさせた。

 しかし、お互い自立した生活を送り「結婚」の二文字も意識し出したこの頃から、
長尾さんの壮絶な闘病生活が始まったという。

「結婚するなら彼が京大の博士号を取ってからと心に決めていたんです。
でも、25歳を過ぎてから彼の病気は肺に転移するなど進行が早まりました。
そのとき、初めて正式な病名も聞きました。
急いでネットで調べても症例が少なく治療法が確立していない。
転移がある場合は“予後不良”としか書いてありませんでした。難しい病気なんだなと……」

 両親の反対もあり、さすがに結婚を躊躇したとも打ち明ける押田さん。
しかし、最終的には自分の意志を貫き、2009年5月、晴れて「長尾華奈」になった。
なぜ、結婚を決意したのかと問うと、押田さんはしばらく考えた末にこう答えた。

「彼との付き合いは長く掛け替えのない存在ですし、もし私が病気で彼が元気でも、
きっと結婚してくれるだろうなと。
私の背中を押したのは、常に相手の立場でものを考える囲碁的な発想だったのかもしれませんね」

 結婚後、長尾さんは妻を連れてイギリスのオックスフォード大学に留学。
帰国後は名古屋大学多元数理科学研究科の助教として、数学者への道を一歩ずつ着実に歩んでいく。
2010年には待望の子供も授かり、家族3人で力強く生きていこうと改めて誓ったのも束の間。
すでに病魔は長尾さんの体中を蝕んでいたという。

「イギリス滞在中に脳に転移し、それからは心臓や目にまで……。
有効と思われる治療法はなんでも試し、数えきれないくらい手術もしたのですが、
昨年の6月以降は状況が悪くなる一方でした。
海外出張に出掛ける成田空港で意識を失ったり、言葉がうまく出せなくなったり。
それでも彼は弱音を吐かず、子供の成長を生きる希望にしていました」

 2013年9月、長尾さんはイギリス時代の研究成果が認められ、
日本数学会から名誉ある「建部賢弘賞」を受賞する。
だが、愛媛県で行われた受賞式が3歳の息子に見せた「かっこいい父親」の最後の雄姿となった――。

「息子はずっと『大きくなったらお医者さんになって、パパの病気を治すんだ』と話していましたが、
彼が亡くなってからは一切口に出さなくなりました。最近はよく数字を数えているんです。
それも間違えながら400、500まで。やはり父親の血ですね」

 そう言うと、それまで努めて明るく取材に応じていた押田さんの瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちた。

「これから先、囲碁の仕事をどこまで続けていくか何も考えられない状態です。
でも、私が彼と出会ったのも碁の縁ですし、子供にもいずれ碁を教えたいです。
そして、碁を通じて彼のように謙虚で、相手の立場でものを考えられる大人に育って欲しいと思います」


「時を越えた美しさの秘密」 サム・レヴェンソン

2014年01月15日 00時01分30秒 | 雑学知識
 オードリー・ヘプバーンが亡くなる前の最後のクリスマス・イヴに、
2人の息子、ショーンとルカに読み聞かせたという詩があります。
 これはオードリーが生涯最も愛した詩と言われていて、いつの間にかオードリー自身の詩として
知れ渡るようになったようなのですが、アメリカの詩人・サム・レヴェンソンの詩集
『時の試練を経た人生の知恵』に収録されているものです。
 オードリーは言っています。
「確かに私の顔にはシワが増えたかもしれません。でも私はこのシワの数だけ優しさを知りました。
だから若い頃の自分より、今の自分の顔のほうがずっと好きですよ」

 「時を越えた美しさの秘密」

 魅力的な唇であるためには、美しい言葉を使いなさい。
愛らしい瞳であるためには、他人の美点を探しなさい。
スリムな体であるためには、飢えた人々と食べ物を分かち合いなさい。
豊かな髪であるためには、一日に一度子供の指で梳いてもらいなさい。
美しい身のこなしのためには、決してひとりで歩むことがないと知ることです。

 物は壊れれば復元できませんが、人は転べば立ち上がり、
失敗すればやり直し、挫折すれば再起し、間違えれば矯正し、
何度でも再出発することができます。
誰も決して見捨ててはいけません。
人生に迷い、助けて欲しいとき、いつもあなたの手のちょっと先に
助けてくれる手がさしのべられていることを、忘れないで下さい。

 年をとると、人は自分にふたつの手があることに気づきます。
ひとつの手は、自分自身を助けるため、
もうひとつの手は他者を助けるために。

 女性の美しさは 身にまとう服にあるのではなく、
その容姿でもなく、髪を梳くしぐさにあるのでもありません。

 女性の美しさは、その人の瞳の奥にあるはずです。
そこは心の入り口であり、愛情のやどる場所でもあるからです。

 女性の美しさは、顔のほくろなどに影響されるものではなく、
その本当の美しさは その人の精神に反映されるものなのです。
それは心のこもった思いやりの気持ちであり、時として見せる情熱であり、
その美しさは、年を追うごとに磨かれていくものなのです。

 - サム・レヴェンソン

 「Time Tested Beauty Tips」

 For attractive lips, speak words of kindness.
For lovely eyes, seek out the good in people.
For a slim figure, share your food with the hungry.
For beautiful hair, let a child run his fingers through it once a day.
For poise, walk with the knowledge you’ll never walk alone …

 People, even more than things, have to be restored, renewed, revived,
reclaimed and redeemed and redeemed …
Never throw out anybody.

 Remember, if you ever need a helping hand,
you’ll find one at the end of your arm.
As you grow older you will discover that you have two hands.
One for helping yourself, the other for helping others.

 The beauty of a woman is not in the clothes she wears,
the figure that she carries, or the way she combs her hair.

 The beauty of a woman must be seen from in her eyes,
because that is the doorway to her heart,
the place where love resides.

 The beauty of a woman is not in a facial mole,
but true beauty in a woman is reflected in her soul.
It is the caring that she lovingly gives, the passion that she shows,
and the beauty of a woman with passing years only grows!

 - Sam Levenson

「語り婆(ばっぱ)を送る」 池田 香代子

2014年01月13日 00時40分06秒 | 民話(語り)について
 「語り婆(ばっぱ)を送る」 池田 香代子のブログより 2010年9月21日

http://blog.livedoor.jp/ikedakayoko/archives/51476712.html

 婆(ばっぱ)と言うにはたおやかすぎます、櫻井美紀さん、きのうはあなたを送る会でした。
それにしても、献花を待つ間のあのおしゃべり! 
あなたの精神的な妹や娘たちと、少数の兄や息子たちの、まあかまびすしいこと。
あなたは、「あらまあ、ほんとに語りの好きな人たちだこと」と面白がっていらしたでしょうか。
紅薔薇が足りなくなり、一度献花されたものをそっと使い回していたのを、私は見逃しませんでした。予期せぬほどたくさんの方がたが、全国からお集まりだったのです。

 初めてお会いしたのは、20数年前、奈良で開かれた学会でしたか。あるいは松江だったでしょうか。あなたは、日本の昔話と思われていた「大工と鬼六」は、
明治期にノルウェイの聖者伝を翻案したものだ、ということを鮮やかに立証したばかりでした。
いつかきっと私もこんな論文を書いてみたい、と胸躍らせて拝読したものです。
懇親会で、あなたがほかの方とお話しなさっているのにぴったりとくっついて、
ひと言も聞き逃すまいと耳をそばだてていました。
そのうち、私に向けて、「私ね、語り婆(ばっぱ)の会をやってるの」とおっしゃいました。
私は一も二もなく、入れてください、と言ったのでした。

 それは、学校などで語り聞かせをしたり、集まって語りを楽しんだりする方がたの勉強会でした。
私は、そうした実践はやらないくせに、理屈ばかりこねていました。
そんな私をあなたは面白がり、グリムについてなど、話をする機会を設けてくださいました。
「語り手たちの会」は、あなたの感化力と努力、忍耐力と組織力で全国に会員を増やし、
海外との交流も年々盛んになり、NPO法人となって今日に至っています。
もちろん、会にはあなたに劣らず優秀で献身的な方がたがたくさんいらして、
それらの個性のぶつかりあいから、語りの考え方も会の進む方向も生まれていったのですが、
それでも、あなたのキャラクターなしには考えられないなりゆきであったと、私は思います。

 あなたからは、厳しさを求められているような気がしていました。自分にたいする厳しさです。
あなたご自身が、自分に厳しい方でした。でも、当たりはあくまでも柔らかく、優雅でした。
ささやかなもの、軽やかなものを愛し、でも浅いものやまやかしは峻拒なさいました。
テクストのあるものを語る時は、テクストを一字一句違えてはならないというのが、
語りの世界の主流をなすなかで、あなたが勇気をもって異議を唱える反主流だったことも、
これと無縁ではありません。

 私も私なりの思考の経路をたどって、同じ見解に達していました。
人が、この話を語りたい、と思う時、その話にはその人のなにがしかがあらかじめ語りこめられている、それが何かは本人にも明らかではないばあいがむしろ多い、
伝承物語には、そうやって無数の人びとの生のなにがしかが、
多くは無意識のうちに無数回語りこめられ、話のいのちとして息づいている、
話のいのちのありかをおのおのの語り手がそのつどさぐりあて、それに新たないのちを吹きこむのが、語りという行為だと、私は思うのです。

 中略

 ですから、あなたや会や、そして私の考えだと、てにをはまで丸暗記してテクストどおりに語るなど、ありえないことです。
字面にとらわれるのは浅いことなのだと、心にもないまやかしを語ることになるのだと、
あなたはおっしゃるでしょう。
あなたは、語りは創造であり、語り手はクリエイターだ、ともおっしゃいました。
あなたの主催する語りの勉強会では、自分の経験を物語に構成して語ることが課されましたが、
それもまた、伝承の中に自分を見出し、伝承を自分の物語として語ることへの、
逆方向からの重要なアプローチなのでした。すべての語りは「わたくし語り」なのですから。

 中略 

 あなたはたくさんの人びとの憧れの的でした。私も憧れを寄せるその他大勢のひとりでした。
あなたは私の持っていないものをすべてお持ちでした。
文庫を開けるほどのお金と自宅、経済力も理解もあるおつれあい、決定的なのはお育ちのよさ。
あなたは、「大工と鬼六」の次に飛騨高山の「味噌買橋」に着目し、現地にも足を運んでおられました。「いっしょに行きましょうよ」と言ってくださいましたが、生活に追われていた私は、
さびしく諦めるよりありませんでした。
その「味噌買橋」のルーツをイギリスの民話に同定した論文もおみごとでした。

 さらには、水茎(みずぐち)うるわしいその筆跡、優美なしぐさとたたずまい、
美しい声とおっとりとした日本語は、誰にもまねのできないものでした。
そのパロール(音声言語)は、語りだけでなく学会発表でも議論でも、
うっとりと聞き惚れさせる魅力にあふれていました。
あなたが絶世の美女を語る時、あなたは絶世の美女以外のなにものでもありませんでした。
そんな語り手は、残念だし悔しいことに、ほかにはいないと思います。

 中略

 司会の大島廣志さんが最後におっしゃったことはほんとうです。
私も言います、あなたにお会いできたことは私の名誉です、と。
ありがとうございました。櫻井美紀さん、77歳なんてあまりにも早すぎるお別れですけれど、
悔やんでも今となっては詮ないことです。今ごろあなたは、あなたの夕顔のように、
さばさばと笑っておられるのでしょうか。

合掌