民話 語り手と聞き手が紡ぎあげる世界

語り手のわたしと聞き手のあなたが
一緒の時間、空間を過ごす。まさに一期一会。

「たかが眉毛、されど眉毛」 タンザニアの民話

2014年01月11日 00時17分05秒 | 民話(おとぎ話・創作)
 「アフリカの民話」 島岡 由美子 (ネットより)

 タンザニアでは、昔話は今でも本で読むものではなく、誰かが語るのを聞くもの。
だから、必ず語り手と聞き手の掛け合いで始まります。
その合い言葉は地方によって違いがありますが、一般的なのは、語り手が「パウクァー」と呼びかけ、
聞き手が「パカワー」と応えてから話し始めるパターン。
意味は、「お話始めるけど、準備はいいかい?」
「準備は万端、楽しいお話聞かせてね」といったところのようですが、
お話を語るとき以外は使われません。

 今回は、まゆ毛をテーマにしたお話です。
太さや形の違いはあれ、誰の顔にもあるまゆ毛。
目はものを見るための器官、鼻は息をしたり、匂いをかぐための器官、口は物を食べたり飲んだりする
ための器官ということは誰にでもわかりますが、まゆ毛は一体どんな働きをしているのでしょう?
 目や鼻や口に比べると、必然性は薄いという感じが否めないこのまゆ毛、
それでも人間の顔についているのはなぜでしょう?

 民話には、この素朴な「なぜ?」「どうして?」の疑問に答えてくれるものがたくさんあり、
これを因果話といいます。
 因果話とは、ある物事がどうして現在こうなっているのかという原因を述べる話で、
象の鼻はなぜ長いかとか、亀の甲はなぜひび割れているのかなどについて、
そもそものいわれを説くもので、広義の自然科学にわたるものです。

 さて、今回は、ザンジバルのお話名人ビニョニョおばあちゃんから聞いた
「どうして人の顔にはまゆ毛がついているのか?」というテーマのお話を紹介しましょう。

 「たかが眉毛、されど眉毛」 タンザニアの民話

 『ザマニ ザ カレ(昔々)、あるところに、大酒のみの男がおった。
男は、酒を飲むと、大声でわめきちらす癖があった。

 ある時、男は酔っ払って、こんなことを言い出した。
「目はものを見るのに必要だ。鼻は匂いをかぐのに必要だ。
口は物を食べるのに必要だ。だが、まゆ毛は一体何の役に立っているのか? 
まゆ毛なんか、あったってなくたって、意味がない。
俺は、この役立たずのまゆ毛をそり落とすことにする」

「神様が人間に与えてくださったもので、意味のないことなど1つもない。
まゆ毛にだって、きっと何か意味があるはずだ。
神から授かったまゆ毛をそり落とすなどという大それたことをしたら、必ず神のお怒りに触れるぞ。
そんなばかなことはやめておけ」
と、周りの人々は一生懸命いさめたが、男はますますいきり立ち、床屋の剃刀をふんだくると、
本当に自分のまゆ毛をばっさりそり落としてしまった。

「ワッハッハ。神が何だ。まゆ毛が何だ!」
男は、まゆ毛のない顔で言い放つと、ゴーゴーいびきをかいて眠ってしまった。

 翌朝、男はいつものように目覚めると、仕事に出かけた。
普段どおりの道を歩いていたが、その日はどうも周りからの視線が気になる。
女子供は露骨に怯え、男の顔を見て泣き出す赤ん坊までいる。
その上、やたら日がまぶしくて、いつもなら眉をしかめればやわらぐまぶしさも、
その日は一向に和らぐ気配がない。

 目をしかめながら歩いているうちに、汗がだらだら出てきて、やたら目に流れ込み、
目にしみて困った。
修繕途中の家の前を通ると、上からかんなくずが落ちてきて、目に入って痛くてたまらない。
男はもうたまらんと、仕事に行くのをやめて家に帰ってしまった。

 男は、家に帰って、鏡に映った自分の顔を見て驚いた。
まゆ毛がないだけなのに、別人のように怖い顔になっていた上、目が真っ赤に充血していたのだ。
でも、男はまだこんなことを言って笑っていた。
「ふん、どうせ、まゆ毛なんて1、2週間ではえてくるさ」

 しかし、どうしたことか、男のまゆ毛は2週間経っても全くはえてこない。
1カ月経っても3カ月経っても全然生えてこない。
外を歩こうにもまぶしいわ、汗は目に入るわ、ゴミや埃がやたら目に入るわで、
楽しいことが一つもない。
しかめっ面をしたまゆ毛のない男の怖い顔に、子供達はおびえ、
人々もだんだん寄り付かなくなっていった。

 男はだんだん無口になり、酒もやめ、外にもめったに出なくなった。
どうしても外に出なくてはならないときは、帽子を目深にかぶって、
人目を避けながら歩くようになったとさ。

 たかが、まゆ毛、されどまゆ毛。
偉大なる神がすることには、意味なしのことなどなんにもありゃしない。
まゆ毛にだって、ちゃんと意味があるのさ。

 眉毛の話は、これで、おしまい』

「お話を文章通りに覚えるの?」 櫻井美紀

2014年01月09日 00時48分02秒 | 民話(語り)について
 「お話を文章通りに覚えるの?」 櫻井美紀

 私の語った物語について、「その物語(民話)を、私も覚えて語りたいと思います」
といわれることが度々あるのですが、その度に私は心の中で
「え? 一字一句、文章の通りに覚えたいの?」と思ってしまうのです。

 私は文章になっている物語を語るときに、何度も本を読んで語句や言い回しを確かめることは
ありますが、それは文を暗記するのとは違うのです。
語るときには、常にどこかを変えて語っています。
そのときそのときに、語る内容のイメージに合う適切な言葉を探し求めて語っていることに気付きます。

 民話を語る人は、自分ではそれと気付かずに、聞き手に合わせて言葉を変えたり、一部を省いたり、強調するところを新たに創ったりしています。
民話は語り手の個性が少しずつ加わり、ゆるやかに姿が変わります。
創作の物語も、語る場と聞き手に合わせて少しずつ変わっていきます。
 
 語りは変わるのが当たり前、と思うのです。
「その物語(民話)を、自分なりに語ってみたい」という言い方をしていただいた方がよいように
思うのですが……。


 

「老いらくの恋」 川田 順

2014年01月07日 00時06分54秒 | 雑学知識
 「老いらくの恋」 川田 順
  
 若き日の恋は、はにかみて おもて赤らめ、壮子時(おさかり)の
 40歳(よそじ)の恋は、世の中に かれこれ心配(くば)れども、
 墓場に近き老いらくの 恋は、怖るる何ものもなし。(「恋の重荷」序 )

 「老いらくの恋は怖れず」「相手は元教授夫人・歌にも悩み」「川田順氏一度は死の家出」。
昭和23年12月4日「朝日新聞」社会面のトップ、三本の見出しが躍った。
 明治15年、東京浅草に宮中顧問官の三男に生まれる。
40年、東京帝国大学法科卒業後、住友総本店(大阪)に入社。以来、関西に居住。
昭和11年常務理事を最後に同社を退くまで、財界の第一線で活躍した。
一方、歌人としては中学時代に、佐々木信綱に師事、歌集『伎芸天』(大7)、「鷲」(昭15)、
また歌論『幕末愛国歌』(昭14)、『定本吉野朝の悲歌』(昭14)等、著作も多数あり、
歌壇の重鎮でもあった。
 昭和14年、妻和子が病死。翌年、京都北白川の養嗣子宅隣りに新築した「夕陽居」に移住、
余生をひとり気ままに歌作、研究に打ち込んでいた。そのときに出会いがあった。

 昭和19年5月、順は知人宅で若く美しい人妻に紹介される。
元京大教授、経済学博士、中川与之助夫人俊子である。俊子は歌を書いていて、まもなく順の弟子となる。
以来、二人の行き来は急速に繁くなる。事態は進展する。そうして丸三年遂にである。
「昨年(22年)5月の某日、遂に抑制することが出来なくなつて、愛情を打ち明けると、
××さんは受入れてくれた。「宿命」の手が表面に出て来たのである。
「主人にすみませんが、致し方ありません」と再三言った。
私の強い愛に負けたといふ姿であつた」(「死脉」、文中の「××さん」は俊子)

 こうなればいつか人の目に触れぬはずがない。しかもいっとう悪いことになんたる。
「7月3日の夜ふけ、疎水の板橋にかがみ、二人で満月を眺めてゐると、
折しも外出先から帰つて来た博士に見つけられた。
さすがの寛容の博士も、二人の関係を直覚して心頭に怒りの火を発したらしい。秘密は露顕した」(同)

 このとき順は皇太子殿下(現、天皇)御作歌指導掛をし、三大紙の歌壇選者を歴任している。
いっぽう俊子には夫と三人の子女がいる。これは許される関係ではない。俊子もまた苦しむ。

 露顕(ろけん=露見)以後、二人は「今後は決して逢はぬこと」(同)を博士に誓言した。
だがどうしても逢わずにいられない。ここに掲げる歌をみよ。二人は夜を避け昼日中に逢瀬を重ねる。
いましも親しく肌を触れ合い、戻るや恐ろしく、天の怒りか雷がとどろく。
 23年7月、俊子は家を出て母のもとに身を寄せる。8月、離婚成立。
これは望む事態であったが、ことが正式に運んでみると、なおさらに罪の意識をおぼえる。

 11月30日、順は吉井勇、谷崎潤一郎ほか友人、知己に「遺書」を送り、
同時に遺稿として「弧悶録」なる心境告白記と前掲の「恋の重荷」なる長詩を、
東京朝日新聞の出版局長に届ける。
翌12月1日、自殺を図るも未遂。これに新聞が飛びついた。
「老いらくの恋」は流行語になる。ところで恋の行く末はいかに。

 自殺未遂の報から二週間、12月15日「朝日新聞」は報じている。
「夕映えの恋に勝利、川田順結婚を決意、再生の大手術だつた」。
ときに順67歳、俊子39歳である。
 24年3月、結婚。京都を発って、神奈川県小田原市国府津に帰住。27年、藤沢市辻堂に移る。
この地で俊子の献身に支えられた安穏な晩年を送る。

 41年、長逝(ちょうせい=逝去)。享年84。
 俊子は鈴鹿俊子の名で、作歌活動を続け、2006年、96歳で死去。

「木曽馬について」 ネットより

2014年01月05日 00時13分52秒 | 民話の背景(民俗)
「木曽馬について」 ネットより

 「昔は、百姓は馬のおかげでいきていたようなもので、人間が馬に生かされていたようなもので、
嫁が亭主より馬を大事にしたというのも、まるっきり作り話ではないんです。」
 木曽馬保存会会長:伊藤正起さん談

 <馬の住居>
 木曽馬を多く飼育していた木曽の山村では、厩(うまや)は人間の住む家と同じ棟の中にありました。
いわば人間の住む家の一部が厩になっていたのです。
そしてそれは、南側の日当たりの良い、一番温かいところに位置していたのです。

 <馬の看病>
 馬は家族の一員でした。馬が病気にかかったときなどは、家族が病気にかかったのと全く同じように、
あらゆる手だてを尽くして看病しました。
厩に厚く藁を敷き、その上に毛布を広げて、人間が馬と一緒に寝て看病したり、
至れり尽くせりの手当てをしました。
 

 <子馬の祝い>
 なにしろ大切な馬です。
子馬が生まれると、人間の赤ん坊の誕生と同じように、赤飯を炊いて祝いました。
 木曽馬が、おとなしくて「子供でも引いて歩ける」と言われる温順な性格なのは、
こうした長い年月にわたって、木曽の山村農民に、いつくしみ育てられた結果です。

 <馬頭観音>
 こんなにも大切にしていた馬が、病気や怪我などで死んでしまうと、
飼主は家族の一員を失ったように悲しみました。
 遺体を定められた馬墓地に運び、丁寧に埋葬します。
その後、馬の霊を供養するために、馬頭観音の石碑をたてます。
野辺の馬頭観音の石碑は、いわば馬の墓石なのです。

 <馬と猿の話>
 絵馬を見ると、必ずといっていいほど、猿が馬の綱を引いています。
あれは、馬と猿は非常に仲が良いことを示すものだそうです。
 馬が病気で元気がない時、猿を馬屋に入れてやると、馬は喜んで元気になり、
軽い病気なら治ってしまった、とも伝えられています。

 <馬小作制度>
 天保年間(元1830年)後の『馬小作制度』の起源となった、
預り馬、預け馬が盛んに行われるようになります。

『馬小作制度』
大正時代、当時の農商務省による全国各地の主要馬産地調査の際、木曽谷のこの特異な馬の貸借制度は、
こう名付けられた。
以来、馬の所有者を『馬地主』、借りている農民を『馬小作』と呼ぶようになった。

 当時の山村農民が、馬なくしては生きて行けない事や、
村の農民には自分で馬を所有するだけの資力がなかった事などが、
この制度が盛んになった理由だったと思われます。
 この制度の発生で、当時の木曽の経済社会は多様化します。

○馬を有利な投資対象として、競って馬を預ける商人達。
○薬種業や医者など、特殊な家業で得た資金を馬に投資して、大馬地主になった者。
○馬持ちと馬持ち、飼育馬主と馬持ちの間をとりもつ博労(馬喰)という小馬持ち。
○山林を売って得たお金を、馬に投資した中小馬持ち。

 しかし、山村農民にとっては、生きるために大事な制度ではあったものの、
それによって暮らしを良くし農業生産を高める、というような事には、ならなかったようです。

「女の入口」 佐野 洋子 

2014年01月03日 00時32分03秒 | エッセイ(模範)
 「女の入口」 佐野 洋子  「覚えていない」より 2006年 マガジンハウス

 私は息子が九歳の時、たずねた。息子は一心不乱に好物のポテトコロッケを食っていた。
「ねえ、あなた、大きくなってお嫁さんをもらう時にね、一人はすごーく美人でね、それが意地悪で、
バカで欲張りで、わがままで悪(わ)るーい奴なのね。
もう一人はブスで、優しくて、頭がよくて素直で、すごーくいい人なのね。
それでどっちもあなたのお嫁さんになりたいといったらどっちにする」。
息子はコロッケを食うのをやめた。そして、じっと皿を見てて、非常に非常に長い間沈黙した。
そして私の目をひたと見て、
「あの、ブスって、前に居たら、ごはんもたべられない位?」

 九歳の息子は、飯が食える位のブスだったら根性曲がりの美人より、
心優しい賢い女を選んだんだろうと思った。
しかし、あの長い長い沈黙の時、息子はコロッケを食べるのをやめて、
のたうち回って苦悶した事は明らかであった。

 九歳の息子が、苦悶したのは偉いと今でも思うが、長ずるに従って、
息子は苦悶なんぞピタッとやめたのである。
十五、六歳になると、どんなパンパラパーであろうと、根性曲がりであろうと、
見てくれだけを重んじるようになったのである。
色気づいて来た仲間に一言、「やめろよ、あんなブス」と平然と放言する様になった。
「ブルータスお前もか」

 私の苦悩は深まるばかりである。
「あんたらね、一生とり返しのつかない失敗をするよ。美人はね、パーにしかならないんだよ。
賢くなるチャンスがないの。チヤホヤされて、自分勝手にしかなれないんだから、
そんなのに目がくらんで、一生のドジをふむことになるんだから」
「だってさあ、小母(おば)さん、ブスは、利口になるより外、道がないじゃん」

 私は絶句した。さらに青少年の一人は言った。
「小母(おば)さん、ブスってさあ、ちょっと入口が違うんだよ。
ブスだとさあ、何となく安心して友達になりやすいんだけどね、それ、女の入口がちょっと違うんだよ」

 目からうろこが落ちたかと思った。私の沢山の沢山の男友達。
私はそれを自慢たらしく私の人格優れたる故(ゆえ)と思って、それにすがって生きて来た。
あれは全部違う入口から入って来たのか。
そういえば、男友達が多い割りに、色恋沙汰の少ない人生であったとは思ったが、
口は奥歯が歯ぎしりをしている。歯ぎしりをしても時は過ぎ去り、
私は、違う入口からのお客様のおもてなしに半生以上をついやして来てしまったのである。
しかし、馬鹿な知恵の足りない若造の言う事である。大らかに笑って暖かく見守ってやろうと思う。

 後略