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民話 語り手と聞き手が紡ぎあげる世界

語り手のわたしと聞き手のあなたが
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「書く力は、読む力」 その3 鈴木 信一

2017年01月21日 00時33分58秒 | 文章読本(作法)
 「書く力は、読む力」 その3 鈴木 信一(1962年生まれ、公立高等学校に勤務) 祥伝社新書 2014年

 書くことに必要な要件は、読むことです。本をたくさん読むということではありません。自分がたったいま書いたものを読んで、何を書き、何をまだ書いていないかをしっかり見きわめることです。そうすれば、書くべきことは見えてきます。もっといえば、書いてはいけないことが見えてくるのです。P-148

 文章というのは、書きたいことを書くものではないということです。「こう書いた以上は、次にこう書かなきゃまずいんじゃないか?」――そうやって先に書いてしまったことを振りかえりながら、書きたいことではなく、書くべきことを書く。それが、書くことの基本操作です。
 したがって、自分の書いた文章をちゃんと読めない人は、ちゃんと書けないということになります。P-151

 じつは「リレー作文」には、書くことの原理的な秘密がいくつか隠されています。
 まず一つは、「書き継ぐことで書くべきことは見えてくる」という原理です。これはすでに述べたことですが、不足が埋まることが永遠にないなら、書くべきことも永遠になくなりません。そして、そうやって文をつないでいけば、必ず何かの世界が切り開かれます。ただ、問題はそのつなぎ方です。
 前後に矛盾がなければいい、整合性が保たれればいい、たしかにそのとおりなのですが、その結果、話が平凡な因果律の中に収まってしまうなら、その話は退屈なものになるでしょう。一人で文章を書き綴るとき、私たちは得てしてそういう毒のない平凡に陥ります。P-163

「書く力は、読む力」 その2 鈴木 信一

2017年01月19日 00時29分54秒 | 文章読本(作法)
 「書く力は、読む力」 その2 鈴木 信一(1962年生まれ、公立高等学校に勤務) 祥伝社新書 2014年

 文は必ず何かが足りない形をとりますから、疑問はいくらでも抱くことができます。しかし、その一つ一つに対応していたら、「読み」はかえって複雑怪奇なものになってしまいます。その軽重を見きわめ、一番に解決すべき疑問――すなわち「主題」は何かを見誤らないことがまず大事になります。
 そして、先を読み急ぐのではなく、疑問を抱いたらそれに対する答えを自分なりに用意する。このことはもっと大事になります。そういうひと手間を加えた人は、疑問が解決される個所に来たとき、それをけっして見逃しません。その問題に対する意識が高まっていますから、「読み」の感度も上がるのです。P-116

 そもそも、ひと言で片づくような話は主題になりません。文章に書かれることさえないのです。小説にしろ、評論にしろ、それが一定の字数を費やしてなされるのは、そうしなければ伝えられない何事かをそこに含んでいるからです。そして、その「何事か」こそが主題と呼ばれるものです。P-119

 文をつないでいく力――。これはいわば、「書くこと」における調整力のことです。文と文との関係が不自然でないかを見きわめる力です。一方、「読み」の調整力とは、文と文の関係を見定め、自分がいま何を読んでいるかを見きわめる力です。どちらも基本的には同じ力です。「読みの調整力」が備わっている人は、したがって、いざ書き手になれば、「書くことにおける調整力」もちゃんと発揮するものなのです。P-134

 一文を読み切る――。これは日本語を自分の中にいちど潜らせるということです。
 そうすることで、日本語なり日本語の型は、文字どおりその人の中に沈潜し、血肉化していきます。あとは歩みや呼吸と同じで、文はその人の生理的な好みに沿う形でおのずとひねり出されます。個人の文体はそうやってつくられるのです。P-138

「書く力は、読む力」 その1 鈴木 信一

2017年01月17日 22時59分39秒 | 文章読本(作法)
 「書く力は、読む力」 その1 鈴木 信一(1962年生まれ、公立高等学校に勤務) 祥伝社新書 2014年

 文は必ず「何かが足りない形」をとります。そして、「その足りない何かを埋める」ために次の一文は書き足されるのです。P-95

 こう書いた以上は、次にこう書かなきゃまずいんじゃないか?――そういう論理のささやきに耳を澄ましながら、私たちは書くことをなかば自動的に進めていく。これが書くことのメカニズムです。P-98

 書くことに必要な力があるとすれば、それはまず、前の文(書いてしまったこと)との整合性を保ちながら、文をつないでいく力だということになります。P-99

 不足を見きわめ、それを埋める文を追いかける。これが「読み手」の基本操作ですが、不足は埋められながら、一方でどんどん増えてもいきます。そのいくつもの不足の中で、一番に追うべきものはどれか。それが文章における「主題」です。その主題への見きわめがないと、「読み」は散漫なものになってしまうのです。
 もっとも、「読み」に無自覚な人はいて、そういう人はいつだって漫然と文字を追います。印象に残った言葉だけを野放図に頭に放り込んでいくというやり方です。当然、「主題」への気づきは鈍くなります。
 何よりも問題なのは、そういった「読み」をしているかぎり、けっして書ける人にはなれないということです。どういうことでしょうか。
 不足を追う習慣のある読み手が心に刻むのは、「印象に残った言葉」ではありません。「来てもらわなければ困る言葉」です。こう書いてある以上は、次にこう書いてもらわなければ困る。そうやって「来てもらわなければ困る言葉」を待ち構えるわけです。これは、書き手の「こう書いた以上は、次にこう書かなきゃまずいよな」と思って文をつないでいく意識と同じものです。
 つまり、すぐれた読み手というのは、読みながらにして同時に書いてもいるということです。したがって、いざこの小説の続きを書けといわれても、さほど困ることはありません。ここまでこう書いてある。だったらこの次はこう書くのが自然だろう。いやそう書くべきだ。そうやって、書かれてあることの中から書くべきことを引き出せるものだからです。P-108

「もののはずみ」 その2 堀江 敏幸

2017年01月15日 01時18分59秒 | 生活信条
 「もののはずみ」 その2 堀江 敏幸(1964年生まれ、作家、早稲田大学教授)  角川文庫 2009年

 「もの」の「はずみ」――あとがきにかえて

 こんながらくたばかり集めてなんの役に立つのか?社会的には、もちろんなんの役に立ちはしない。さらに言えば、手に入れた「もの」をなにかに用立てようなどと考えた時点で、真の「物心」を失ったも同然なのである。ただし、買った当人には精神衛生のうえでたいへんよい効果があるにはちがいなくて、そうでなければやむをえず処分したり人に譲ったり押し入れに眠らせたりするのを上まわるリズムで古くさい「もの」に触れたりするはずはないし、ごく私的な生活圏のなかでは、やっぱりそれなりの役には立っている、と言ってもいいのではあるまいか。

 実際に使っている「もの」も、見ているだけの「もの」も、特定の生活空間に呼び込まれてはじめて息を吹き返す。ずっとそこに置かれたままで力を発する場合もあれば、あちこち移動し、隣りあうなにかとの関係のなかで、それまでの自分にはないあたらしい文脈を発見している場合もある。彼らのしずかな変幻を見守ることも、「物心」のおおきなはたらきのひとつなのだ。つまり、「仏心」ならぬ「物心」とは、「もの」を買ったり愛でたりすることと、かならずしも一致しないのである。どんなに生き延びようとするとき、他のだれかのもとではなくこの自分のところにやってくることになったいくるもの偶然の重なりと、そこに絡んでいた人と人のつながりをこそ、「物心」あらんと欲する私たちは愛するわけで、もしかすると、「物」じたいより、背後にあるさまざまな「物」を語ることのほうを、物語のほうを大切にしているのかもしれないのである。

「もののはずみ」 その1 堀江 敏幸

2017年01月13日 00時18分27秒 | 生活信条
 「もののはずみ」 その1 堀江 敏幸(1964年生まれ、作家、早稲田大学教授)  角川文庫 2009年

 多情「物」心 P-10

 どうしてなのかはわからないけれど、子どもの頃から身のまわりに存在する日用品、電化製品、文房具、玩具といったあらゆる種類の「もの」に関心があった。
 雑貨店の飾り棚を冷やかし、輸入品のオーディオがならんでいる電器店で軽自動車が買えるような価格の製品にこっそり触れながらカタログを集め、学用品だけでなく事務機器も取りそろえた文具店で消しゴムを選びつつ隅々まで商品を検分し、天井から鍋やらやかんやら針金やら、脈絡を欠いたいろんなものがぶら下がっている金物屋に入り浸って無尽蔵の品々をあかずながめたりしたものだ。

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 しかしそこにはひとつ、はっきりした好みがあった。自分と同時代に生まれたきらびやかなものではなく、また極端に古くて実用に耐えないものでもなく、以前はよく見かけたけれど、最近ではすっかりすがたを消してしまった、「ほんのちょっとむかしの」製品のほうに関心があったのである。だから私の眼が惹きつけられるのは、棚の隅でほこりに覆われている不良在庫や、生産中止になった商品のカタログのたぐいだった。
 当然ながら、あたらしい商品を扱う店だけでは満足できなくなってくる。やがて買うためにというより、もっぱら目を喜ばせるために、古物を扱う店に出入りするようになった。いわゆる鑑定士を必要とする高価な美術品や、ほんとうの意味での掘り出しものではなく、せいぜい20年から100年くらいまえの、はたから見ればただのがらくたにすぎない中途半端なものたちの集まってくる店に。

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 捨てられはしたけれど破壊はまぬかれた、近い過去の生活用品には、独特の表情がある。元の所有者たちの生活の匂いが、設計者や製造者の顔が透けて見える。それらが引きずっている人々の過去に、感情に、もっと言うなら、「もの」じたいが持っている心、すなわち「物心」に私は想いをはせる。実際に使用し、目に見える場所に置いてやることで、生きられた時間をよみがえらせるのだ。「物心」は国を越える。

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 以下に読まれるのは、主としてフランスで出会った「もの」たちについての、他愛のないひとりごとである。