摂津三島からの古代史探訪

邪馬台国の時代など古代史の重要地である高槻市から、諸説と伝承を頼りに史跡を巡り、歴史を学んでいます

姫嶋神社(ひめじまじんじゃ:大阪市西淀川区)~゛アカルヒメ命゛が実際にやりなおしたらしい事

2022年09月07日 | 大阪・南摂津・和泉・河内

 

主祭神アカルヒメ命の渡来のご由緒にあやかって「決断と行動の神様」として自立した女性の心願成就や、さらにこの地で再出発をされた姫神にちなんだ「やりなおし神社」としての再起復活など、現代人としては時としてすがりたくなるご神徳を掲げる神社です。新たな目標を目指すために断ち切らなければならない事柄があれば、「赤玉」に念じて「はじまりの碑」の穴に投げ通し、「帆立絵馬」を碑にかければ、背中を押してくれるといいます。そのようなユニークな御祈願で親しまれている神社ですが、なかなかその創祇起源はおぼろげ、複雑で興味を注がれます。 

 

・スポットが散りばめられた境内。近代的な建物は社務所です。右端は昔の敷石を石壁にした「長続き石」

 

【ご祭神・ご由緒】

阿迦留姫(アカルヒメ)命と住吉大神、そして神功皇后を祀りますが、神社名の゛姫゛とは言うまでもなくアカルヒメ命の事です。この姫神のご由緒は、鶴橋の比賣許曾神社と同じです。「古事記」の応神記によれば、新羅の国の沼のほとりで一人の女が日光を女陰に受けて妊娠(日光感情説話と呼ばれる)、生まれた赤玉がアカルヒメ命です。その姫を天日矛命が妻にしますが、その夫につらくあたられるようになった姫は一大決心し、゛祖国゛だとする難波に来て「比売許曾神社」に祀られた、というご由緒になります。

同様に朝鮮半島から姫が渡って来る話としては、「日本書紀」の都努我阿羅斯等や、「摂津国風土記」逸文での新羅の女神が筑紫国を経由してくる話、そして「三国遺事」の延鳥郎・細鳥女の話があることから、非常に強い朝鮮・新羅系渡来人達の信仰が大元になっているようで、アカルヒメ命にちなむ有名な神社としては、比売許曽神社を始めとして当社や平野区の赤留比売命神社が大阪市内に集まっています。その中で比売許曾神社の方は、日妻(ヒルメ)的要素の共通性から、国津神の下照姫にご祭神が変わっただろうと「日本の神々 摂津」で大和岩雄氏は考えておられました。

 

・拝殿

 

【赤玉説話】

三品彰英氏によれば、アカルヒメ命の赤玉誕生説話は「日光感情卵生型」と呼べるものであり、「蒙古・満州系諸族の伝承」の日光感情要素と、「南方海洋方面の諸民族の間の伝承」される卵生要素の複合型とみる考え方が有るようです。その卵生要素を示すものに、「古事記」の仁徳天皇記での日女島で雁が卵を生む件があります。平野邦夫氏は、これは新羅や加羅の始祖王誕生の卵生説話を、「帰化人」が五世紀初期にもたらしたものであり、その「帰化人」を秦氏と見られました。

「日本書紀」では同天皇紀に、゛茨田堤で雁が卵を生んだ゛という話になっています。茨田堤を築いた茨田氏と秦氏が関係有る事を堤根神社の記事でも記載しましたが、とにかく赤玉説話は五世紀の朝鮮渡来人や難波と深く関係するということのようです。

 

・本殿

 

【中世以降歴史】

神社によると、境内には正保5年(1648年)から幕末までの石灯篭が10基あり、江戸時代以前から産土神として阿迦留姫命(アカルヒメ)を祀っていた事が見て取れます。「日本の神々 摂津」で大和岩雄氏は、江戸時代初期には、この地が姫島とされ、姫島神社が有った事は確かであるものの、それが直ちに「摂津国風土記」逸文の゛比売島松原゛であるとは言えないと述べられています。

 

・「はじまりの碑」。沢山かけられているのが「帆立絵馬」

 

【「比売島」比定】

比売許曽神社の記事で記載しました通り、「摂津国風土記」「日本書紀」そして「続日本紀」に出てくる゛比売(日女)島゛は、国土地理院の調査図とも照らし合わせて、旭区森小路にあたるとされ、一方当社鎮座地は応神・仁徳天皇期はマイナス1メートルだった事がわかっています。しかし大和氏は、アカルヒメ命の姫島が当地でないとしてとも、この西淀川区姫島に姫神が祀られていなかったとはいえない、と論を進められます。

奈良時代後半から平安前期に書かれただろうとされる「住吉大社神代記」によると、゛三国川(神崎川)尻より吾君川(中津川)尻に至る難波浦゛を゛幣帛(みてぐら)浜゛というのは、゛三韓の国の調貢゛をそれらの川から運ぶからであり、この幣帛浜について、゛姫神の坐す縁は是なり。社一前゛と説明されています。「延喜式」神名帳の島下郡に、似た名の幣久良神社がありますが、位置的にだいぶ離れますし、今は阿為神社に合祀されているので、あたりません。また、比賣許曾神社は東生郡所属であり、これも離れていますので比賣許曾神社と関係付けることもできません。大和氏は、゛幣帛浜゛の゛姫神゛の゛社一前゛を当社と推定することはできる、とまとめられています。そうなると、奈良時代までには遡ると言える事になります。ただ、「延喜式」神名帳に当社は載っていません。

 

・楠社と「再出発の木」

 

【社殿、境内】

神社によると、戦時の大阪大空襲によって社殿、宝物、10基以上も有ったという地車を焼失したそうです。その人々の再起を図る気持ちもアカルヒメ命の崇敬に注がれ、「やりなおし神社」といわれるようになったと神社は説明しています。樹齢900年と云われる大楠には戦火の傷跡も残っていて、元々蛇神を祀る境内社の楠社のご神木として「再出発の木」と呼ばれています。

 

・「感謝のおもい塚」。古い狛犬で、手放す物への感謝の気持ちを込めて祈るそうです

 

【伝承】

かつて歴史学者であられる瀧川政次郎氏や今井啓一氏が、九州から近畿のかけて存在する比売許曽の社の一つとして挙げる、福岡県の香春神社に関して、「豊前風土記」では渡り来た新羅の国の神を香春の神とすると有りますが、そのご祭神は゛辛国息長大姫大目命゛です。大和岩雄氏は、香春神社も含めた西日本各地の比売許曽社(=アカルヒメ)には、息長帯姫命と天日矛命が無視できないと考えられます。一方、東出雲王国伝承では、アカルヒメ命に相当する姫は登場しませんが、息長帯姫命は実在したと説明しています。さらに斎木雲州氏は、息長大姫をハッキリ息長帯姫命のことだと説明されています(「出雲と蘇我王国」)。

出雲伝承では、息長帯姫命は確かに「やりなおし」、つまり新たな難波・河内の地で王朝が始まる端緒になった御方にあたると理解されます。姫の時代以降に百舌鳥・古市の古墳群は大きくなっていきますが、それは朝鮮半島からの年貢で和国がそれまでより豊かになった為らしいです。出雲伝承の語る古代史では、その要所で女性がリーダーの時に画期があるように見えます。そしてその理由の一つとして、ほぼ全ての女帝について、自分の生んだ(息長帯姫命の場合は内々的には、育てた)皇子を大君にしたい気持ちが物凄く強かった為のように見受けられます。

 

・万葉歌碑。河辺宮人の゛姫島゛の歌が刻まれています

 

(参考文献:姫嶋神社公式HP、中村啓信「古事記」、宇治谷孟「日本書紀」、かみゆ歴史編集部「日本の信仰がわかる神社と神々」、京阪神エルマガジン「関西の神社へ」、谷川健一編「日本の神々 摂津」、三浦正幸「神社の本殿」、村井康彦「出雲と大和」、梅原猛「葬られた王朝 古代出雲の謎を解く」、岡本雅亨「出雲を原郷とする人たち」、平林章仁「謎の古代豪族葛城氏」、佐伯有清編「日本古代氏族事典」、宇佐公康「古伝が語る古代史」、金久与市「古代海部氏の系図」、なかひらまい「名草戸畔 古代紀国の女王伝説」、斎木雲州「出雲と蘇我王国」・富士林雅樹「出雲王国とヤマト王権」等その他大元版書籍


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