[ かたのじんじゃ/ひらかたえびす ]
枚方市にあるカタノ神社です。このお名前は、この地がもともと交野郡だったからで、その交野郡における一之宮ということで、神社の石標にも一之宮の文字が刻まれています(なお、河内国の一之宮は枚岡神社)。記紀にも、そして出雲伝承にも出てこないようなご由緒に興味を引かれて参拝をさせていただきました。牧野駅側から車で行くと、東門前にたどり着くのですが、神社の駐車場まではその横の細い道を行かなければならず、遠回りをしてしまいました。帰りは様子をみてその細道を通り、牧野車塚古墳のある車塚公園にも行きました。
入口の南門。桃山時代
【ご祭神・ご由緒】
ご祭神として神社は、建速須佐之男命 菅原道真公 事代主大神 他九柱と説明されています。社伝では、垂仁天皇の時、土師氏の祖である野見宿禰が当麻蹴速を相撲で破った功によってこの地を賜り、須佐之男命を祀ったのが当社の始まりと伝えます。ご祭神については他説もあり、物部氏の祖神饒速日命であるとか、交野の産土神として交野忌寸の祖神を祀っていたとする説がありますが、「日本の神々 河内」で河尻正氏は、判然としない、と書かれています。
境内
同書で河尻氏は、「式内社調査報告」での田村利久氏の説を引用されています。それによると、古くからの社家岡田家に伝わる「岡田家家譜」では、当社を土師氏の鎮守としています。これは同家譜に゛村上天皇天徳四年(960年)、勅により菅原道真(土師氏の後裔)を弊紙す゛とある所伝によるものです。現在、当社の別称として「枚方ゑびす」とも呼ばれているのは、この事からさらに祖神となる事代主命につなげたのでしょう。
拝殿
この地が大阪の北東に当たる事から、豊臣秀吉が大阪城築城に際し鬼門鎮護の神として定められたといわれ、境内にはその事を偲ばせる鬼のお面も展示されます。交野随一の名社であり、かなり古くから「一の宮牛頭天王」と称されてきた事から見て、ある時期に祇園信仰が重なり、上記のような創祀伝承が生まれたのではあるまいか、と河尻氏は考えておられました。
本殿。国重要文化財
【祭祀氏族、幣帛等】
当地にゆかり有る氏族として、「新撰姓氏録」に物部肩野連、肩野連、交野(肩野)忌寸が見えます。右京神別上には、饒速日命六世孫の伊香色雄命の後裔の肩野連氏がおり、この氏族は「先代旧事本紀」天孫本紀では、伊香色雄命の子の多弁宿禰、および饒速日命十二世孫の物部木蓮子連公の孫の物部臣竹連公を祖とするとあります。物部肩野連氏の方はこの同族であり、交野の物部を管理したと考えられています。一方、河内国諸蕃にみえる肩野忌寸氏は゛出自漢人庄員也゛とあり渡来系氏族です。
向拝の蟇股。中央が竹に虎、右は芙容にせきれい、左は椿にひよどり。
当社の祭祀氏族が、もし交野忌寸だとすれば、河尻氏のお考えである牛頭天王社である事から現在に至る創祀由緒が作られたという説になるのでしょうが、枚方駅近くの意賀美神社周辺に広大な゛伊加賀村゛が奈良時代からあった事を重視しますと、古くから物部氏系の肩野連が関わったと考えたくなります。
東妻の「太閤桐」
「延喜式」神名帳には「河内国交野郡二座」として片野神社と久須々美神社が載ります。当社の南東500メートル程の旧坂村字九頭神(クスカミ)にあったという久須々美神社の方は明治42年に当社片埜神社に合祀されましたが、交野郡の式内社二社が当地にほぼ隣接して存在していた事は重要だと、河尻氏は考えておられました。
石像灯篭。鎌倉時代
【社殿、境内】
本殿は、1602年に豊臣秀頼が修築した時の姿をそのまま伝え、桃山建築の逸品として重要文化財となっています。三間社流造で木部は朱塗りの極彩色で、要所に飾り金具を施している事などが特徴です。特に本殿の四面にくりぬきの蟇股が用いられる点が神社建築には珍しく、なかでも東妻の大蟇股は「太閤桐」と呼ばれる秀品。また、内外各所にほどこされた浮彫もすばらしいと、河尻氏は賞賛されています。
東門前の鳥居
境内の方でも、東門が鎌倉時代の「棟門」の遺構であったり、南門の方は桃山時代の四脚門で、古い建築が残ります。拝殿前西側にある六角形の石燈籠は、花崗岩製で高さは2メートルあり、無銘ですが鎌倉風の美しい形をなしていると、河尻氏は併せて紹介されます。かつてあったという神宮寺の遺品だろうということです。
東門。室町時代の「棟門」
【鎮座地、発掘遺跡】
当社一帯は古くから交野ヶ原といわれ、「続日本紀」の711年に゛河内国交野郡樟葉駅゛とあるのが記録上初めてのカタノ名になります。当社の南を流れる穂谷川流域には、弥生時代中期~後期の高地性大集落遺跡である田の口遺跡をはじめ弥生中期以降の遺跡が点在します。また当社の南方1キロの所には中期前方後円墳、牧野車塚古墳があり、西方にも比丘尼塚古墳があります。
依姫社。ご祭神、玉依姫命、大国主命、市杵島姫命。明治初期に境内社三社を合祀したもの
稲荷大神
久須々美神社の旧地あたりには九頭神廃寺があり、出土した瓦などから、白鳳期に遡ると見られます。また西南方面には、かつて文徳天皇の第一皇子惟喬親王の別荘「渚院」があり、平安貴族たちが鷹狩に興じたり、桜を愛でたりしていた地だったようです。さらに当社北方3キロほどの所には、継体天皇の「樟葉宮」の伝承地が有ります。
鬼面
【牧野車塚古墳】
全長107.5メートルで北河内では最大級、4世紀後半の前方後円墳で、後円部南側を除いて二段築成です。調査では二重の堀が有った事が確認され、円筒埴輪や家形埴輪が出土しています。前方部裾では小口積の板石が見つかっていますが、これが葺石として全体に葺かれていたのかは明らかになっていません。板石を垂直に積んで葺石にしている例としては、松岳山古墳や玉手山1号墳(この古墳は、オオヤマト古墳群の渋谷向山古墳と相似形)があります。
牧野車塚古墳。外提にある石標。木々や雑草が生い茂り、全体像はとらえられません
石材は吉野川または紀ノ川流域の結晶片岩などが使われていますが、結晶片岩は淀川の対岸、茨木市の柴金山古墳や将軍山古墳の竪穴式石槨に使用されています。円筒埴輪には鰭付きもののがあり、この点でも牧野車塚古墳と柴金山/将軍山古墳は共通することから、「古市古墳群をあるく」で久世仁士氏は、両者はヤマト王権の命を受けて淀川から瀬戸内海の交易を担っていた勢力ではないかと考えられています。
牧野車塚古墳。後円部より前方部を望む。歩道が整備されています
【伝承】
上記しましたように、古典の記録や、ご祭神に饒速日命説があること、そして枚方市に「伊加賀」の地名が今も残る事も考えると、当地に物部氏が関わる事は確かな感じがします。東出雲王国伝承の話を前提とすれば、正規のご祭神が゛須佐之男命゛であることも繋がります。そしてそこに、やはり゛出雲゛が絡んでいるのがとても面白いです。土師氏の鎮守であるとする社家家譜もそうですが、渋谷向山古墳と相似形の玉手山古墳と同じ板石を使う牧野車塚古墳がすぐ近くにあったり、さらにほぼ隣に久須々美神社が鎮座していた事も無視できません。全く同じ久須々美神社の名を持つ神社は村屋坐弥富都比売神社の境内社にありますが、゛須々美゛とくれば出雲美保の御穂須須美命との関係を感じざるを得ません。つまり、弥生時代の当地には出雲系の人達が主体であったのが、九州東征勢力の進出により物部氏の勢力下に入ったのがご由緒のお話に変化したのではないかという、意賀美神社で感じた事と同様な印象を持ちました。
牧野車塚古墳。後円部と登り階段。割と高さあります
(参考文献:片埜神社境内掲示、中村啓信「古事記」、宇治谷孟「日本書紀」、かみゆ歴史編集部「日本の信仰がわかる神社と神々」、京阪神エルマガジン「関西の神社へ」、「式内社調査報告」、佐伯有清編「日本古代氏族事典」、鈴木正信「古代氏族の系図を読み解く」、谷川健一編「日本の神々 摂津」、久世仁士「古市古墳群をあるく」、三浦正幸「神社の本殿」、村井康彦「出雲と大和」、梅原猛「葬られた王朝 古代出雲の謎を解く」、岡本雅亨「出雲を原郷とする人たち」、平林章仁「謎の古代豪族葛城氏」、竹内睦奏「古事記の邪馬台国」、宇佐公康「古伝が語る古代史」、金久与市「古代海部氏の系図」、なかひらまい「名草戸畔 古代紀国の女王伝説」、斎木雲州「出雲と蘇我王国」・富士林雅樹「出雲王国とヤマト王権」等その他大元出版書籍)