[ にんりょうじんじゃ / つほこじんじゃ ]
今の名称は忍陵神社。境内が前方後円墳・忍岡古墳の上に鎮座していて、竪穴式石室が見学できることで特筆する神社なのですが、奈良県の有名神社である多神社(多坐弥志理都比古神社)にまつわる平安時代の古文書に、当社の元である式内社・津鉾神社の事が書かれているとの話が気になっていた神社でした。
石標からの階段を登ったところに一の鳥居があります
【ご祭神・ご由緒】
「日本の神々 摂津」の田村利久氏や、同じく「大和」の大和岩雄氏の文章では、ご祭神が応神天皇であるとしていましたが、大阪府神社庁第三支部のホームぺージによると、津桙大神、熊野皇大神、藤原鎌足公、馬守大神、大将軍神となっていて、津桙大神は当地の豪族津鉾氏の氏神だと説明されています。式内社・津鉾神社としては、東方500メートルの通称赤山と呼ばれる場所にありましたが、明治44年に現在地へ遷座、その時付近の馬守神社と大将軍社を合祀し、社名も現在のものになりました。以下、津桙神社を基本に記載します。
後円部を円形の区画が囲います
江戸時代の「赤山津桙神社縁起書」によると、当社゛河内国讃良郡甲可村新宮大権現゛の濫觴は、゛人王四十代の帝天武天皇の御宇、役優婆塞の開祖で、そもそも新宮大権現と申し奉るは、遠く本地を尋ねるに薬師如来の国跡薬師三山の一所なり、人王十二代景行天皇の御宇、何地となく小船漂い来る、その船より裸形真人といへる人熊野山に登り、すなはち本宮三所を移して新宮権現を草創とす゛とのことです。大和氏は、今の河内平野が河内湖で、この地域が湖畔であった頃の伝承に、後の熊野信仰が付加されたものだろう、と考えておられます。
又、上記縁起には、清和天皇の時期(870年頃)に、武運長久を祈り忍岡に鎌足大明神と称しお祀りした記述もあると、神社庁は説明します。
拝殿。境内は狭いです
【祭祀氏族・神階・幣帛等】
田村氏は、「河内式神私考」の記述として、゛古史に伝ふ大国主神はその和魂を神戳力として、広矛をもって御杖とし、国中の邪鬼を平らげて国を作り給ふ、よって名を八千矛神といふ、津桙は八千矛の訛か゛を引用されますが詳細は不明とした上で、このあたりの豪族であった津鉾氏が祖神を祀ったのが始まりだろうと、神社庁と同様の見解を示されています。しかし、佐伯有清編「日本古代氏族事典」には津鉾氏は出てこず、どういう氏族かはよく分からないようです。
さらに田村氏によれば、この神社の神官がかつて「津守長者」と呼ばれ、その屋敷の跡を通称「ツンボジ」(津守地の転訛と推定)と呼ばれていたことから、津鉾氏と津守氏(住吉大社の祭祀氏族)との関りを推測されていました。
本殿
【裏書「社司多神名秘伝」に載る天津瓊々杵神社】
大和岩雄氏によると、上記した奈良県磯城郡多神社の「多神宮注進状」の裏書に、多神社の若宮・皇子神命神社(式内社。今も存在します)のご祭神が瓊々杵尊で、高宮郷天津瓊々杵神社つまりは当社(の元)河内国讃良郡津桙神社と同体異名だと書かれているようです。
大和氏は、江戸時代の「赤山津桙神社縁起書」の゛小船漂い来る゛の表現に対して、応神天皇も船で難波に着いている事、そして「古事記」はその船を「空船」と書いていて、もとは゛ウツボブネ゛を意味する訓が付いていただろうとの、岡田精司氏による推測を引用されます。また、「日本書紀」は瓊々杵尊が゛真床追衾゛に覆われて降臨したと書きますが、岡田氏はこれをウツボ舟の要素を持つものとして、応神天皇と重ねられていました。
鰹木もある妻入の本殿。1985年に補修されています
これら説話と切り離せないのが、「大隅正八幡宮(鹿児島神宮)縁起」に載る、王女大比留女が朝日を胸に受けて皇子を懐妊し、王が母子を空船に乗せて大隅の磯にたどり着いた由緒譚や、さらには「古事記」に載る天之日矛の妻となる阿加流比売の難波渡来譚の、いわゆる「日光感精伝説」です。これらは、基本は水辺で日光に感精した母とその子が空船で到着する話で共通し、その幼子の姿をかりた神が密閉された容器に籠って来臨するという信仰の投影だということです。
そして、天日矛の「日矛」の意味が「津桙」だと大和氏は考えられます。「津」は日光を感精して゛日の御子゛を生む水辺の「津」で、空船が漂着する「津」でもあるとします。一方、「桙」は、「延喜式」などに載る鎮魂祭での鎮魂歌の、゛上ります 豊日孁女(トヨヒルメ)が御魂ほす 本は金矛 末は木矛゛の「木矛」の意味です。本と末とは、神楽歌の本方と末方のことで、「ツホコ」の「ホコ」を「桙」と書き「鉾」と書かないのは、神楽歌のヒルメ歌に、゛天照るかヒルメの神゛が本方、゛朝日子゛が末方としてうたわれていることに関連するということです。「津桙」とは水辺の朝日子のことであり、これが皇子神命であり、日の御子なのだと、大和氏はまとめられています。
大和氏は、御子神を「皇子神」と記すことは異例で、「延喜式」でもこのような皇族をあらわす名の神社は他に見当たらない、とも書かれていました。そして、その社が当社津桙神社と同体だったということになるのです。
こちらは東側の入口。鳥居は1997年の再建。
【中世以降歴史】
平安時代に熊野参詣が流行しはじめると、都から熊野への街道として生駒西麓が整備され、「山の根道」(後の東高野街道)が生まれます。当社はこの街道沿いに山城国から河内国に入った最初の古社にあたりました。田村氏も、熊野大神が合祀されたのは、その頃だろうと考えておられました。その後の中世は、地域の豪族の丘城となり、更に時代が下った戦国時代の最終盤、1615年の大坂夏の陣の際には、徳川秀忠がここに本陣をしいたと、境内の掲示に説明があります。江戸期にはその事績により、忍岡は御勝山とも呼ばれました。
石室を保存する覆屋が拝殿直ぐ横にあります。
【鎮座地、発掘遺跡】
当社周辺は生駒山から流れる讃良川の流域で、当社の東200メートルの讃良岡山遺跡からは、縄文時代後期から晩期を代表する資料が出土していて、当時の河内湖の水辺でその時代長きにわたって狩猟や漁撈が営まれていたことが分かっています。弥生時代になると、湖の縮小によると思われる集落の移動があり、この岡山そばの砂山地区からは、明治44年に袈裟襷文銅鐸が二個出土しました。
板石が積み上がっているのが分かります。肉眼では少し暗いです。
【忍岡古墳】
当社は、4世紀中頃の築造と考えられている前方後円墳・忍岡古墳の後円部の上に鎮座していて、社殿向かって右側の覆屋の中にその竪穴式石槨が保存され、板状の石材を積み上げて石槨が出来ている特徴が、格子戸越しに拝見できます。昭和9年の室戸台風で社殿が倒壊した後の再建中に、この石槨が発見されました。古墳の全長は87メートル。副葬品は、紡錘車、鍬形石の他、剣、矛のような武具もあったようで、調査を行った京都大学の総合博物館で保存されています。石槨はベンガラ、副葬品には水銀朱が塗布されていました。円筒埴輪はありましたが、葺石は確認されていない事などから、上記の築造年代が想定されているようです。
一段下より境内側を見上げた図
【宇佐家古伝の鎮魂歌「阿知女作法」と「木矛」】
宮中で大嘗祭、新嘗祭の前日の行われるという鎮魂祭について、古代豊国の宇佐氏(戦前までの宇佐神宮宮司家)の後裔である宇佐公康氏が「古伝が語る古代史」で説明されています。その中で唱えられる呪詩が鎮魂歌で、別名「阿知女作法(アチメワザ)」とも呼ばれるものです。宇佐氏の主張は、゛古の兎狭国以来、とくに邪馬台国時代に盛んであった鎮魂のシャーマニズムが、(近畿に進出した)応神王朝の成立にともなって、原大和王朝以来、崇神王朝に最も盛んに行われていた物部氏のシャーマニズムを始め、和邇氏や大神氏のシャーマニズムが混交し、宮中祭祀として統一された゛というもの。そして、「アチメワザ」が、宇佐シャーマニズムと、(宇佐氏が物部氏の首長だと説明する)崇神王朝の鎮魂のシャーマニズムが融合したものだとも書かれています。
宇佐氏は、鎮魂祭の起源は、「先代旧事本紀」における、饒速日命が大和に天降る際の、十種の瑞宝をとって一二三四五六七八九十と唱えて振れ、と下された詔勅だとされます。ただ、現在も行われているという石上神宮の「十種祓詞」には、゛上ります 豊日孁が御魂ほす 本は金矛 末は木矛゛等と重なる文言は出てきません。一方、宇佐家の家伝として行われていて、今も石清水八幡宮に伝承されるという「阿知女の神楽歌」には、その歌詞が入っています。宇佐氏によると、「阿知女」とはアグヌの女、つまりアグはアチ、アギのことで嬰児の事です。即ち懐妊した水辺の女であり、阿度部磯良(アドメノイソラ)を呼ぶという設定です。そして、この「阿知女作法」は宇佐神宮(や石清水八幡宮)のご祭神・応神天皇と神功皇后と関係のある神楽だった事に注目すべきだと書かれていました。やはり、大和氏の説明とつながってきますし、そうなると、住吉大社を祀った津守氏ともつながりそうです。
境内から南方を望む絶景。左手側は生駒山が近いです
【大和への東征の重層性】
それでも、オシロワケ王の頃(であるなら、九州から東征勢力の後続として?)船でやってきた裸形真人のご由緒や、さらに大国主命の話も出てくることが気になります。いずれも何らかの根拠ありとするならば、やはりこの地の主たる支配・居住勢力として、出雲系(摂津三島から広がる)→物部氏→難波・河内王朝勢力、という重層性の名残ではないかとの想像になります。そして、河内王朝の信仰が宮中祭祀に残ったという、大和氏のお考えになるのでしょうか。ただ、宇佐氏と物部氏がつながる処に現れる゛上る豊日孁女゛と聞くと、一般には「豊」は美称で天照大神のこととされるようですが、やはり九州から大和に゛上ってきた"と出雲伝承が説明する「トヨ(台与)」にもつなげたくなってきます。
一の鳥居の所から、西側の大阪市内方面の絶景
(参考文献:大阪府神社庁第三支部HP、中村啓信「古事記」、宇治谷孟「日本書紀」、かみゆ歴史編集部「日本の信仰がわかる神社と神々」、京阪神エルマガジン「関西の神社へ」、佐伯有清編「日本古代氏族事典」、鈴木正信「古代氏族の系図を読み解く」、谷川健一編「日本の神々 摂津/大和」、久世仁士「古市古墳群をあるく」、三浦正幸「神社の本殿」、村井康彦「出雲と大和」、梅原猛「葬られた王朝 古代出雲の謎を解く」、岡本雅亨「出雲を原郷とする人たち」、平林章仁「謎の古代豪族葛城氏」、前田豊「徐福と日本神話の神々」、竹内睦奏「古事記の邪馬台国」、宇佐公康「古伝が語る古代史」、金久与市「古代海部氏の系図」、なかひらまい「名草戸畔 古代紀国の女王伝説」、斎木雲州「出雲と蘇我王国」・富士林雅樹「出雲王国とヤマト王権」等その他大元出版書籍)