摂津三島からの古代史探訪

邪馬台国の時代など古代史の重要地である高槻市から、諸説と伝承を頼りに史跡を巡り、歴史を学んでいます

池上曽根遺跡(和泉市池上町)~大阪府弥生文化博物館と池上曽根史跡公園

2024年09月29日 | 大阪・南摂津・和泉・河内

[ いけがみそねいせき ]

 

この度は、大阪湾よりの南方にある大阪府弥生文化博物館と、隣接する弥生時代遺跡の大型掘立柱建物を見学したいと思い訪れました。泉穴師神社に近く、その北東約1キロのところにあります。

 

【大阪府弥生文化博物館】

車で阪神高速湾岸線の助松出口から10分もかからないところにあります。訪れた日は特別・企画展のない日だったので、入館料は310円でしたが、特別展期間中は650円、企画展中なら430円になるようです。同じく大阪府の近つ飛鳥博物館や堺市博物館も入館料がありますので、同館も同様という事になります。そう考えると高槻市の今城塚古代歴史館が、あの常設展示で無料なのは恵まれていると改めて思います。常設展示は、第1展示の弥生文化全体の展示と、第2展示の池上曽根ワールドの2室になっています。

 

 

【第1展示】

無料の音声ガイド機を展示室入口でお借りして見学していくと、有名な発掘資料が沢山展示してあって、思いのほか時間がかかりました。特に第1展示は日本の弥生時代全体をカバーした展示という事で、わりとレプリカ展示(表記の横に※印が付く)が多めな感じで、全国の発掘資料がまじかで見学できるのです。主だったところでは、日本最初期の稲作遺跡である菜畑遺跡と朝鮮半島南部の同時代資料の比較(そっくり)、茨木市の東奈良遺跡の銅鐸石型から唐古・鍵遺跡の土型への変遷、愛知県亀塚遺跡の入れ墨のある人面土器、奈良県清水風遺跡のシャーマンの絵画土器(レプリカなので、中間で割れてない)、鳥取県稲吉角田遺跡の絵画土器(吊るした銅鐸や高床建物の絵)、和泉黄金塚古墳の景初三年銘がある画文帯神獣鏡、東大寺山古墳出土の「中平」年銘のある鉄刀(卑弥呼の時代に中国から下賜されたとの推定も)などなど、です。

 

 

それ以外の展示の見どころとしては、当時の水田の春と秋の様子を再現したジオラマや、やはり「卑弥呼の館」を再現したジオラマが迫力が有るのと、地図パネルによる詳細な分布説明が分かりやすいと思いました。稲作の伝搬ルート、青銅器の種類毎の製品と鋳型それぞれの分布図は参考になります。

 

 

【第2展示】

こちらは当地の池上曽根遺跡からの発掘物に特化した展示室です。展示でとにかく目を引くのが、大型掘立柱建物の南で見つかった、直径2.3メートルの楠の大木を繰り抜いた刳り抜き井戸(レプリカ)です。あとは、年輪年代法で伐採年が紀元前52年とされた大型建物の柱や、龍が描かれたものとしては日本で最も古い絵画土器(共にレプリカマークなし)などが見ごたえありました。

 

 

展示室の床一面には、池上曽根遺跡だけでなくおびただしい数の弥生遺跡が表記された当地の遺跡マップが貼り付けられ、この地がその時代多くの弥生人がいて発展していたことが実感できました。

 

赤枠で囲われているのが池上曽根遺跡。その奥が刳り抜き井戸

 

【池上曽根史跡公園】

博物館の一つ北の区画に池上曽根遺跡を整備保存した公園があり、大型掘立柱建物や大型井戸を中心に見学できます。

 

 

池上曽根遺跡は1903年に最初に発見され、府立泉大津高校による調査や第二阪和国道内遺跡調査会により調査されて、1976年に国の史跡に指定されました。弥生時代の全期間(2300~1800年前)を通じて営まれたわが国屈指の環濠集落ですが、一番栄えたのは紀元前3~前1世紀のことだとされています。環濠は、上の幅3~4メートル、深さ1~2メートル。全周は約1キロで直径約330メートルのいびつな円形と推定されています。上記した型掘立柱建物や大型井戸をはじめ、土器、石器、木器など大量の遺物が出土していますが、鉄器は見られないようです。

 

大型掘立柱建物と、手前は大型井戸の復元

 

道具類は作りかけのものがあることから、ムラの中で生産していたとされます。例えば石包丁は1500点以上見つかっている中で300点は未完成品です。材質は和歌山県の紀ノ川流域の結晶片岩がほとんどで、わずかに二上山の安山岩(サヌカイト)も使用されています。環濠の外には、2カ所で方形周溝墓群が見つかっています。これはムラが複数の集団で構成され、集団ごとに墓地を造っていたかもしれないとのこと。環濠の内側にも土壙墓や土器棺墓などがありますが、まとまった墓地かどうかは不明です。

 

棟持柱は縄でしばられます

 

【三島の弥生遺跡と池上曽根遺跡】

やはり我が摂津三島にも存在する拠点的弥生遺跡との時期差がきになりますので、対比してみます。いずれも概ねは弥生時代全体に渡り何らか機能していたと言われます。

  •  遺跡名        始まり時期                    環濠大きさ
  • 池上曽根遺跡     BC300年~(全盛:BC3~BC1世紀)    直径約330メートル
  • 唐古・鍵遺跡     BC5世紀くらい~(全盛:BC2~AD2世紀)  直径約700メートル
  • 安満遺跡(高槻市)  BC500年~(弥生時代前期末に大洪水)     直径約170メートル
  • 東奈良遺跡(茨木市) BC500年~(弥生時代中期前半に一時衰退)   直径約280メートル

東出雲伝承を前提とした弥生時代の近畿の様相に当てはめると、いずれも初期大和勢力に関わりそうな遺跡と想像されます。伝承は、穴師信仰は出雲・丹後連合となる初期大和勢力のうちで、丹後勢力側(中国渡来系であり、龍との関係が偲ばれる)の信仰であると主張しますので、泉穴師神社池上曽根ムラの関りを考えたくなります。伝承から想起される順番としては、安満/東奈良→唐古・鍵→池上曽根となりそうですが、河内・和泉地域へは奈良磯城地域へ入る前の葛城から進出してそうなので、池上曽根と唐古・鍵の前後関係は厳密には想像できないですね。いずれにせよ、唐古・鍵の規模は圧倒的です。

 

梯子と入口まで作られますが、中には入れません

 

ただ、始まり時期については、伝承が上記勢力のヤマト入りはBC2世紀初め頃とする(文脈からそうなるはず)ので、そこはビミョーな処です。池上曽根については、隣接する南側の遺跡を確認した方がよいでしょうか。一方、唐古・鍵については、BC4世紀後半とBC3世紀くらいの大型建物の柱跡が発掘されていて、伝承の゛当初大和盆地は沼地で人が住めなかったので、最初葛城に入った゛話とは整合しません。また、唐古・鍵は出土土器によって、摂津や河内、和泉、紀伊、伊賀、東海、遠くは吉備や北部九州などと交流が有ったことが分かっていますが、山陰、出雲との交流があったとはされていません。

三島の2拠点は弥生時代前期に環濠が拡大して発展しているので、三島の遺跡が一番早く古いとは言えそうな感じです。

 

見えている以外も竪穴式住居などが復元されています

 

(参考文献:大阪府弥生文化博物館公式HP、和泉市公式HP、雑誌邪馬台国第138号、唐古・鍵考古学ミュージアム常設展示図録、「三島弥生文化の黎明(今城塚古代歴史館図録)」、森田克行「安満遺跡の発展と弥生時代の高槻」資料、中村啓信「古事記」、宇治谷孟「日本書紀」、かみゆ歴史編集部「日本の信仰がわかる神社と神々」、京阪神エルマガジン「関西の神社へ」、谷川健一編「日本の神々 和泉」、三浦正幸「神社の本殿」、村井康彦「出雲と大和」、梅原猛「葬られた王朝 古代出雲の謎を解く」、岡本雅亨「出雲を原郷とする人たち」、平林章仁「謎の古代豪族葛城氏」、竹内睦奏「古事記の邪馬台国」、宇佐公康「古伝が語る古代史」、金久与市「古代海部氏の系図」、なかひらまい「名草戸畔 古代紀国の女王伝説」、斎木雲州「出雲と蘇我王国」・富士林雅樹「出雲王国とヤマト王権」等その他大元版書籍

 


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