ぐりぐらのフォトログ

デジタルカメラであそぼ!

あいづわくわく学園 北宮諏方神社 喜多方市方面【10-1】

2013年09月27日 | 郷土史・史跡・施設
あいづわくわく学園 
北宮諏方神社・龍現寺・安勝寺・出雲神社・満福寺・中善寺  喜多方市方面【10-1】


25年度、地域の歴史・史跡などの現地学習第10回目の1は喜多方市方面から
北宮諏方神社・龍現寺・安勝寺・出雲神社・満福寺・中善寺・・・
はじめに拝観した龍現寺のご住職のお話の中から、
明治の神仏分離令や廃仏毀釈のありさま、混乱のさまをちょっと想像してみて・・・
近代化(?)への変わり目、当惑、混乱はどんなだったのだろう。

画像クリックでスライドショーへ。BGMの音量にご注意ください。
北宮諏方神社 大鳥居・・・
画像クリックでスライドショーへ

天授元年(1375)年、葦名(5代)直盛公が勧請。黒川城内の諏訪神社を南宮とし、当社を北宮とした。
祭神は、建御名方神と八坂刀売命。寛永18(1641)年、現在地に社殿を遷座。
現在の社殿は明治21年(1888)に造営されたもの
衰微の歴史もあるが、松平氏の時代には春秋の2度使者を遣わし、厚く祭祀の礼を行っていたという
本殿の後ろ脇に、愛宕神社と稲荷神社がある。

毎年8月2・3日、夏を彩る祭りが繰り広げられる。
笛や太鼓の賑やかな祭り囃子の流れる中、境内で若衆が市内9社の酒を入れた樽神輿をかつぎ、
子供たちが山車を引き、稚児行列が町中を練り歩き、祭礼中は出店が立ち並び賑わうという。


龍現寺 修験の出で、29代目のご住職のお話を聞き終わって・・・


喜多方諏訪、俗称寺町といわれるところにある天台宗の寺院。山号は愛宕山。本尊は勝軍地蔵尊。
明治の神仏分離の諸令によって修験道が禁止されるまで、龍蔵院という修験道の一院だったという
14世紀、鎌倉より入り、当寺を再興した現住職の祖は修験の出で、29代目という
代々、小荒井村の信者のために大般若経の転読・日待祈祷・火伏せ・悪疫退散・厄除など各種の祓い、
また、隣接する愛宕神社の宮司を務めてきたという
 
今も毎月24日に、ご本尊勝軍地蔵尊が安置されているお堂で護摩供養が行われという。


白壁土蔵造りの安勝寺


さすが寺町、すぐ隣りに建つ曹洞宗の寺。山号は小荒山。本尊、釈迦如来。
喜多方市熱塩加納町の示現寺の末寺という
応永29年(1422)、源翁和尚三世の法孫雲光の開基。

当初は葦名家の庇護があったが、松平家に至って寺領の耕地が没収された。
天明5年(1785)および明治13年(1880)に火災によって焼失。旧記古文書などもほとんどが失われたという
現在の本堂は明治27年(1894)、白壁土蔵造りの寺として再興された。


出雲神社 大鳥居


社伝によると、天慶年間(938~47)に平将門の滅亡後、その残党がこの地に逃れて来て、
山野を開き農桑の業に就いた。その後、66代一条天皇の正暦年中(990~95)陰陽師安倍清明が下向し
「この地は将来繁栄する地相である。国土開墾の神、出雲の神を総鎮守とすべし。」と勧めたとある。

出雲の神を総鎮守に「国土開墾の神」として祀り、総社神社を創建し、
明治4年出雲神社と社号を改めた。

境内奥には「自由民権運動発祥の地」の碑がある。
明治10年代、喜多方地方に起きた自由民権運動の政談演説会が、
この境内において度々催されていたのを記念し建てられたものという


中善寺 木造薬師如来座像(国重文指定)


山号を開堂山、真言宗豊山派、開基、開山については不詳という。
境内の薬師堂に、木造薬師如来座像を安置する。像には「延慶三可の庚戌(1310)卯月忍何上人創業也」の
彫付銘があり、国重要文化財に指定・・・。88センチほどの寄木造漆箔押で、
優雅で円満な面相は、藤原仏の面影をよく伝える傑作。収蔵庫に安置されている。

中世ここに大きな霊場があったといわれ、後世廃れていたのを
慶長年間(1596~1615)、若松/弥勒寺の僧/祐誉が中興。その後再び廃れていたのを
元禄16(1703)年、栄昶和尚が再興に着手、4年後に再建。薬師如来、日光・月光菩薩・及び十二神将の
修理を完成させた。続いて薬師堂の再建を発願し、木食を修行して3年後に成就・・・

参道右手には六観音の石仏が祀られている。本堂前には、樹齢250年と伝わる2本の夫婦カリンがある。

明治に至ってからは、自由民権運動(喜多方事件)との関連で知られるようになった。詳細は省略!!
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ヒガンバナ

2013年09月24日 | 花&植物
ヒガンバナ

町ではお祭りだけど、ちょっとそこまで、山道散策・・・
稲田の縁に咲くヒガンバナでアゲハが吸蜜・・・
キタテハ、イチモンジセセリはハナニラで吸蜜・・・
赤色が濃くなったアカトンボも飛び交って・・・
家からはすぐなのに昆虫にとっては別天地なのですね。

画像クリックでスライドショーへ。BGMの音量にご注意ください。
ヒガンバナにアゲハ・・・
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キタテハはハナニラで吸蜜・・・


アカトンボ・・・


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台風一過 小庭の花

2013年09月20日 | 花&植物
台風一過 小庭の花

連休直撃の台風、各地に爪痕を残して日本列島を翻弄・・・
被害に遭われた地域の皆様にお見舞い申し上げます。・・・
猛暑や雨で手入れの行き届かない小庭、それでも季節はめぐって秋の気配・・・
画像クリックでスライドショーへ。BGMの音量にご注意ください。

キタテハやアゲハは寄ってくれない小庭・・・
ランタナ・秋海棠・ヤブラン・・・
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幕末・戊辰の道ウォーキング2

2013年09月17日 | 郷土史・史跡・施設
幕末・戊辰の道ウォーキング2

幕末・戊辰の道ウォーク2日目は、十六橋、戸ノ口原、土津神社、亀が城などを回りました。
十数キロウォーキングの予定が、雨のためバスで移動することになりほっとしました~

「22日、戸ノ口十六橋が占拠され、戸ノ口原では会津藩400余名、西軍2000余名が激突、敗退・・・
猪苗代城(亀が城)や土津神社は、城代高橋権太輔の命で火が放たれたという・・
23日、西軍は若松城下へ。白虎隊士中二番隊のうち二十名は飯盛山へたどりつき・・・」

母成峠東軍戦死者と西軍の死者を弔う西円寺、野口英世博士帰郷の折に揮毫された書がありました。
公民館では、「八重の桜」オープニングの370本の唐傘が牧場に広がるシーンの展示をしていました。
今回は雨で救われたけど、ウォーキングに参加するときには距離を確かめることを肝に銘じます。

画像クリックでスライドショーへ。BGMの音量にご注意ください。
戸の口十六橋 昔は石の橋が架かり東軍が破壊に手間取っているうちに・・・
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戸の口原古戦場跡

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幕末・戊辰の道ウォーキング1

2013年09月15日 | 郷土史・史跡・施設
幕末・戊辰の道ウォーキング1

幕末・戊辰の道(史跡)・・・激戦を制した西軍が侵攻した道、東軍が敗走した道を歩いてきました。
母成峠古戦場(母成峠の戦い)。西軍は奥羽の関門・白河城を占領し、二本松城を陥落させ
若松城への侵攻路としたのが「母成峠」で、1868年、旧暦8月21日(新暦10月6日)母成峠において
板垣退助、伊地知正治他を参謀とする西軍3,000人、大砲約20門、

対する東軍は田中源之進、高橋権太輔、大鳥圭介、土方歳三を主将に800人、大砲7門。
7時間に及ぶ激戦を展開したが、圧倒的な兵数と火力の差は如何ともすることができず、
東軍は北方高森方面、西方猪苗代方面に敗退・・・。このため西軍は22日十六橋を突破し
23日戸ノ口原を経て、怒涛のように会津鶴ヶ城に到達した。
東軍戦死者八十八名、西軍戦死者二十五名。 案内人;いなわしろ伝保人会

母成峠古戦場からちょっと下ったところに、戊辰の役東軍殉難者が仮埋葬されたところが
百十余年後ようやく発見されて、東軍殉難者慰霊碑が建てられ慰霊祭が行われているという。
また、隣には西郷頼母が明治二十二年、阿弥陀寺で、会津藩殉難者慰霊祭が、晴れて執行できる
ようになった喜びを詠んだ和歌が刻まれて建っていました。
「なき魂も、恨みは晴れてけふよりは、 ともに長閑く 天かけるらん」

母成峠から達沢不動滝までは森の中を、「戊辰の道」と思って歩き、滝を眺めて休憩・・・
ここまではウォーキング気分でしたが、その後、中ノ沢までの一般道を歩くのは、なぜ(?)でした。
中ノ沢の温泉はいいですね。疲れ切った足もごくらく!ごくらく!と翌朝までになんとか回復・・・
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母成峠古戦場 雨上がりで見晴らしはきかず・・・
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達沢不動滝


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