不埒な天国 ~Il paradiso irragionevole

道理だけでは進めない世界で、じたばたした生き様を晒すのも一興

Forte Belvedere

2013-07-17 08:59:31 | アート・文化
通称Forte Belvedere
(フォルテ・ベルヴェデーレ/ベルヴェデーレ要塞)
と呼ばれていますが、
正式名称は
Fortezza di Santa Maria in San Giorgio del Belvedere
(サンタ・マリア・イン・サン・ジョルジョ・
デル・ベルヴェデーレ要塞)。
フィレンツェにある二つの要塞のうちの一つです。
因みにもう一つの要塞はFortezza da Basso(バッソ要塞)。
ベルヴェデーレ要塞はボボリ庭園の広がる丘の最丁部にあり、
その眺望の良さもよく知られています。
ルネッサンス期の要塞として現存するもののなかでも
最も美しい要塞の一つとされています。
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1590年から1595年にかけて
コジモ1世の息子である
Ferdinando I de' Medici
(トスカーナ大公フェルディナンド1世)の命で
建設されました。
手がけたのはメディチ家のお抱え建築家
Bernardo Buontalenti(ベルナルド・ブオンタレンティ)。

メディチ家がフィレンツェ追放から復帰し、
1527年のフィレンツェ掠奪を経て
1529年に建設されたバッソ要塞は
当時のメディチ家の邸宅があったVia Larga
(現在のメディチ・リッカルディ宮殿周辺)の
防衛目的がメインでしたが、
ベルヴェデーレ要塞は
コジモ1世以降にメディチ家が居住するようになった
ピッティ宮殿とその周辺(アルノ川左岸地区)の防衛と
メディ家の権力誇示の目的で建設されています。
ヴェッキオ宮殿からウフィツィ、ヴェッキオ橋を経て
ボボリ庭園からピッティ宮殿に繋がる
かの有名な「ヴァザーリの回廊」プロジェクトの
延長線上にある要塞です。
ピッティ宮殿の裏手に広がる要塞であり、
なにかの時にはメディチ家が避難できる場所として
重要なポイントでもありました。
このため、アルノ川から引き込んだ水を利用できるように
巨大な井戸も作られ、現在も円筒形の建物が残っています。
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*画面のちょうど正面にある円筒形の建物が井戸です。

実際、1600年に街にペストが流行したとき、
フェルディナンド1世はピッティ宮殿から要塞に移り、
ただ市民の反感を煽らないようにするためだけに
毎日数時間街におりて様子を見るという
日々を過ごしたとも言われています。

フィレンツェにある二つの要塞が
メディチ家の命で建てられ
それぞれが実際には外敵から街を護るためではなく
街の中にいる様々な敵に自分たちの権力を見せつけ
彼らからの攻撃を抑制するために使われたのです。
この二つの要塞が建設されてから
メディチ家に表立って逆らうものがいなくなり、
実際、高台にあるベルヴェデーレ要塞には
立派な砲台が設けられていますが、
正午を知らせる時報を打つ以外は
一度も敵に向けて発砲されたことはありませんでした。
1700年代の終わりにPietro Leopoldo
(トスカーナ大公ピエトロ・レオポルド)が
要塞に逃げ込み、
彼に対して反逆し始めた市民に向けて
発砲するように命じていますが、
防衛にあたっていた兵士たちは
自国民に向けて発砲できないとして任務を放棄しています。

高い城壁と大きな砦をもちながら
その中央にある建物は城というよりは
エレガントな白壁の3階建ての邸宅で
Palazzina di Belvedere
(ベルヴェデーレの小宮殿)と呼ばれます。
1570年のBartolomeo Ammannati
(バルトロメオ・アンマンナーティ)の
デザインによるものとされています。
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メディチ家はその長い統治期間中に
市内に数多くの秘密の通路を作らせています。
そのうちの一つがピッティ宮殿から
ボボリ庭園の下を通過してベルヴェデーレ要塞に至るもので
その先には「メディチ家の秘宝の間」があったと
長いこと言い伝えられていました。
ごく近年になって、
実際にその秘宝の間が存在したことが明らかになっていますが、
発見された時はもちろん中は空っぽでした。
ベルヴェデーレ要塞の小宮殿の
開廊の地下深くにある岩に掘られた小さな部屋で
容易に近づくことができないように
ブオンタレンティによって
様々な罠が仕掛けられていたようです。
たとえば、小宮殿からは
狭い小さな階段を使って
アクセスできるようになっていましたが、
その一部は木製の梯子で、
必要に応じて取り外しが可能な、
跳ね橋のような構造になっていたり、
下に鋭利な刃を満たした落とし穴があったり、
フェルディナンド1世とブオンタレンティしか
解錠の仕方を知らない、複雑な鍵がかけられていたり、
侵入者がいた場合に自動で発射する銃が仕掛けられていたり。
すべてを乗り越えて秘密の部屋に到達しても
最終的に部屋全体を水で満たして溺死させ、
アルノ川に流しだすシステムまで備えられていたようです。

この秘密の部屋にはアクセスできませんが、
2013年7月8日から5年ぶりに
ベルヴェデーレ要塞が一般公開になっていますので
機会があれば、
ミケランジェロ広場とはまたちょっと違う高さからの
フィレンツェ一望を楽しんでみてください。
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ヴェッキオ橋を渡った先から
Costa San Giorgioを登っていくと
サン・ジョルジョ門を越えて右手に入り口があります。

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コスタ・サンジョルジョは結構な上り坂。
でもお散歩にはもってこいの道でもあります。

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これはサン・ジョルジョ門を
ベルヴェデーレ方面から見たところ。
坂から登っていくと、門のアーチの下には
ボロボロの「聖レオナルドと聖ジョルジョと聖母子」の
ルネッタがかけられています。



La Porta del Cielo

2013-07-10 19:38:01 | アート・文化
これまで一度も公開されたことがなかったという、
シエナのドゥオーモの空中散歩。
約10万ユーロをかけて修復し、
2013年4月からとりあえず期間限定で
10月27日まで一般公開されています。
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完全予約制のガイド付き見学のみで、
安全性の問題から
一回の入場はガイドと監視員も含め20名まで。

個人で予約する場合には、
希望日時を伝えるとその希望に最も近い時間帯の空きのある回で
コンファームをしてくれます。
当日はチケット売り場にて予約見学料を支払い
チケット売り場脇のミーティングポイントでガイドと合流。
全員揃ったところで、
セキュリティのお兄さん二人に挟まれてグループで移動。
イタリア式ロマネスク・ゴシック様式のシエナのドゥオーモは
正面ファサードの両脇に尖塔をもつ塔がつけられています。
この塔の中に螺旋階段が取り付けられています。
ドゥオーモの入場口を入るとすぐ右脇の
鍵のかかった扉を開け、
この螺旋階段79段を昇ると天井裏へ。
ここから約1時間の空中散歩が始まります。
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斜めに梁の巡らされた天井裏には、
ドゥオーモ建設時に使われた古い機材や
装飾に使われている大理石の一覧などの資料も展示されています。
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被昇天聖母に捧げられたドゥオーモのクーポラは
青地に金メッキ銅の星模様で
1400年代後半に装飾されていますが
この美しい装飾も手に取るような距離で眺めることができます。
クーポラは6本の柱で支えられ、
その柱の上には、
シエナの守護聖人4名(Ansano, Savino, Crescenzio, Vittore)と
シエナの輩出した聖人2名(Caterina da Siena, Bernardino)の
大理石彫刻が飾られており、
通常は下から見上げるばかりのこの聖人たちを
目の高さで眺めることもできます。
またクーポラ内部の張り出し回廊からは
床のモザイク装飾や、説教壇などを見下ろすことができます。
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ドゥオーモの右側面で外に出ると、
鐘楼、新ドゥオーモの正面となるはずだったFacciatone、
カンポ広場に聳えるマンジャの塔などが。
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左側面からはサン・ドメニコ教会、メディチ要塞を望めます。
左身廊にあるCappella di San Giovanni Battista
(洗礼者ヨハネ礼拝堂)のクーポラも脇に見えます。
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ぐるりと回って、最後に正面ファサードへ。
外側の通路からは
正面にあるSpedale di S.Maria della Scala
(サンタ・マリア・デッラ・スカーラ病院)はもちろん、
正面ファサードを装飾する小さな彫刻など、
通常みることのできない部分を間近にみることができます。
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また、内部の張り出し通路からは
中央身廊の全体像を見渡すことができます。
大理石の縞模様で飾られる柱はもちろん、
身廊の両脇に並べられた歴代教皇の171体の胸像も圧巻。
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これまでアクセスすることができなかった場所です。
期間中にシエナを訪れる機会のある方は、
是非お試しください。

La Porta del Cielo/Duomo di Siena
会期:2013年10月27日まで
入場料:25ユーロ
予約:(完全予約制)opasiena@operalaboratori.com
   予約受付は月曜日から金曜日の9:00-17:00

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その他の写真はこちらから。


Tavola Doria

2013-07-03 13:23:52 | アート・文化
莫大な費用と時間を要し
物議を醸して調査したわりに、見つからなかった
レオナルド・ダ・ヴィンチの「アンギアーリの闘い」。
フィレンツェ市長は諦めきれていないようなので、
なにかのきっかけにまた手を出すかもしれませんが。

そのアンギアーリの闘いが、
かつて実在していたことは
同時代の芸術家たちの残した記録や
残されたいくつかの複製作品から
伺い知ることができます。
最も状態がよく精密であるとされるのは
Rubensの残したもので
ルーブル美術館に所蔵されています。

これとは別に作者不明の
Tavola Doriaという作品も存在しています。
1503年から1505年頃に制作されたとされているもので、
レオナルド自身が描いたともされていますが、
現時点で確証はされていません。
アンギアーリの闘いの中央のシーンである
Lotta per lo Stendardoを描いたもので
85×115センチの小さな作品です。

この作品は1621年から
Famiglia Doria(ドーリア家)の所有でしたが
1939年にオークションにかけられ落札されました。
しかし、1940年にナポリで盗難にあってから
その所在がわからなくなっていました。
1983年から本格的にイタリア国家警察が捜索を始め
1995年9月に日本の東京富士美術館が
所有していることが判明。
そこに行き着くまでに、
イタリアを出た作品はスイスからドイツ、
1972年にはニューヨーク、
1990年に日本に渡っているようです。
東京富士美術館は1992年に
この作品を購入したそうですが、
当時の購入価格は公表されていません。
(ただし、最終的にジュネーヴからイタリアに
搬送された際の保険金額では
2000万ユーロ相当の価値とされていたようです。)
そして、美術館が購入した後も
日本で保管されたのではなく
専門家による調査も兼ねて
ジュネーヴで保管されていました。

2008年に文化財庁のCecchi次官が
ジュネーヴでこの作品を確認して以降、
東京富士美術館とイタリアとの間で
長く複雑な交渉が続けられ、
美術館側が今後の日伊の文化交流の促進のためにと
この作品をイタリア国家に寄贈することを表明し、
2012年6月にイタリアに戻ってきています。
この協定は25年間の期限付きですが、
既に作品の分析が進み、
現在も作者確定の調査が進められています。

2012年11月28日から2013年1月13日まで
ローマのクイリナーレ宮殿に展示されており、
その後簡単な修復と調査が行われ、
6月16日から11月3日までは
アンギアーリに展示されています。
アンギアーリへの常設を望む声も強くなっていますが、
2013年11月以降は
一応フィレンツェのウフィツィ美術館に
展示される予定となっています。

協定では4年毎に
日本とイタリアを行き来するようになるようで、
2014年6月以降は
4年間日本で保管&展示されることになります。

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Lo gnomone di Santa Maria del Fiore

2013-06-25 00:46:46 | アート・文化
夏至の時期の正午頃にフィレンツェのドゥオーモに入ると
左翼廊の床に太陽の円い光のあとを見ることができます。
ブルネッレスキ(Filippo Brunelleschi)によって
1418年から1436年にかけて建設された丸天井は
建築物としての価値だけではなく、
天文学観測としての価値も併せもっています。
ブルネッレスキとも長い付き合いであった
友人で数学者のパオロ・ポッツォ・トスカネッリ
(Paolo Pozzo Toscanelli)は
このブルネッレスキの丸天井に
グノモン(Lo gnomone/指示針)を取り付けています。
最近の古文書研究などにより
おそらく1468年に取り付けられ
1475年から観測が開始されたのではないかとみられています。
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日時計などの指示針を利用した器具は
そのシンプルさから天体観測器としては最も古く、
且つ最も普及していたものの一つといわれています。
通常指示針というと
地面に垂直に立てて
影の長さを測ったりする棒のことを指しますが、
フィレンツェのドゥオーモに取り付けられているものは
真ん中に穴の空いたドーナツ形の物体で
暗室となる聖堂内の床に、
その穴を通した太陽の光が
円く光を落とす仕組みになっています。
このシステムを利用する場合、
設置箇所が高くなればなるほど、
より精密な数値が得られるとされています。
このため、ルネッサンス期には多くの教会の天井に
小さな穴が開けられ、
それを利用して太陽の運行を計るようになります。
その中でもブルネッレスキの丸天井に取り付けられているものは
地上からの高さ90メートルの位置にあり、
現在この種の指示針としては
世界でも最も高い場所にあるとされています。
因みに他にも有名なパリのSaint-Sulpice教会、
ローマのSanta Maria degli Angeli教会、
ボローニャのSan Petronio教会の
それぞれの設置されている高さを合算しても72メートルで
フィレンツェのドゥオーモのそれが
いかに高い場所にあるかが伺い知れます。

ドゥオーモのドーナツ型の指示針はブロンズ製で、
クーポラの南向きの窓の下枠の直下に取り付けられています。
この指示針を通過した太陽の光は
主祭壇の左の翼廊の床に埋め込まれた
円い大理石及び、子午線上に反映されます。
前者は一日の太陽の動き、
後者は一年の太陽の動きを知るための目印とされていました。
円い大理石は2つの円が重なっていますが、
外側の円の直径は約90センチで
夏至時の太陽の光を反映する大きさとなっています。
ルネッサンスの時代には
この円い大理石の上に太陽の光が落ちた時が夏至だったのです。
その後18世紀になって精密な望遠鏡などが開発されるまで
こうした指示針は夏至を知り、
また精密な数値が取れたことから
地球の自軸傾を知るための
最も優れた天文観測器であり続けました。
そして、望遠鏡などの器機が主流となった時代にも
最後の最後まで現役で頑張っていたのが
このフィレンツェのドゥオーモの
Lo Gnomoneだったのだそうです。

もともとは一年の正確な長さを測るための
数値を集めるために利用されていましたが、
やがて、天文学的な研究はそっちのけで
ドゥオーモの耐久性をみるために使われたりもしました。
つまり、毎年同じ位置に太陽の光が落ちるのを確認することで、
建築物に歪みがないことを確認していたらしいのです。
1754年にイエズス会士で
トスカーナ大公付きの数学者であったLeonardo Ximenes
(レオナルド・キシメネス)が予算を獲得し
ドーナツ型指示針による測定の再開と
より正確なブロンズ製の子午線の設置を実現しています。
もともとドゥオーモは
おおまかに東西南北に向いて建築されていますが、
キシメネスはそれをより正確に測定し
子午線を設定しているため、
従来の大理石に対して若干斜めに取り付けられています。
彼は精力的に天文観測を続け、
いくつかの天文的な発見も残していますが、
残念ながら彼の死後、
ドゥオーモでの観測はまた徐々に忘れ去られていきます。
しかも、1800年代の丸天井の修復時には
この指示針が少しずれた場所に取り付けられ、
現在に至っており、
必ずしも正確な数値が取れる機材とはいえなくなっています。

それでも先人たちの功績を讃え、
フィレンツェの天文学のルーツを次世代に語り継いでいくために
1970年代半ばに中断されていた儀式的な夏至観測が
1996年に再開され
1997年にはドゥオーモ生誕(礎が置かれてから)700年を記念して
天文に関する各種イベントも行われ、
1998年から毎年、
この古典的な夏至観測が行われるようになりました。
一時修復のために中断されましたが、
2007年からは年々多くの観客を集めて
5月の末から7月初めまでの数回に渡り観測が行われています。

2013年は6月13日、6月21日、6月28日の3回実施です。
正午に円い大理石に太陽の光が落ちるのですが、
この時期はサマータイム導入中なので、
法定の13時が正午となります。
そして、経度の誤差があるので、
6月21日13:16が夏至となりました。
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Chiesa di San Niccolo a Cortona

2013-06-19 14:05:03 | アート・文化
フィレンツェの南、トスカーナとウンブリアの境界の
小高い丘の上にあるコルトーナ。
この小さな城壁都市の
ポッジョ地区(Rione Poggio)にあるのが
サン・ニッコロ教会(Chiesa di San Niccolo')。
シエナに輩出した聖ベルナルディーノが1440年に創設した
サン・ニッコロ信徒会(la Compagnia di San Niccol?)が
元となっている小さな教会です。
この信徒会は現在も活動を続けており、
互助・慈善活動や管轄モニュメントの保護活動などを
積極的に行っています。

糸杉に囲まれた長方形の前庭をもち、
教会は正面と正面向かって左側(山側)に
開廊が取り付けられています。
15世紀に建てられたロマネスク様式の教会で
16-17世紀に改装の手が加えられています。
この改装の時に木製の格天井と
ファサード裏の部分にオーケストラ席が取り付けられています。
おそらくそれと同時期に単身廊の教会の両側面に
それぞれ祭壇が設けられ
元々あった主祭壇も改修されています。
最終的に1950年代から改めて各所に手が加えられ、
補強工事が2005年に完了しています。

キリストの受難&十字架上での死を記念する
復活祭前の金曜日(Venerdi' Santo)には
この教会に保管されている十字架を背負うキリスト像や
その他の信仰の品々をもった行列が
コルトーナの街を練り歩きます。
その昔、この行列に持ち出されていた宗教画に
コルトーナ出身の画家
ルカ・シニョレッリ(Luca Signorelli)の作品があり、
現在、サン・ニッコロ教会の主祭壇画として飾られています。
この作品はその昔、聖なる金曜日(Venerdi' Santo)の行列に
持ち出されていたこともあり
その性質上、表裏の両面に異なるテーマの絵が描かれています。
表面は「キリスト降架
(la deposizione di Cristo nel sepolcro)」
裏面は「聖母子と聖ピエトロと聖パオロ
(la Madonna con Bambino fra i Santi Pietro e Paolo)」。
この作品は現在は主祭壇に固定されているため
持ち出されることはありませんが、
通常は表面だけを見るような形になっており、
電動で主祭壇画を開けて裏面も鑑賞できるようになっています。

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