私が一番好きな芸術家でもあるので、
これまでも紹介したことがあったかもしれません。
ルネッサンス後期からマニエリスムへの移行期に
メディチ家(フランチェスコ1世)のお抱え画家として活躍した
Alessandro Allori (アレッサンドロ・アッローリ)。
同じくメディチ家(コジモ1世)のお抱え画家であった
Agnolo Bronzino(アニョロ・ブロンツィーノ)を師にもち、
画風も非常に似ているため、時に混同されることもあります。
刀鍛冶工の家に産まれ、幼いころから
家族の知り合いであったブロンツィーノの工房に入り師事。
14歳で既に弟子として作品制作に参加し、
師匠からはまるで息子のように可愛がられ、
アッローリの父が亡くなると、
ブロンツィーノが正式に父代わりとなり
これより(1555年)苗字を二つ名乗るようになります。
こうしたブロンツィーノの後ろ盾もあって
若い頃から多くの芸術家や、文学者、
教会関係者との交流をもったといわれ、
また1554年, 19歳の時にローマを訪れ、
そこで数多くの作品を見て学び、
芸術家の集まりに参加し、
巨匠ミケランジェロにも会っているといわれます。
後に創設されたばかりの
フィレンツェのデザインアカデミーの長に就任し
その立場からミケランジェロの葬儀の準備にも携わっています。
1572年にブロンツィーノが、
そして1574年にヴァザーリが他界すると
数多くの制作依頼が彼に集中し、
フィレンツェ中で最も人気のある画家となります。
メディチ家のフランチェスコ1世のお気に入りともなり
メディチ家の依頼による作品もたくさん残しています。
晩年には息子であるCristofano Allori
(クリストーファノ・アッローリ)とも共同制作を行い
広大な風景を背景とする
新しい北方絵画の画風も取り入れるようにもなります。
ウフィツィ美術館所蔵の「イサクの犠牲」は
そうした晩年の彼の代表作でもあります。
現在フィレンツェのサンタ・クローチェ教会
(Cenacolo di Chiesa di Santa Croce)に所蔵されている
Deposizione di Cristo(キリスト降架)。
左下に描かれた聖母マリアを支える女性の足元に
「ブロンツィーノの弟子、アッローリ」とサインが残されています。
このサインでは1560年制作と記載されていますが、
実際に残っている教会の古文書には
1563年から1567年の作品と記されています。
1966年11月4日の洪水で被害にあった作品の一つで
完全に水に浸かり、
2009年に大々的な修復が完了しました。
ミケランジェロやブロンツィーノの影響を受けた
マニエリスム技法全快の作品ですが
女性の表情に特有の優しさがあり、
その繊細さは
アカデミア美術館
(Galleria dell'Accademia di Firenze)にある
アッローリの「受胎告知(L'Annunciazione)」の
やわらかな雰囲気にも通じるところがあります。
これまでも紹介したことがあったかもしれません。
ルネッサンス後期からマニエリスムへの移行期に
メディチ家(フランチェスコ1世)のお抱え画家として活躍した
Alessandro Allori (アレッサンドロ・アッローリ)。
同じくメディチ家(コジモ1世)のお抱え画家であった
Agnolo Bronzino(アニョロ・ブロンツィーノ)を師にもち、
画風も非常に似ているため、時に混同されることもあります。
刀鍛冶工の家に産まれ、幼いころから
家族の知り合いであったブロンツィーノの工房に入り師事。
14歳で既に弟子として作品制作に参加し、
師匠からはまるで息子のように可愛がられ、
アッローリの父が亡くなると、
ブロンツィーノが正式に父代わりとなり
これより(1555年)苗字を二つ名乗るようになります。
こうしたブロンツィーノの後ろ盾もあって
若い頃から多くの芸術家や、文学者、
教会関係者との交流をもったといわれ、
また1554年, 19歳の時にローマを訪れ、
そこで数多くの作品を見て学び、
芸術家の集まりに参加し、
巨匠ミケランジェロにも会っているといわれます。
後に創設されたばかりの
フィレンツェのデザインアカデミーの長に就任し
その立場からミケランジェロの葬儀の準備にも携わっています。
1572年にブロンツィーノが、
そして1574年にヴァザーリが他界すると
数多くの制作依頼が彼に集中し、
フィレンツェ中で最も人気のある画家となります。
メディチ家のフランチェスコ1世のお気に入りともなり
メディチ家の依頼による作品もたくさん残しています。
晩年には息子であるCristofano Allori
(クリストーファノ・アッローリ)とも共同制作を行い
広大な風景を背景とする
新しい北方絵画の画風も取り入れるようにもなります。
ウフィツィ美術館所蔵の「イサクの犠牲」は
そうした晩年の彼の代表作でもあります。
現在フィレンツェのサンタ・クローチェ教会
(Cenacolo di Chiesa di Santa Croce)に所蔵されている
Deposizione di Cristo(キリスト降架)。
左下に描かれた聖母マリアを支える女性の足元に
「ブロンツィーノの弟子、アッローリ」とサインが残されています。
このサインでは1560年制作と記載されていますが、
実際に残っている教会の古文書には
1563年から1567年の作品と記されています。
1966年11月4日の洪水で被害にあった作品の一つで
完全に水に浸かり、
2009年に大々的な修復が完了しました。
ミケランジェロやブロンツィーノの影響を受けた
マニエリスム技法全快の作品ですが
女性の表情に特有の優しさがあり、
その繊細さは
アカデミア美術館
(Galleria dell'Accademia di Firenze)にある
アッローリの「受胎告知(L'Annunciazione)」の
やわらかな雰囲気にも通じるところがあります。