送信from Y.Yoshizmi
「馬から落ちて落馬した」という訳ではないのだが、市販の「塩焼き鯖」の切り身を、更に網で焼く。
「臭い!」「油が落ちてガス台が汚れる!」「手が臭くなる(ガス台の掃除)」「家人にサンザン非難される!」などなど、散々な目にあうのだが、その「苦難」にもメゲず(性懲りもなく)時折、しっかり焼いた(塩さばに味塩を振って、傾けながら油を落とすのだから、かなり身が締まる。)焼き鯖が食べたくなる。
スーパーの食材コーナーで手に入れた調理済みの食卓用オカズを食卓に出すとき、必ず少し手を加えてしまう。
最低でも、パックのまま出すことを私は絶対にしないのだが、この世には、というか身近には、もっと合理的な精神の持ち主が大勢いて、というか約1、2名いて、汚れ物や手間が増えないように、パックのままポンと出すことこそ「超近代的」というか、「常識」というか、生活習慣にしている方々がいらっしゃる。
まあ、「美学」の違いだから、その違いを相手に深く追求することはしないが、どうしようもなく「己の人生を寂しく感じる」ことになる。知ってる?すべては、我が身のせいだ。
マレーシア航空機の乗客が、いよいよ「絶望的」だとマレーシアの政府が公表したら、まあ、中国の遺族が泣き喚くの何の!身内を亡くして悲しいのは分かるが、航空会社や政府当局を激しく非難するのはどうしたことか?
賠償目的か、4千年の歴史を持つ民族性なのか?
聞いてみたい、「悲しい?」って、きっと「当たり前だ!」って、殴られるかもしれないなあ。わたしゃ、家族が乗っていなかったから悲しくない。「なんで乗ったの?落ちるかも知れない飛行機に、さ」って軽薄に聞いたら、きっと殺されるな。嘆き悲しむのが嫌だったら、家族を乗せなけりゃ良かっただろ?(もう一度殺されるぞ!)
今の時代は交通の便が非常に良くなって、車、電車、船や飛行機で遠くまで気軽に出かけることが多くなったけれども、だからといって、基本的な危険性が消え去っているわけではない。乗り物に乗る機会が多くなればなるほど、事故にあう確率も高くなる。
安全性が高まる一方で、乗るチャンスが大幅に増えたのだから、事故の確率は増加している。一生に一度飛行機に乗った場合と毎月出かける場合では、大きな違いがあるし、電車や車だって同様だ。ちょいと、気楽に出かけるが、その選択は常に、自己責任というわけだ。「社命」であっても自己責任だ。何といっても、その会社を選んだのは自分だから。自己責任の「選択」意識が余りに希薄になっているだけのことだ。
天はいつだって「公平」なのだ。「やり場のない憤りや悲しみ」を誰に与えるのか?軽薄に生きている、生き残った我々に与える。それは個人的悲しみであって、当局のせいではない。当局がミサイルで撃ち落としたなら話は別だし、航空会社は飛ばしてナンボの商売だ。落としてナンボではない。
世界中の真の関心は、一体マレーシア航空旅客機に何があったのか、というミステリーなのだ。
「馬から落ちて落馬した」という訳ではないのだが、市販の「塩焼き鯖」の切り身を、更に網で焼く。
「臭い!」「油が落ちてガス台が汚れる!」「手が臭くなる(ガス台の掃除)」「家人にサンザン非難される!」などなど、散々な目にあうのだが、その「苦難」にもメゲず(性懲りもなく)時折、しっかり焼いた(塩さばに味塩を振って、傾けながら油を落とすのだから、かなり身が締まる。)焼き鯖が食べたくなる。
スーパーの食材コーナーで手に入れた調理済みの食卓用オカズを食卓に出すとき、必ず少し手を加えてしまう。
最低でも、パックのまま出すことを私は絶対にしないのだが、この世には、というか身近には、もっと合理的な精神の持ち主が大勢いて、というか約1、2名いて、汚れ物や手間が増えないように、パックのままポンと出すことこそ「超近代的」というか、「常識」というか、生活習慣にしている方々がいらっしゃる。
まあ、「美学」の違いだから、その違いを相手に深く追求することはしないが、どうしようもなく「己の人生を寂しく感じる」ことになる。知ってる?すべては、我が身のせいだ。
マレーシア航空機の乗客が、いよいよ「絶望的」だとマレーシアの政府が公表したら、まあ、中国の遺族が泣き喚くの何の!身内を亡くして悲しいのは分かるが、航空会社や政府当局を激しく非難するのはどうしたことか?
賠償目的か、4千年の歴史を持つ民族性なのか?
聞いてみたい、「悲しい?」って、きっと「当たり前だ!」って、殴られるかもしれないなあ。わたしゃ、家族が乗っていなかったから悲しくない。「なんで乗ったの?落ちるかも知れない飛行機に、さ」って軽薄に聞いたら、きっと殺されるな。嘆き悲しむのが嫌だったら、家族を乗せなけりゃ良かっただろ?(もう一度殺されるぞ!)
今の時代は交通の便が非常に良くなって、車、電車、船や飛行機で遠くまで気軽に出かけることが多くなったけれども、だからといって、基本的な危険性が消え去っているわけではない。乗り物に乗る機会が多くなればなるほど、事故にあう確率も高くなる。
安全性が高まる一方で、乗るチャンスが大幅に増えたのだから、事故の確率は増加している。一生に一度飛行機に乗った場合と毎月出かける場合では、大きな違いがあるし、電車や車だって同様だ。ちょいと、気楽に出かけるが、その選択は常に、自己責任というわけだ。「社命」であっても自己責任だ。何といっても、その会社を選んだのは自分だから。自己責任の「選択」意識が余りに希薄になっているだけのことだ。
天はいつだって「公平」なのだ。「やり場のない憤りや悲しみ」を誰に与えるのか?軽薄に生きている、生き残った我々に与える。それは個人的悲しみであって、当局のせいではない。当局がミサイルで撃ち落としたなら話は別だし、航空会社は飛ばしてナンボの商売だ。落としてナンボではない。
世界中の真の関心は、一体マレーシア航空旅客機に何があったのか、というミステリーなのだ。