モノと心の独り言

コミュニケーション/メディア/コミュニティ ココロの建築家になりたいと・・・ 

言葉が解け、写しから扁形した写像・映像に代り、名前もまた身体を分散して、ID・パスワードに

2010-11-28 02:03:09 | コミュニケーション-メディア
国会内では、失言が続いているという。
失言だと言われている’暴力’という言葉は、’軍事力’、’自衛力’などの中から選ばれた言葉だろう。発言の立場により、自己中心的な’自衛’、国家間の’軍事力’、が使えないなら、枠をひろげて’物理的な強制力’とでも、言い換えればいいのだろうか? 情報社会で国際化しているのなら、情報的な強制力とはなにかと、思考を拡げてもみたくなる。

尖閣列島の映像も、海上保安行為とか衝突事故とか、言葉での表現は様々にあるし、解釈もさらに分かれるだろう。しかし、映像自体が、広く流通し、その歯止めがかけられないのは、映像自体も言葉と同じように流通性を持っていて、その意図・解釈は受け取り、再流通させる側に委ねられてしまうということだろう。生活のなかで、CF・キャラクターから街の看板、建造物、自然現象・・・、さまざまなモノが、切り取られ、注意を喚起することで意図を媒介する。しかし、そこからくみ取られる意味は、状況と受け手の志向次第だ。

マスメディア自体が、失言をことさらに強調し、そこで問われている内容から注意をそらしてしまえば、国会内での議論は、さらに不毛なものになる。その視点・立脚点を、多様にするほど、情報はノイズとなって、見聞きする時間も惜しくなってくる。後は、研究者・評論家の業界のモノになるか、ニュース・報道番組・ワイドショーなどで、さらに枝葉・感情を載せられエンターテイメントとして、時間消費商品となる。
日常会話のネタとして、楽しんでいる人もいるのだろうが、私には、煩わしさがつのって、政治や社会から遠ざけようとする改革が進んでいるのかと、政治家やマスメディアの意図をうがってしまう。

ホワイトボードも、モニターもない国会で、言葉を空回りさせていること自体が、印刷言語時代の習慣をつづけているだけで、現代の生活文化の認識がないことを現わしている。司法機関は、録音も映像も、証拠と認定されれば、活用しているのではないか? 事業者・活動者は、プレゼンテーションや討議の手法を発展させ、効率化しているのでは。いまでは、小学校でも、いろいろなコミュニケーションや意思統一の手法は、試されているのではないか?それをしりつつ、国会中継を観ると、この旧態依然は、何なのだろう?意図的な政治家の利権擁護のやらせの場ではないのかと、さらにうがってしまう。
議員定数を減らす話も、全国の情況を集約し、検討する手段と効果の問題へと具体化されてはいない。道州制もまた、テリトリーを区分けし直すだけに止まるなら、勢力争いの道具にされるだけ。小選挙区制も、自党に有利・不利、政策も政権取得に有利・不利。おこぼれを預かりたいワケ知りは、内容を明かして、立場を危うくしたくはないだろう。

一部の、識字能力・作文能力を持つ人から始まった政(まつりごと)を、今でも、政治用語を使う人の特権だというのだろうか?それなら、世論調査などに過剰に反応しないで、会議時間や任期を十分に活用して、政治の役割を、立証してほしい。現代なのだから、当然、情報公開をし、プロセスを明らかにしながらということだけど。

・・・もしかしたら、だれも、自分の今の立場を失いたくないから、世の中が変わることを望んでいないのかもしれない・・・。自分だけ、ちょっといい目に合うように、社会的なことには、考える習慣もなくなっているのかもしれない。
それなら世界市場の強者に任せ、考えたりしないほうがいいかもしれない。

というのは、言語の論理・自然科学の真理などでは割り切れないことを、統計とか指標とかを越えた、動物的な感情というよりも爬虫類的な衝動で動く市場に任せる、時代ということだろう。すでに、次世代を産み、育てているのはモンスター・ペアレンツであり、親子同士の虐待や犠牲を止められない社会、逆を言えば、家族・親族・地域が集結しなくても済まそうとする「豊かな社会」になっているのだとも考えられる。

ここでは、物理的暴力の必要はなく、「平和」・「非戦」を唱えつつ、感情の爆発を押しつけるか、周囲に無感覚・無関心に、散逸し孤立を深め、接触のないつぶやきとスキャンダルで隙間を埋める。

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