モノと心の独り言

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AR (拡張現実)を考える

2009-10-09 11:23:15 | コミュニケーション-メディア
通信・放送・情報時代のメディアが
社会メディアとなるのか個人メディアとなるのかは、相対的だ。

何で発信しているか:a
どれだけの反応があるか:r
どれだけ蓄積し再利用しているか:t
とすると、

これまでは、
a×r が最大になるかどうかを競うのが’マスメディア’の指標だった。

a×t は、一貫性を持つ個人メディア。これにrが加われば、’アート’となる。

通信/放送/情報時代は、マスメディアのa×rをその都度最大にするばかりではなく、過去の情報を取り入れてa×r×tを得る。’キャラ’と’有名人’で反応の一貫性得る。

個人は、ネットワークにデータがオープン化されることで、r拡大の可能性を持つ。

そして、ユビキタス化がモバイル・クラウド・Saasなどで普及してゆくと、個人は、居る時・場所での指向性に沿って、ネットワークを介して、情報化されたサービスを編集してゆく。ここで、環境としての’情報化による拡張現実’と、人が実存する’現実拡張’とがつながってくる。

この、実存する拡張現実における、現在・現地点での際限のない刺激は、二つの方向へ個人を向かわせる。一つは、より短期記憶が長期記憶に対して多くなり、
’わかりやすい’直感・縮約的な刺激に反応するようになる。
これで、外部刺激を制限し、持続し、系統化して、脳内関係を整理・方向付けてきた長期記憶が、個体において形成されにくくなる。
ミクロからみれば、親子・家族・地域がはぐぐんだ、血縁・地縁を支える記憶が少なくなった。近代がその記憶を、生産と消費という関係で解体し、’自由’な’個人’という概念を育てた。それまでは身分・住処・生業は、社会に従属する一部だった。個体記憶というよりも、社会記憶といっていい、長期記憶が中心だった。言葉を換えれば、不可思議・永劫への恐れ・あこがれ、人格化した神などとして共有される長期記憶。その共有を前提とする信仰・倫理・道徳などに従って近代的個人が自主的に行動することが個人の自律だった。そして’罪と罰’から’権利と義務’へ、個人行動を律する基準は、言語自体に頼るようになってきた。祭司・書記・政治家・学者・法律家・会計士などすべてその言語・記号を操る人だった。音・画像・映像などのメディアもまた身分・権力・財力に偏在し、生産と消費は分離されていた。メディアは常に、社会的な政治と商品に結びついていた。
しかし、音・画像・映像から多様なセンサーが、個人と周囲と関係づけてゆく。

今・此処、身体の属するところは、
過去と未来・どこでもつながる空間の任意の時点であり、、
また継続する固有の場であることの二面性を持つ。

社会メディアとしての拡張現実は、現実拡張する個体のメディアに作用して、
個人の行動を拡散して、社会的エントロピーを増し停滞感を増すのか、
偏在・凝縮して、多様なリアリティ、達成感を増すのか。
機能的近代文化が量から質へ向かうのは、個人の編集力次第。
テキストと2次元の図・チャートぐらいでしか編集できないアナログ世代を、
デジタル世代は超えているのだろうか?

<参照:
絶えず過去を審議し、現在を再構成し、それを未来へ投影するのが記憶であるとしたら、記憶は現在進行形でしか存在し得ない。記憶は移動能力を持つ。記憶はつねに湧き出るものであり、建築されるものである。<港千尋氏著 『「記憶」ー想像と想起』P.82より

 展開:アフォーダンスの展開・感覚の境界
    環境の縮約、反応の縮約
    環境のオントロジー・感覚のオントロジー>

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