モノと心の独り言

コミュニケーション/メディア/コミュニティ ココロの建築家になりたいと・・・ 

記録されること、写像のリアリティの行方

2006-03-24 07:02:38 | コミュニケーション-メディア
60インチ大判プリンター
フォトプロジェクター
アスキー24.com 【PIE 2006レポート Vol.1】脱初心者・入門者市場を模索し始めた“写真と映像の未来が見える夢の祭典”――フォト イメージング エキスポ 2006開幕 
より参照:


プリクラがはやった頃から、
いや、
阪神大震災で一人残された老婆の一言
「あの家族の写真だけは失いたくなかった・・・」を読んだころから、
いやいや、
映画「ブレードランナー」のレイチェルの捏造された家族の記録の頃から、
いやいやいや、
私が抱えて捨てられない写真たち、
家族写真、旅行写真、記念日の写真、・・・・
写真が、貴族の肖像画を大衆化し始めて以来

私が存在した(自分はほとんど写っていないのだけど)
私が感じた対象との関係の記録

その記録だけが残って、
関係はその場限りで消え去ってゆくとしたら・・・

もう、写像は、コマーシャルを迂回しなくても、
ちょっと気張れば、個人が等身大に焼き伸ばせ、映写できるのだから


もっと希薄になり、
もっと大げさに街を多い尽くすのだろうか・・・

そういえば、
落書きは、自らの存在を示すため
バスキアみたいに街のアートになるか、
私有財産の侵害になるか、
社会的視覚の侵害になるか、
では、見たくもない広告と見たい広告が視覚を占拠する中、
私達は、見えても見ない習慣を身に着けて行かなければ、
あるいは、視覚的不感症になって、
もっと刺激を求め、
身近な、僅かな出来事から盲目になればいいのだろうか?


(どうでも、いいじゃん)
(そうねえ・・・・・・)


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