新国立競技場の再コンペについて希望したいことは、今後の東京・日本のありたい姿とオリンピック・パラリンピックのありたい姿を、審査の日まで公開で協議しつづけてほしいこと。(デザイン・技術の仔細は専門家に任せても)
私が学んだ「建築家」像は、経済・技術・文化のバランスを取りながら建築的寿命の未来に応える人。国立競技場は、全権をもったパトロンがいる住宅や、企業施主の建築物ではない。これは公共建築で、長期に、競技を行い、8万人ほど観衆が集まる場を、東京に作ることと、2020年のオリンピックで利用できる場を用意するものであって、コストや個人的な好みだけで、判断されるものではない。
コンクリートの理論的強度は、打設後70年以後弱くなる。構造物も設備も永遠のモノではなく、通信・情報技術・機器・ネットワークとイベントのあり方は、大きく変わってゆく。かっての巨艦戦艦時代が変わりつつあった時代に大和を作り、不毛の沖縄航海に出したのは、政府と国民の民度の問題ではなかったか。
少子・高齢社会がすすむ日本の経済市場は縮減し、障害者だけでなく要介護者の人口比率は高まる。世界の環境負荷は高まり、資源・金融・消費市場の競合はさらに激しくなる。これからの時代の象徴の一つとなる国立競技場の目的・期待したい成果・長い寿命のなかでの効果など、枝葉ではない基本を、国民が表明し合う時ではないか?
マスコミは視聴率と広告で支えられているゆえにスキャンダラスにならざるを得ない。だから、国民が手間をかけ、身近な人と語り、ネットで共有してゆく必要がある。それを、代議員がまとめてゆけなかったら、民主主義社会だと標榜できるはずがない。まして、多様な背景を持つ多面的な人が生きる現代では、特定の人格にゆだねるのは、判断放棄だ。専門家でないからこそ、利用者であり観客であり、税の負担者であるからこそ、目的と利用したい方法、期待したい成果などが明示される必要がある。
気分でことを進めてしまえば、いつか来た道。国狭く、あらたな石油資源もなく、加工賃と海外移民でも足りないと、大陸に進出し入植して、拡大経済を夢見て、関係国の多くの命を犠牲にした道に。今アジア経済が膨張しようとしているときに、日本国内、東京の未来図を描けず、消耗しているゆとりはない。無駄を省き、生産性を上げる努力を後回しに、預金・年金・税金までも為替・株式市場の拡大につぎ込んでいれば、新国立競技場の予算が1300億円から3000億になっても気にはならなかった。政治家・マスコミだけじゃない、彼らは責任をとってはくれない。目の黒いうちはと延命している年配者やその利権を引き継ぐものを信じて、無関心、あるいは呟いているだけではこと済まない。やはり、世は無常のDNAをもつ日本人でありつづけるのか?
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます