敗戦に懲りた平和ネタのあふれる8月15日は、誰もが 「平和」を唱えれば贖罪されたような気分。誰が、何が、戦争を起こし、戦地に向かい送ったのかという前提を飛ばしている。何故負けたのではなく、なぜ、戦争や争いが無くならず、また、形を変えて拡大しているかの自覚もない。
歴史を振り返れば、生活圏を超えた略奪・交易・植民・資源市場占拠など、族や国家単位の武力を伴う競合は続いている。
都市国家のギリシャ市民は戦うことが使命だったし、王族・貴族は、年貢や徴税で傭兵を雇い戦場で指揮をし農地・狩猟地の拡大を図った。大航海時代は、金銀の収奪と農産物の輸入から植民地の拡大で商業資本が拡大し、産業革命以後の資源・市場競合期から国民戦争になった。労働者の生活向上は、資源と市場が拡大することであり、職業軍人と傭兵から、徴兵・国民皆兵になった。職を得て生活を維持・拡大するために、子孫を増やし、戦力として戦場にでる時代だった。
二度目の世界大戦後、東西冷戦を経て、人種でも主義でも戦わないことを目指し、国家間のバランスを維持する時代に入れたのは、資源や生産高競合時代から、消費市場・金融資本市場の競合時代に入ったからだ。
あの限りがない人間の欲望の結果、戦争と敗戦という不幸に遭ったということを、単に平和だけを願うことでは反省したことになならない。限りある資源や市場を斬新的に拡大しようとする人たちや、格差を超えられない絶望の人たちが、地域や種族や宗教を手がかりに、武力を使う時代が今。金融資本市場、為替による交換比率や年金保全を賭けている時代は、多くの人が均衡を願い、「平和」を掲げ、国家間の戦争を避ける。
この未来への欲望と不安を賭ける金融資本市場の変動がまた利ザヤを得る時代には、市場バブルを膨らませ崩壊させ、為替変動での鞘抜きを繰り返す時代。それが、さざ波・津波となって、実体経済・生活圏を蝕み・破壊する時代。だれもが、勝ち組となりたがり、資本自体の自律運動に巻き込まれてゆく。資本の回転が、地球資源の浪費・環境の破壊となっていっても、資本市場自体はより大きな変動を繰り返すことが本性だ。
この人間の欲望を制御するのは、やはり更なる社会革新手段ではないか?
情報科学技術と社会基盤が、更なる社会・生命・エネルギー科学の発展を催し、更なる人類同士の競合を安定させ、地球環境の保全へと向かう時代に、私たちは立っている。一人一人の生活で市場競合や環境保全にフィードバックが可能な社会へ。
入植地や石油エネルギー確保で始めた大東亜戦争の反省をするなら、地域振興と代替えエネルギー政策の推進に、より集中してゆくことが出口。地域の価値生産性を上げ、遍在する化石エネルギーに依存しきらない国へ。国家は、世界市場の中で、政治家による統御ではなく、関わる人が運営する単位となってゆく。選挙日だけの投票ではなく、日常の活動データの確認と方向づけに、誰もが関与する政治へ。
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