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映画『真珠の耳飾の少女』、光の世界に開かれて

2005-08-20 12:38:35 | 映画・音楽・・・パッケージ・メディア
「雲の色は?」

「白・・・
 白じゃない・・・
 黄色、 青、 灰色、     色が混じって・・・」
              『真珠の耳飾の少女』より

少女は、光の世界を開かれて、
歓びと、悲しみと、永遠の想いを知る。
光の世界の感覚を共にする、
一つの愛の形。

”二人の永遠の愛”を描いてきた近代から
なにか、抜け出ている感じの映画の一つ。
身分や家族性が主題ではなく、
社会の事件や偶然のドラマでもない。

感覚の歓びを共有すること、
光の世界の官能を分かち合うこと自体が、
描かれていたのではないか?

最近観た映画では、
「ダンサー・イン・ザ・ダーク」
「オール・ザッツ・ジャズ」など
アーチストたちの感覚を
きめ細かくなぞってくれる映像を思い出す。
また、スカーレット・ヨハンソンが出演した
「ロスト・イン・トランスレーション」でも、
日常の世界との関わり方、
感じ方自体の共振感とでも言おうか、
分かれつつ繫がっている感覚を残している。

私たちのリアルとは、
所有ではなく、感じられること。
伝達するのではなく、共振すること。

理解し、分かち合う
共通の背景や、一体感を要請しない、
認め合い・共振し合う、
トライバル(Tribal)な関係が見い出される。

その光にかもし出された共振する世界は、
この映画の始まり、主人公が家のため働きに出る日、
野菜を切り、食事を整える日常の動作を惜しむ映像から、
一つ一つのシーンの色合い、空気感、静溢な時の流れのなかで、
終わりまで、ゆっくりと、丁寧に続いてゆく。

唯一のショックは、
二人がピアスの穴を開ける痛み、
引き返せない瞬間を越えた
別れの予感、

流れた血は、
絵画の耳元の影に鈍く光る真珠に凝縮する。

世俗の関わりや出来事は、
光の世界に住む二人から遠ざかり、
二人のリアリティの残渣として、
真珠の耳飾が少女の下に届く。

生き続ける為の、確かなことは・・・

<写真は、東京、夏雲>
世界での秘められた官能の共有なのかもしれない。

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