「ゼロ年代の想像力」宇野常寛著 2011年9月発行の文庫本で読んだ。
90年代以後を、東西冷戦の終結・成長神話の崩壊から、喪失と絶望の想像力とするのは、父性偏向から母性偏向へ、’オタク’、’しない’、’マッタリ’、’世界系’へに移行という。2000年~執筆時点までのゼロ年代を、’新教養’、’~する’、’決断主義’、’バトルロワイヤル’とし、その出口を、’終わり有る関係を生き続けることへ’とする。
文学批評家の著作が、SFの早川出版から出、文学が情報社会のなかにいることに気付く。ケータイ小説も、そのケータイでの読まれ方があり、生き方も、メールやブログ・SNSでの関わり方が増える。大都市郊外化は、全国化して、日本の大衆社会には、都心・中心はない。
明治維新・敗戦で、西欧化・米国化が進み、あたかも新島国での戦後、文学も風土から離れつつあるのだろうか?
老人の私はこの本を、90年代以後の青春の文学史として読み、近代化という日本大衆の青春から成年への区切りとして読む。それは、大衆として’読み書きそろばん’とともに、コミュニケーションとメディアを使いこなせる情況になったから。しかし、多重言語であり表象でもある日本語で育った人の’文学’は、身体の居続ける風土との関わりを活かすことで、グローバル市場での、差異を持続できるのではないか?
近世から近代をこえて現代にいたり、身分社会から階級社会をこえて大衆社会としての日本は、やっと成年期へ入る。母性偏向・父性偏向の間をゆれつつ、限りある生・自らの死・次世代の成長を、このコミュニケーション・メディア情況で記するのが、2010年代の文学なのだろうか?
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