モノと心の独り言

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すべる言葉、焼きつく映像、共有される映画の果てへ

2005-05-21 07:26:22 | コミュニケーション-メディア
中島みゆきの歌に「あした」というのがあって、
「語れば語るほど、相手から遠くなる」と歌われる。

”ことば は、身わけ、コト分け”といわれているように、
自分を切り出したときに発話され、
あいまいさを区別し、対象を切り離すことで増え続ける。
語り続けられれば物語となり、
記述されれば論理化される。
言説が実証されると科学となり、
世界の一部を写しながら、変えてきた。

しかし印刷文化時代の果てに言葉は溢れ、
デジタル時代では、自動生成されている。
社会的な言葉は、分野・専門・関係者の数が相乗されて細分化されてゆく。
その一人一人の生活の言葉もその履歴にそって重ねられ、意味も重みも異にする。
共通の背景を持たない言葉は、
語られるほど、書かれるほどに、互いを隔て、滑ってゆく。

実は”解る”ということは、納得という共感の領域である。
当初の分離・分析からどこかで引き返し、
全体を丸呑みして、認めるか、信じることで、治まる、
ヒューリスティックなことである。、

音も映像も、はなから共感のメディアであり、
対象のエネルギーの一部が伝播して、その場で共有され、
共感され、繰り返された手がかりとして、身体に蓄積する。
現象を焼き付ける写真や映像が、
プリクラや写メールのように個人化される。
言葉より、写され・聴き取られうるモノが、社会に流通する。
ことばが、文字となり、活字となって世界を巡ったように、
音楽や映像が、それ自体自立したパッケージとなって流通し、
ネットを満たしてゆく。

では音や映像が、その言葉の隔たりを埋めてゆくことができるのか?
繰り返される映像が、リアリティを持ちうるのだろうか?

『パッション』という映画は、福音書の言葉、物語を映像化した。
 より”大きな”より"精緻”な映画がつくり続けられる一方で、
『ナコイカッツィ』は、ドキュメンタリーを微積分する。
『HANABI』や『茶の味』は、コントやCFの断片へと還元が可能だ。
 流通する多様な映像を、切り取り・編集し、その気分を共有しているようだ。

<バカボンの叔父>
(次回は、映像の地域性、やさしいことを、難しくしか描けないのが問題だ)
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