風評自体が被害を及ぼすわけではない。
風評が確かめられないまま、一人歩きして、増幅されるのが怖い。
世に絶対的に’正確’な情報は無い。
現場から情報は来ない。
被災現場からも、生活現場からも、営業現場からも、
現場から自動的に情報は来ない。
たとえ、監視カメラが動いていても、それは、現場の数だけ・見る角度の数だけ、見たいものと見ても意味を生じないもの後同時に写されているだけのノイズなのだ。
販売現場でのPOS(Point of Sales)データも、売れたデータであり、新たな差異を求めてこれから売れるもののデータではない。
なぜなら、次の消費は、次の行動を誘引する刺激によって変わるからだ。
「科学データ」も、その前提・検証のしかた・検証対象の選択・検証データの解釈・結果の現実への有効性などとセットになっている。
そこで、放射能測定値のように、その一部だけを切り取って、不安と楽観で語れば、風評被害となる。その数値が、だれに、どのように、関わるのか、類推できるほどの事例はない。短期の被爆経験も、核実験場地域での長い治験も、チェルノブイリでのデータも、想定値であって、社会のその時の対応力に沿って、定められている恣意的な数値である。だから、その数値を扱うのは、政治的・経済的・心理的な恣意に沿っている。
高齢者と子どもでは、その数値に立ち向かい、覚悟を決める値は異なる。企業も家計も、どれだけの費用を充てられるか、覚悟が迫られる。個人消費力に頼るのか、税にたよるのか?総論賛成、各論諦め。被爆地で住み続けることを選ぶことも、自己責任として許容するしかなくなる。沈む大地に人工地盤を立ち上げる価値があるかどうかも、当事者の未来への欲望が決めるのであって、既得権を全国民が支えるのでもない。なぜなら、居住地の自由選択と居住地の安全は、居住者の覚悟に任されているからだ。
なぜ風評被害までゆくか?それは、裏側に期待があり、それが満たせないからだ。
風評が立つことが世の動きの気配なのだが、それに応えない、応えるスピードが追いつかないから、拡大し、納らないのだ。より正確な情報を出し続けることが、信頼を得る手段であって、その反応は、持続性、期待したことへの反応が続くことにかかっている。
それぞれのメディアには、それぞれのスピード感がある。
今回の震災後の石油コンビナートのメールとTwitter上での風評は、企業側の早期反応で、短期で打ち消されたそうだ。接続しつづけている人にとっては、その短い時間のなかで、断片を寄せ集め判断する。
映画・月刊紙・週刊誌・日刊紙、TV・ラジオ、Web・ソーシャルメディア・メール・・・それぞれスピード感が違う。その記録・表現の形式を移すときには、異なる時間軸に内容が移されることになる。
ユニファイド・メッセージは、この情報のスピード感の浸食を起こしてゆく。
メールを印刷して、印刷物しか読まない人に渡せば、文書となり、壁にはれば、高札となり、社会化してしまう。
その使い分け、印象が一人一人、時と場と内容によって異なる状態だということで、
意図したとおりに情報が伝わり、意図した行動を誘発することは多くはない。
だから、部分的・個人的・判断が、一時的に適切だったとしても、
その賞味期限や範囲は、受け手側が選べる状態でありつづける必要がある。
現代の不安とは、つねにこの代替案が在り続け、絶対の答えがないことなのだ。
その場、その場で違いを論って、責任を追及していたら、次の事態に対応できなくなる。
だから、その相対社会のなかで、身のまわりの関係が深い活動領域を軸として、
より現場に近いところからの情報が、多様な感覚で、ネットワークに充満しているのが望まれる。その行動範囲・所用時間の長さで関与できる範囲で、課題や話題が直覚できるような状態をどうつくるのか、その3要素が、モバイル・ユニファイド・ネットワークなのだ。
この状態で行動する人の数・分布がある閾値をこえれば、風評が社会の気運となって、被害ではなく、成果を生んでくれる。風評を煽り商品にする商業ラジオ・TV時代の情報モデルでは、被害へとマイナスに不安を煽り、チャネルを固定させる。要は、現場からの情報を、別の次元で相対化してもう一度現場に環流できる状態になればいいのだ。
素朴にいえば、一次刺激を二次刺激に換えることで、人間であることであり、
動物社会から人間社会移るには、衣食住という直接の利害を超えられる余剰の中で、
別次元の社会欲求を共有するかどうか、ということである。
物理的な拡大・共有の限界は、環境問題で直面してしまった。
では、身体・精神への次元へと降りるかどうか?
オリンピックやサッカー、音楽・映画・アニメ・ゲームなどは、
すでに世界を流通し始めた。
これから、もっと身体性の深い、人の技や感覚などの共感・共有が進むだろう。
言語表現を越えた刺激を一人一人の活動現場に繋ぐのが、
モバイル・ユニファイド・ネットワークなのだ。
そこで、風評は社会的な歓びの表現となり、GDPを増幅することになる。
風評は、人の知恵の価値をレバレッジしてマネタイズする。ズレると風評被害。
カタカナに変換すると、何をいっているのか分からなくなるけど。
追記)それにつけても、政治家が社会的な経営者に劣りだしてきたのは、いかがなものか?
ワタミ・渡辺会長を参与に 岩手・陸前高田市 復興へ「経営力生かす」
支配欲・主動力が、政治家の糧なのか?それとも、現場の状況と声なのか?
声だけでは、村社会。状況を精査し、地域・広域・国家・国際の中で、位置づけて、説明できる人は、いないのか? 議場の様子では、演説に酔い、言葉の断片に頼り逃げ、罵詈雑言をぶつけて支配欲をむき出しにしているだけだと、異星人は思うかも。
風評が確かめられないまま、一人歩きして、増幅されるのが怖い。
世に絶対的に’正確’な情報は無い。
現場から情報は来ない。
被災現場からも、生活現場からも、営業現場からも、
現場から自動的に情報は来ない。
たとえ、監視カメラが動いていても、それは、現場の数だけ・見る角度の数だけ、見たいものと見ても意味を生じないもの後同時に写されているだけのノイズなのだ。
販売現場でのPOS(Point of Sales)データも、売れたデータであり、新たな差異を求めてこれから売れるもののデータではない。
なぜなら、次の消費は、次の行動を誘引する刺激によって変わるからだ。
「科学データ」も、その前提・検証のしかた・検証対象の選択・検証データの解釈・結果の現実への有効性などとセットになっている。
そこで、放射能測定値のように、その一部だけを切り取って、不安と楽観で語れば、風評被害となる。その数値が、だれに、どのように、関わるのか、類推できるほどの事例はない。短期の被爆経験も、核実験場地域での長い治験も、チェルノブイリでのデータも、想定値であって、社会のその時の対応力に沿って、定められている恣意的な数値である。だから、その数値を扱うのは、政治的・経済的・心理的な恣意に沿っている。
高齢者と子どもでは、その数値に立ち向かい、覚悟を決める値は異なる。企業も家計も、どれだけの費用を充てられるか、覚悟が迫られる。個人消費力に頼るのか、税にたよるのか?総論賛成、各論諦め。被爆地で住み続けることを選ぶことも、自己責任として許容するしかなくなる。沈む大地に人工地盤を立ち上げる価値があるかどうかも、当事者の未来への欲望が決めるのであって、既得権を全国民が支えるのでもない。なぜなら、居住地の自由選択と居住地の安全は、居住者の覚悟に任されているからだ。
なぜ風評被害までゆくか?それは、裏側に期待があり、それが満たせないからだ。
風評が立つことが世の動きの気配なのだが、それに応えない、応えるスピードが追いつかないから、拡大し、納らないのだ。より正確な情報を出し続けることが、信頼を得る手段であって、その反応は、持続性、期待したことへの反応が続くことにかかっている。
それぞれのメディアには、それぞれのスピード感がある。
今回の震災後の石油コンビナートのメールとTwitter上での風評は、企業側の早期反応で、短期で打ち消されたそうだ。接続しつづけている人にとっては、その短い時間のなかで、断片を寄せ集め判断する。
映画・月刊紙・週刊誌・日刊紙、TV・ラジオ、Web・ソーシャルメディア・メール・・・それぞれスピード感が違う。その記録・表現の形式を移すときには、異なる時間軸に内容が移されることになる。
ユニファイド・メッセージは、この情報のスピード感の浸食を起こしてゆく。
メールを印刷して、印刷物しか読まない人に渡せば、文書となり、壁にはれば、高札となり、社会化してしまう。
その使い分け、印象が一人一人、時と場と内容によって異なる状態だということで、
意図したとおりに情報が伝わり、意図した行動を誘発することは多くはない。
だから、部分的・個人的・判断が、一時的に適切だったとしても、
その賞味期限や範囲は、受け手側が選べる状態でありつづける必要がある。
現代の不安とは、つねにこの代替案が在り続け、絶対の答えがないことなのだ。
その場、その場で違いを論って、責任を追及していたら、次の事態に対応できなくなる。
だから、その相対社会のなかで、身のまわりの関係が深い活動領域を軸として、
より現場に近いところからの情報が、多様な感覚で、ネットワークに充満しているのが望まれる。その行動範囲・所用時間の長さで関与できる範囲で、課題や話題が直覚できるような状態をどうつくるのか、その3要素が、モバイル・ユニファイド・ネットワークなのだ。
この状態で行動する人の数・分布がある閾値をこえれば、風評が社会の気運となって、被害ではなく、成果を生んでくれる。風評を煽り商品にする商業ラジオ・TV時代の情報モデルでは、被害へとマイナスに不安を煽り、チャネルを固定させる。要は、現場からの情報を、別の次元で相対化してもう一度現場に環流できる状態になればいいのだ。
素朴にいえば、一次刺激を二次刺激に換えることで、人間であることであり、
動物社会から人間社会移るには、衣食住という直接の利害を超えられる余剰の中で、
別次元の社会欲求を共有するかどうか、ということである。
物理的な拡大・共有の限界は、環境問題で直面してしまった。
では、身体・精神への次元へと降りるかどうか?
オリンピックやサッカー、音楽・映画・アニメ・ゲームなどは、
すでに世界を流通し始めた。
これから、もっと身体性の深い、人の技や感覚などの共感・共有が進むだろう。
言語表現を越えた刺激を一人一人の活動現場に繋ぐのが、
モバイル・ユニファイド・ネットワークなのだ。
そこで、風評は社会的な歓びの表現となり、GDPを増幅することになる。
風評は、人の知恵の価値をレバレッジしてマネタイズする。ズレると風評被害。
カタカナに変換すると、何をいっているのか分からなくなるけど。
追記)それにつけても、政治家が社会的な経営者に劣りだしてきたのは、いかがなものか?
ワタミ・渡辺会長を参与に 岩手・陸前高田市 復興へ「経営力生かす」
支配欲・主動力が、政治家の糧なのか?それとも、現場の状況と声なのか?
声だけでは、村社会。状況を精査し、地域・広域・国家・国際の中で、位置づけて、説明できる人は、いないのか? 議場の様子では、演説に酔い、言葉の断片に頼り逃げ、罵詈雑言をぶつけて支配欲をむき出しにしているだけだと、異星人は思うかも。
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