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首相靖国神社参拝問題の個人的座標

2006-08-18 09:35:35 | 暮らし・街・環境

首相靖国神社参拝問題に関わる
マスコミやネットや個人的な場での発言は、
語られる言葉・文脈で、それぞれのフレームがつくられる。
そこで、語られていないこと、語りえないことの隙間が見えるようにと、
個人的な座標をつくってみた。
目先の処世術ではない、国家的な座標をづくりも
必要になってきているのではないか?


***
小泉首相や次期首相候補の行動の如何を問えば、
それは、個人・私自身が靖国神社を拝むのかという自問と平行し、
私が、自身を・家族を・地域・自然を、歴史を、社会を
どう思っているかとつながってしまう。

8月15日は、ポツダム宣言受諾・全面降伏の日だ。
9月2日が、サンフランシスコ条約締結の日、敗戦の署名をした日だ。
東京裁判が戦争指導者への裁断だとすれば、天皇の人間宣言は、
日本の神々と仲介してきた神格者の自決だ。
”終戦”、”平和”、”国民の象徴”という言葉では、
語られていないことが多いのだ。

開国をし、富国強兵政策をささえ、
近代工業を根付かせ、
資源と国土を求めたのが誰なのか?
なぜ食料・生活環境がよくなったのか、
なぜ人口が増えたのか、
それを支えたのは、誰だったのか?

今振り返られる立場をもてることに感謝しつつ、
靖国神社に参る。

九段の坂をあがり、一の鳥居をくぐり行くと、
大村益次郎の銅像の向こうに本殿がみえてくる。
直線的で広々とした石畳を歩き、
右手の茶屋、車道を渡って二の鳥居、手、口を清め、
神門をくぐり、桜林の間を歩み三の鳥居をくぐって
拝殿の階段をあがり、参拝する。
参拝後、左に廻れば木々も深く、
梅林もあり、山林を感じる。
さらに、本殿の裏手を廻ると庭園にでて、
池を囲んで東屋・茶室・ベンチなどがある。

山々は、豊穣の水や土を育み、里に流す。
川辺の営みは、下流へと盛んになり、
ゆったりと海へ注ぐ。
池を海に見立て、
生と死とが同居する世界を感じる。


拝殿から右に廻れば、能楽堂、遊就館、相撲場など
武道・軍人の戦いの表象の場だ。
九段下には昭和館があり、家族や暮らしの記録がある。
殺し・殺されることで、国境をせめぎあい、
負け続け・敗走し、無差別爆撃・原爆の恐怖を共有した人達の殆どは、
語り得ず、口を閉ざし、他界していった。

身体による暴力的な支配・占有・運用は、
人に対しても、地域に対しても、今なお在る。
間接的に社会の習慣・制度・ルールを決めても、
それを越えて生存・拡張・占有・安定化しようとするのが
生命の本能だ。
地球に人口がこれだけ増え、死亡率はより少なくなる以上、
より多くの人と、自然を分かち、水や空気を確保しなければならない。
それも、今の繁栄・安楽の欲望を拡大しながらという、条件がつく。

国土・資源・市場・消費者へと戦いの対象は変わってきた。
工業化をへた金融資本市場の時代では、欲望と不安が商品だ。
戦争は治安問題と直結し、
法から管理の時代へと移りつつあり、
自立する個人は、反応する複数的なものへと分解しつつある。
生存は数量で計りやすいが、繁栄・安楽が何なのかは、
それぞれの人が置かれる情況での気分しだいだ。

広大な自然も無人の荒野もない島国の日本では、
四季の変化・自然の多様さのなかで
満たされきることも、飽きることも少ない。
海に囲まれ、国境の緊迫感のない、
対外的な緊張も、内的な緊張も持続しない。
台風や地震のように、そのとき大騒ぎしても、
過ぎてしまえば、堪えて、忘れるしかない。

マスメディアが署名しないで語り、語らないことで語る。
匿名者が実名者をメディア上で話のネタにしっぱなしにする。
また、「ちゃんと学んで、一緒に考える問題ですね」と出発点にもどして、
次の話題へと移りつづけてゆく。

しかし、どう感じ・考えるかを、
自らの言葉にし、行動しておいてこそ、堂々巡りを止めることができる。

「私は靖国神社参拝をします。」
「あなたは靖国神社参拝をしますか?」


国を経営体とみなすと・・・








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