誰にも、この世の神秘や美しさ或いは恐ろしさに、身も心も震えたことが在るでしょう。神道というと、ある特定の意図や宗教だと、区別・理解してレッテルを貼りがちですし、その道の専門家の話だけでは、腑に落ちないことも残ります。
しかし、比較宗教学のトーマス・カスーリス著の「神道」:ちく学芸文庫で、私なりにスッキリしました。
神道には、生活の中で実感・実施してきた実存的な面と、意識を行動規範にまで文書化してきた精神的な面があるそうです。古事記・日本書紀以前の文字がない時期、漢語による記述が始まった時期、仏教の中の密教とともに、神仏習合の時期、そして、国学から国政まで精神化・規範化された時期、そして太平洋戦争敗戦後行事・作法などの精神性を問わないように過ごして現代に至ります。
今、なぜ神道を気にするのか?
それは、メディアから感覚器をへて頭脳へ先に入る刺激が膨大になってきたからです。
自身の身体と連動してきた感覚が、感覚領域を拡げているのか?
それとも、身体・周辺環境から刺激を被い、多様さを失っているのか?
近代科学は、理性という意識により対象に対峙してきました。科学技術で対象を自由に操り、発展し続ける文明ユートピアには、先進国が国民・国家戦争を世界に拡げる手がかりとなり、今や宇宙から身体へ、神経系から循環系へと拡がってきました。認知する主体と認知の対象の関わりが感知されるようになると、環境から廻りの人そして身体から意識への相関関係が明らかになり続けています。
南北に長く、多様な地形と季候の日本列島に暮らす生活は、自然の恵みと脅威にさらされてきました。
また、世界のどこでも、採取農耕生活は、その自然に沿ってきました。
しかし、資源集中と工業的な生産・流通・消費により世界市場化をすすめる果ては、また、地域資源・生産力・文化力の差異の商品化になってきています。 衣食住の基本条件を満たすことから、差異と共感へと文化の領域に入る時代です。 刺激の量・頻度・直近さが、マーケッティング3要素で在り続けるとき、提供される刺激サービスを組み合わせ・組み替える消費が、レシピやコーデとして無限組み合わせのロングテールから沸騰ピークを作り続けます。
神道は、直面する一つ一つの事象と自らのスピルチャルな共振が原点のようです。感じ・気付かれる一つ一つが多様な世界と相似してくる、ホログラム的な世界は、多元的でも多層的でも、多様的とも違います。自らの身体と、関わる人々とモノやコトなどの小さな世界が世界と共振するのは、スモールワールドの繋がりを求め続けることとも、違います。
自身の身体と関わる人やモノとネットワーク・メディア&コミュニケーションで反応続ける自身が、生まれ・育ち・動き・死んでゆく時の流れのなかで、偏在しながらも共振している道を、神道と、言いたくなる書を読みました。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます