モノと心の独り言

コミュニケーション/メディア/コミュニティ ココロの建築家になりたいと・・・ 

言葉を失うとき、映像言語時代へ

2006-02-03 08:27:01 | コミュニケーション-メディア
ことば・言葉とクォリアの関わり
コミュニケーションとメディアによる生命原型モデル

パキスタン地震被災地の少女が、FMラジオから語りかけに”ことば”を取り戻し、
インタビューの応える”言葉”を使えるようになったことを、昨日記した。
今日は、携帯電話+ネット・メディア・プレーヤーが普及しているさなか、
私たちは今、映像言語時代へとむかっているのか、
そのとき、従来の言葉を失ってゆくのかなどへと、
散文してみる。

身体内の恐怖や悲しみが、まず身体自体の緊張から
”ことば”へと”かたち”づけられる段階が、まずある。
その次に、その”ことば”を他者に伝える”言葉”へと
変換しつつ発話する身体行動がある。

ラジオから聞こえてきた”言葉”は、
悲惨を共有している多くの人の身体状況に共鳴し、
”ことば”となって捉まれる手がかり。
その手がかりを意識が捉み、自身の情動を”ことば”に変える。

”ことば”は、このインタラクションの中で生まれる。
もし、一方通行の”言葉”を一方的に受け入れ続けてしまえば、
身体化されないままの”言葉”を、跳ね返してゆくだけだ。
”言葉”が、”ことば”として響き渡る”言霊”となるのは、
社会的状況と身体的状況が共有される場合なのだろう。

私が想像できるのは、
伝え聞き、映画などで観るアメリカ・インディアンの暮らし、
映画”ダンシング・ウィズ・ウルフズ”など西欧人が再発見した映像などからだ。
暮らす自然のなかで生まれてきた”ことば”と”言葉”として使っている。

アジアの果て日本では、縄文以前からの”ことば"の上に、
遠く、インドのサンスクリットの音韻と、
中国の象形文字である漢字とに変換されたことばを重ねる。
さらに、ラテン語からの西欧言語を明治維新で大量に移入した外来語が、
消化されないまま、漢字化され、またカタカナ表記されてきた。
その百年後、日常の歌にさえ、英語の単語ばかりではなく、
文章が混ざりこんできた。

それは、サウンドのだけウォークマン生活から、
文字混在のポケベル・携帯へ、
そして、メディア・コミュニケーション&プレーヤーの今、
映像断片を、浴びつつ交換し合う時代に入る。
その背景は、家庭での録音・録画文化の定着。
ここで、社会は、放送文化が支えた、
時刻という社会同期性を失い始めた。
そして、4月からのワンセグ放送が始まる。

今、自身の”ことば”を喚起する刺激は、"映像"と伴にやってくる。
”映像”で社会的に共有されたコトこそ、リアリティの時代。
私たちは、同じ映像を共有し、共感できる人たちと伴に、
そのような映像で、表現し、感受し、共振しあう。

この映像は、動画・音声・言葉で構成されている。
動画・音声・言葉それぞれの、共感のし具合よって、
コミュニケーションの良さ、共感の深さ、共振の盛り上がりが変わる。

その動画・音声・言葉を、共有する背景は、
地域社会ではなく、同じメディア・コンテンツに浸っていることだ。
地域社会での共有感がある時代は、番組レベルの共有だった。
今は、もっと小さな歌単位、キャラクター単位の共有が問われる。
着メロ、着映像・・・・・・

人それぞれの日常生活の中での"映像”が
多様化する時代だ。
”電話ことば” が、”ショートメール”になり、
”写メール”が、”ムービー・メール”になる時、

「これが・・・」、「それが・・・」と指示語が増え、
「どうよ!」、「いいねー」という、わずかな言葉で通じ合う、
テーマを共有する人との繋がりがが強くなる。
複数のテーマを共有するには、互いを認め合う個人主義の文化が必要だ。
村社会では、多くが同じでないと付き合いは減る。
残るのは、運命共同体、企業とか組織とか、家族とか。
上を失った日本人は、寄り添う相手と深い関係を求め合い、
その裏返しが、”おたく”の一般化へと進む。

メディアがコマーシャルに支えられているほど、
メディアの社会化された言葉を複写して、個人のコトバにして、
互いを侵さない、共振コミュニケーションに耽る。

モノ・メディアからマルチ・メディアへ、
そしてマルチ・モーダル化するほどに、
個別モノ・メディアの抽象性が低くなる。
書から電話へと、”言葉”を失い、
電話からショート・メールで、”ことば”を失う。

そして、手もつ携帯電話が、通信・メディアプレーヤーになるときに、
ことばを飛ばして映像交換となるのだろうか?

そろそろ、そんな疑問が現実化し、
映像に感情のインデックスをつけた
映像言語時代の兆しが感じられ始めた。



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