表現されたモノが環境になった時代。表現する対象である外界よりも、表現する人の意識が、表現の手がかりを外界に求めるじだい。
またコンピューターでの作成は、モニター上の表現そのものが対象になった時代。モニター上の表現そのものが、リアルな時代。
そして、モニター上の映像は、アクセスされないと存在しない。データベースのハードディスクに在るときは零と一の差異の固まりでしかない。アクセスされることが存在することの証とすれば、その数を競い、相互のアクセスをソーシャルグラフとして自覚していたがるのがわかる。本来は、マクロなマーケッティングデータ、社会データが、個人から指向され、ブログ・Twitter,Facebook のアクセス・ツナガリ数を求めるのは、当然。そして、相手・対象よりも、アクセス数・ツナガリ数に価値を求めると、相手・対象が見えにくくなり、同時に自分自身も見えなくなる。見えてくるのは大量に放出されるメディアのデジタル・リアクションの残響ばかり。
それが、ときどき或るノードに集中して、ネット上の個人神話が維持される。もう、個人・人格という近代の残渣は消えかけて、数十億のノードの一つとなる。他方、スマホを持ち出し、イヤホンをつけて動く身体は、街の表層も響きも遠ざけて、流れ来る情報に身を晒す。そして、親近感のあるノードのアクションに対応することで、安定をえようとする。日常繰り返す場とリアクションする馴染みのノードとの対応が、個人の生活となる。
職業・住まいが変わることで、さらに個人状況の流動性は高まる。
もう、棹さす上から下への流れのある河から、大海にでて、風や海流、気候の振幅も大きい。すべてがノードになるときに、その流れを数値化し資本化して増殖を繰り返してきた世界金融市場が欲望と恐怖を受け続ける。
なんだか、気象衛星が観ている世界のようで、ソーシャルグラフが視覚化された社会気象予測の時代が熱望される。ワールドマインドとでもよぼうか?
最も必要なニュースは、気象・市場・ワールドマインド予報。
事故もおめでたも政治も消費も、動向ネタでしかない。すべてモニター上は、ネタでしかないのだから、切り替えれば消えてしまう複雑系のデータでしかない。身体が当事者であり続けていることは、意識されない。身体を意識するときは、体重や観てくれや病気・老化・・・、物理層に限り、神経信号量に限る。脳から全身に至る神経作動は、感知され、ソーシャルグラフのデータとなる。
こうなると、近代から近世を参照し、観念の錬金術にあこがれる。
(!そんなの、織り込み済み? 今日の寄りつきは?市場の気配は?)
ビッグデータ活用が仮想の夢であっても、金融資本市場データは、世界をかけ続けて久しい。
これが、ビッグデータの夢? アーキテクトの独り言? 享楽する身体はどこに?
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