いつもの表参道駅通路に、ポスターが無い!
光沢のある壁面が、対面の掲示と、
近づく人の影も映しこみ、
移ろっている。
広告や街の”デザイン”に圧倒されていた
人の姿・仕草・表情が浮き出してくるのだが、
そこはほれ、
プライバシー・肖像権として
記録し・メディアに乗せて伴に覚えているわけにはいかない。
そう、
「私のことは見ないで、覚えないで、伝えないで ください」
「必要なことは、”サービス”として、売っている人から買ってください。」
「あるいは、カラオケの密室の中の仲間だけで分かち合ってください。」
「メディアは、社会的に動く人の場、
「私たちは、自分のためになることだけしか、関わりません。」
「だけど、なにかいいことがあったら、私だけに伝えてください。
仲間だけで、ちょっといいことを分かち合いましょう。」
そう、村社会を都会に持ち込んで100年余、
共通の言葉も失いながら、姿・形の画像・映像へと個人化しつつある。
映画『天井桟敷の人々』から、公共性の喪失を考える
一人の影が
3人の影が
4人の影が
光沢のある壁面が、対面の掲示と、
近づく人の影も映しこみ、
移ろっている。
広告や街の”デザイン”に圧倒されていた
人の姿・仕草・表情が浮き出してくるのだが、
そこはほれ、
プライバシー・肖像権として
記録し・メディアに乗せて伴に覚えているわけにはいかない。
そう、
「私のことは見ないで、覚えないで、伝えないで ください」
「必要なことは、”サービス”として、売っている人から買ってください。」
「あるいは、カラオケの密室の中の仲間だけで分かち合ってください。」
「メディアは、社会的に動く人の場、
「私たちは、自分のためになることだけしか、関わりません。」
「だけど、なにかいいことがあったら、私だけに伝えてください。
仲間だけで、ちょっといいことを分かち合いましょう。」
そう、村社会を都会に持ち込んで100年余、
共通の言葉も失いながら、姿・形の画像・映像へと個人化しつつある。
映画『天井桟敷の人々』から、公共性の喪失を考える
一人の影が
3人の影が
4人の影が
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