モノと心の独り言

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「意図すること」、「ミーム」、「コピーすること」

2005-10-08 09:58:44 | コミュニケーション-メディア
「意図すること」、
それは、自己内外の刺激が意識化されること。
その前の活動から、次の活動への、時間の長さによって、
反射であったり、反応であったり、
長期記憶領域を動員した嗜好であったりするけれど、
なんらかの刺激の総体が、意図として結集している。

「意図すること」は、
個人のレベルでは、
好き・嫌い・などの嗜好、
こだわり、生き方という意識化されたものから、
性格・トラウマなど、外部観察の形をとるものがある。

家族、地域、広域、国家、総体としての地球と広げたレベルでは、
その最大の単位の国家が「意図すること」は、
法と軍事・経済活動など、記述され・行動され・成果が観察・記録されるものと、
生活文化のように、観察・記録されにくいものがある。

この「意図すること」が伝達されるものとして表現したことばに、「ミーム」がある。これは、オックスフォード大学の生物学者リチャード・ドーキンスが、1976 年の彼の著書「利己的な遺伝子」で、作られたことばだ。
そのことばの社会的な扱いは、
「ミーム:心を操るウィルス」リチャード・ブロディ著
で、概略がわかる。
このミームは、何か、物質的であり、変化しないもののようだ。
存在を、量子論と波動論にわけると、量子論の方だろう。

私としては、「意図すること」が引き起こすのは、
物質的な感じではなく、共振するする、共感するというような、
振動的、波動的なことだ。

「意図すること」は、論理記号的に文字・記号で置き換えるよりは、
現象を移しとる(写すというと、視覚的にしぼられる)感覚なのだ。
視覚的に、聴覚的に、触覚的に、現象を切り取り、移し持つことが、
「意図する」ことへ繋がっている。

いま、デジタル機器により、写像・映像・音像が、
個人的に移し取り・記録し・伝達することができると、
意図するてがかりとしての「ことば」の寡占状態から抜け出られる。

このように、個人的に「コピーする」された現象が、
社会的には「コピーされた写像・映像・音像」の交換・蓄積・選択されている。
ここで「意図すること」と、「コピーする」こと、「社会的に流通すること」が、
文字を介さずに繋がる構造も見えてくる。

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