刺激に共感し、近代的個人(大人)という身構えを脱ぎ捨てると、
子どものころの自由さと、未知の世界の不安に立ち返る。
口に入れる料理は、レシピで味わえることもなく、
五感の刺激は、説明しつくせることはない。
それは、料理を知るということとは別次元。
料理を伴に味わった人の感覚が、コト分けられ、コトバにされて伝えらるとき、
発した人への共感とともに、味を楽しもうとする志向へ、
そして、コトバの手がかりを伴にしてツナガッタ歓びへ。
そして、「ホントに、美味しい!」と、返すことで、共感状態となる。
’他人の欲望を欲望する’人の歓びとは、
コトバにより、より深く共感したいが故に、コトバを重ね、
そのコトバがコト分けして、互いの違いを際だたせ、
共感とは真逆の、反発へと導くこともおおい。
近代理性のコトバが精緻であろうとするほどに、
私たちが、お互いを分けてきた。
分けたものを統合できる次元を越えて、いまコトバは拡散し、
相手と場とで使い分け、それぞれの隙は、埋めがたくなっている。
それは、私一人の意識でさえ、その時、その場のワタシを、語っている。
コトバは、つねに、誰かへとツブヤキ続けて、関わりの手がかりを求めだし、
Twitterのように社会に溢れつづけている。
この自意識の硬直を解放できるのは、
コトバで分けられない、音や写像や映像などで、
自意識という自身の束縛と近代自我という破壊の束縛を、ゆるめている。
カメラ・ビデオがケータイで持ち歩かれ、
だれもんがちょっと写して・記録して・伝えようとする。
気軽におすシャッターは、自動筆記のように
写しての心象と、切り取られた対象のコピーを残す。
画素数が増えるほどに対象の複写性が高まり、抽象性が低くなる。
刺激を選別し、読み取る意図が減り、直感的な対応が増える。
言語がコト分けしてきた世界意識体系が、複雑化し、
コトバがコトバ自体を生んでしまうようになりやすかった象形文字。
漢字は、その発祥の具象性を引きずったまま、膨大な思念の組み合わせをつくった。
そして、たびたび書が、文字が焼き捨てられた。
表音文字は、音声の識別以上には増えはしない。
そして、最小限のアルファベットで、最小限のコトバで、生活できる米語が、
世界言語となりつつある。それは、母国を離れた新大陸で共用されて、抽象化された言語だ。
そして、その抽象性を補うのが音声・写像・映像であり、電話・キネマ・TV・PCで利用されてきた。
ユニファイド・メッセージは、このメッセージを、デジタル信号(0,1)で、
ドコデモつかえる、モバイル・コミュニケーション機器により、
常に相手在っての、記録・交信網という、ソーシャルネットワークを満たしている。
コトバという、意識の束縛が少ない刺激:音・写像・映像。
電話でも又、話す内容のまとまりではなく、単語の断片、そして意味よりも、声色・抑揚・早さなどの印象が強い。文章は、文であり、文であり、書かれたモノの上に意図的にまとめられたものなのだ。
私たち自身の道具が、ネットワークが、コトバによる近代意識を越えさせている。
自由・平等・博愛という社会理念は、
関係・非対称・優先順位という、状態の表現に代った。
心象も又、正常・異常という、正気・狂気という、基準によって判断=断ち切られるものではなく、
連続的ななかでの幅広い境界領域で捉えられる。
脳・神経を機能分類していっても、心象は捕らえられない。
人は、社会と関係を続け、非対称な刺激に反応して、選択され続けた状態だ。
ユニファイド・メッセージによって、メディア・機器の境界が崩れてきたのだ。
コトバの縛りが弱くなって、写像・映像の深みが何を記録し、伝え合えるか?
人の成長と加齢のなかでの深みを楽しむ、手がかりが増えた。
そして、このユニファイド・メッセージを、多様に使えるひとは、
表音文字と象形文字を、多重に使う日本語をつかう人ではないかと、
思い至るのだ。
日本語を使う人が減ったとしても、それはそれ、希少価値として国際市場価値がでるだろう。
国際化とは、国際価値を高めることであって、相手と同じになることではない。
長寿の国でこそ、加齢の中での意識のありようを、極めることができるかもしれない。
日本語をつかっているがゆえに当たり前で、意識されないことを、
音に写像の映像に、写してみることこそ、(いとおかし)ということかもしれない。
子どものころの自由さと、未知の世界の不安に立ち返る。
口に入れる料理は、レシピで味わえることもなく、
五感の刺激は、説明しつくせることはない。
それは、料理を知るということとは別次元。
料理を伴に味わった人の感覚が、コト分けられ、コトバにされて伝えらるとき、
発した人への共感とともに、味を楽しもうとする志向へ、
そして、コトバの手がかりを伴にしてツナガッタ歓びへ。
そして、「ホントに、美味しい!」と、返すことで、共感状態となる。
’他人の欲望を欲望する’人の歓びとは、
コトバにより、より深く共感したいが故に、コトバを重ね、
そのコトバがコト分けして、互いの違いを際だたせ、
共感とは真逆の、反発へと導くこともおおい。
近代理性のコトバが精緻であろうとするほどに、
私たちが、お互いを分けてきた。
分けたものを統合できる次元を越えて、いまコトバは拡散し、
相手と場とで使い分け、それぞれの隙は、埋めがたくなっている。
それは、私一人の意識でさえ、その時、その場のワタシを、語っている。
コトバは、つねに、誰かへとツブヤキ続けて、関わりの手がかりを求めだし、
Twitterのように社会に溢れつづけている。
この自意識の硬直を解放できるのは、
コトバで分けられない、音や写像や映像などで、
自意識という自身の束縛と近代自我という破壊の束縛を、ゆるめている。
カメラ・ビデオがケータイで持ち歩かれ、
だれもんがちょっと写して・記録して・伝えようとする。
気軽におすシャッターは、自動筆記のように
写しての心象と、切り取られた対象のコピーを残す。
画素数が増えるほどに対象の複写性が高まり、抽象性が低くなる。
刺激を選別し、読み取る意図が減り、直感的な対応が増える。
言語がコト分けしてきた世界意識体系が、複雑化し、
コトバがコトバ自体を生んでしまうようになりやすかった象形文字。
漢字は、その発祥の具象性を引きずったまま、膨大な思念の組み合わせをつくった。
そして、たびたび書が、文字が焼き捨てられた。
表音文字は、音声の識別以上には増えはしない。
そして、最小限のアルファベットで、最小限のコトバで、生活できる米語が、
世界言語となりつつある。それは、母国を離れた新大陸で共用されて、抽象化された言語だ。
そして、その抽象性を補うのが音声・写像・映像であり、電話・キネマ・TV・PCで利用されてきた。
ユニファイド・メッセージは、このメッセージを、デジタル信号(0,1)で、
ドコデモつかえる、モバイル・コミュニケーション機器により、
常に相手在っての、記録・交信網という、ソーシャルネットワークを満たしている。
コトバという、意識の束縛が少ない刺激:音・写像・映像。
電話でも又、話す内容のまとまりではなく、単語の断片、そして意味よりも、声色・抑揚・早さなどの印象が強い。文章は、文であり、文であり、書かれたモノの上に意図的にまとめられたものなのだ。
私たち自身の道具が、ネットワークが、コトバによる近代意識を越えさせている。
自由・平等・博愛という社会理念は、
関係・非対称・優先順位という、状態の表現に代った。
心象も又、正常・異常という、正気・狂気という、基準によって判断=断ち切られるものではなく、
連続的ななかでの幅広い境界領域で捉えられる。
脳・神経を機能分類していっても、心象は捕らえられない。
人は、社会と関係を続け、非対称な刺激に反応して、選択され続けた状態だ。
ユニファイド・メッセージによって、メディア・機器の境界が崩れてきたのだ。
コトバの縛りが弱くなって、写像・映像の深みが何を記録し、伝え合えるか?
人の成長と加齢のなかでの深みを楽しむ、手がかりが増えた。
そして、このユニファイド・メッセージを、多様に使えるひとは、
表音文字と象形文字を、多重に使う日本語をつかう人ではないかと、
思い至るのだ。
日本語を使う人が減ったとしても、それはそれ、希少価値として国際市場価値がでるだろう。
国際化とは、国際価値を高めることであって、相手と同じになることではない。
長寿の国でこそ、加齢の中での意識のありようを、極めることができるかもしれない。
日本語をつかっているがゆえに当たり前で、意識されないことを、
音に写像の映像に、写してみることこそ、(いとおかし)ということかもしれない。