モノと心の独り言

コミュニケーション/メディア/コミュニティ ココロの建築家になりたいと・・・ 

指し示す「コンテンツ」、言葉が流れ出し、音や映像をコトバにし始めたのは?

2006-01-15 08:47:36 | コミュニケーション-メディア
「失語症」から「流語症」・・・・を振り返ってみると、
言葉から画像への流れの中にいることがわかる。

画像はコトバ
画像に論理はあるの?
コトバと画像
コトバの自転
画像と描画
都会の"トライブ(族)"同士のコトバ

参考: W.J.オング、 「声の文化と文字の文化」
   ベンヤミン、「複製時代の・・・・
   マクルーハン、 「メディアはメッセージ・・・・
   上野俊哉、 「アーバン・トラバイル・スタディーズ」


印刷メディア、ラジオから映像へむかったのは、
日本では、戦中・戦後のキネマぐらいからだろうか。
瓦版から新聞、弁論集会、浪花節、
ラジオが明治から第2次大戦直後までのメディアだとすると、
TVの普及、ラジオの個人化、トランジスタ化、
「ウォークマン」の個人携帯化の延長上に今はある。

映画のカタログ
プロマイド
ポスター

はやり歌
CMのコピー
はやり言葉

着メロ
写メール
着ウタ

平行して、
街の映画館から家庭のTVへ、
部屋のラジオから、ウォークマンへ、
ポケベルからケイタイへ、
そして、メディア・プレイヤーとして
Podcastでは、
映像すらも、個人のコトバに代わり

「うっそー!」、「マジでー?」から、
「どうよ?」、「やばい (はまりそうな意味)」
「いいね」、「んー、ちょっとね」・・・

身体にダウンロードされ、
消化しないまま、
使いまわされ、消去してゆく
「コンテンツ」が、それぞれのコトバ化して流れ出る。

メディアは、
街の映画館やTVセットから身体が吸収するものではなく、
ケイタイやメディアプレイヤーが、
身体と付属する記憶・表現の道具となって、
目先・耳元・指先で、
身体と繋がっているもの。

そして、4月には、ワンセグ・モバイルで、
マス・メディアがいつでも、どこでも、コンテンツを放送(Cast)し続け、
無線LAN、WiMaxでは、”さわり”と”気分”がTagづけされ、フィード(Feed)され続けることとなる。

そんな「コンテンツ」をコトバにする時代は、
対話ではなく、共振することが、コミュニケーションとなる時代。
「どうよ?」、「いいねえ」
アーバン・トラバイル(族)の溜まり場が、
あちこちに盛り上がり、
コンビニが流通スタンドみたいになっているのかも・・・

ここに至り、多世代でのメディア機器は分裂し、
同じものを使わないという割り切りが始まる。
パソコンを使うかどうかもそうだけど、
象徴的なのは電話しか出来ないケイタイ。

「話せるだけで、十分」
今、声の文化と映像の文化が、
せめぎ合いを始めている。









最新の画像もっと見る

コメントを投稿