「写るんです!」、写メール、Instagram・・・写真が一般化し、「コトバ」のように使われることが現実になってきたのは、スマホ時代が来たから。
言葉がコトバに、アスキー文字がキャラ文字へ、喜怒哀楽から顔や動物など言語に制約されないコミュニケーションは、より動物的・グローバルな記号だ。
写真に書き込み・加工をすることで、より複合した意図を伝えようとすることができる。
発信者と受信者が双方向で、やりとりをしながら共感できるという、コミュニケーションの効果まで一直線なのだ。
今PCは、タブレット機能をもつLet’sNote CF-C1、スマホは、手書きもできるGALAXY Note。Window8、HTML5、Androidを私の次のコミュニケーション舞台と想定して、試している。(どういうわけか、映像編集は、Macで、FinalCutなのだ。iTuneはラジオばかりで、iPADは、食卓の上でWebを見るのにつかっている。カミさんは、最近iPhoneで、息子はPCとPDAとケータイ。 道具が違えば、コトバも違う。)
メディアがメッセージだという人が居たが、リアルな現場を共有することで、メッセージの内容を伝え合える。
メディアは通路なのだ。
時間と空間を自在にする通路がメディア。
メディア自体に価値があるわけでなく、その結果に価値があるのだが。
対象のリアルを、共有していることで、写真・映像がコトバになりうる。
ステレオタイプな写真や映像が、マスメディア・マスネット(アクセス至上のWebサイト)で、溢れることで、写真・映像を背景に書き込み・加工が、個人のコトバになって、スマホを往き来する。そして、掲示板のようにどこかのサイトに偏在して、マスへと繋がってゆく。
バベルの塔が崩れて以来、コトバが世界を一つにすることはなかったのだ。
写真や映像が、世界を一つにすることもない。
かっての植物園や動物園・博物館のように、世界の断片をあつめようとしたのが植民地時代。
世界遺産とかなんとかで、全部遺産にしちゃおうというのが現代。
一人一人が自己中になれるセカイ系にさえ繋がる。
それぞれの場、それぞれの生き方、その違いを感じられることこそ、写真・映像の良さなのだが。
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