最近、対話から会話が増えていませんか?
昔は、啓蒙講演 1→n が多かった。その極がマスメディア
個人通信は、1 ⇔ 1
マスも、広報・インタビューから対談へ
そして、複数の会話が増えてきていまんせんか?
ニュース・キャストから、ワイドショー
ひな壇の前で、司会者とパネラー
これは 大衆シンポジウム? 格付け? クイズ?
裏付け提示のない、座談会 公開居酒屋か?
ネットでソトに出たつもりが、同類どうしでタコツボに入り、
クリックして決済するごとに、パーソナライズで
今日の喜びは、昨日から明日への差分なのか?
失う明日への足踏みなのか? 期待する端へのジャンプなのか?
見かけ・気にかけ・声かけて、又明後日も来月も会えそうな人は誰?
自分ゴトに専念していても、くりかえし関わる人は誰?
いつ? どこ? なに? だれ? が重なり続ける人の数 関係人口だとしても、
「誰もが私利」の本音で暮らしても、
「思いかけず利他」が生じやすいところはどこ?
Recncy Frequency Amaount の重なりやすい、ところ。
ネット上のAmountは、スキャンダル・不安・恐怖の極限へ志向する
リアルなAountは、ライブ・共振・共感・共動(歌・踊り)
祭り・イベントのハレが、グローバルに日常化して麻痺すると、
意識しないで繰り返される日常の小さな変化・成長・衰退を、伴にする情況への身体感性に目覚めてくる。
状況としての地勢・気候も、心身との反応の記憶を重ねて情況に。
部屋を出て、家を出て、道に出て、駅に向かい、
見かけ・声かけ・交わす対話に、他者も入り、会話が広がれば、
昨日と違う明日への心身が生まれる一時を楽しめる。
何故、環境や人との複合的な会話を求めているのか?
そして、分かち合いたいのか?
所詮、他者に憧れ・動き・変わりあってゆく欲望を満たすため。
他者と関わりあってゆく生の方向と、身を守り収縮してゆく静の方向の二極
エロスとタナトスを振れ動く鼓動が止まる時、
私は、他の微生物に置き換えられるのか、灰として無機物に戻り直すのか?
また、循環してゆくという未来を信じて、 対話から会話へ、
コトにつけ、人にも動物にも植物にも石にも土とも語り合う。
この肌や口内から内臓の粘膜で、どんな会話をしているのかは知らないけど。
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