モノと心の独り言

コミュニケーション/メディア/コミュニティ ココロの建築家になりたいと・・・ 

生活の中のTVから、ブロードバンド・コミュニケーションへ

2006-01-26 07:06:32 | コミュニケーション-メディア
生活の中のブロードバンド・コミュニケーション
年明けに、プロジェクターで映す部屋のスクリーンを、
72インチに大きくした。
そこで映る人には、等身大以上に接近した感覚だ。

2週間も見続けると、
深夜番組のだらだらした映像が、とても心地よく感じてくる。
夜半までの映画とかバラエティー番組、トーク番組では、
押し付けられる感覚が強すぎるのだ。
シナリオも設定だけで演出も少なく、セットも簡単、
映像外のディレクターさんなどとの対話まで入ってくる。

つまり、ここからの続き部屋で、メディア上で馴染んだ人たちが
ごそごそしている感じ。
これは、覗き見のパプティノゴンの監視者気分でもあり、
自分だけが参加できない、のけ者気分でもある。

いつの間にか時間が流れ、はやり言葉や”旬な”話題に同調してゆく。
自分の想いが募ったり、語りの言葉が溜まるまえに、
話題はどんどん流れ、受けるばかりになってゆく。

並行して見ているPCのネット画面、
検索され、ブログに書きこまれる"コトバ”は、
マスメディアやアクセスの多い順のニュース・ブログなど
浴び続けてきたコトバのコピー。

これまでのように、生活の関わりの中で、
実態と照合されて使われ、
引き継がれてきた言葉の重さはない。
その級数倍の数のコトバが還流し続けてゆく。

ここは、共有する体験をもたない、メディアでの疑似連帯感の世界。
「攻殻機動隊」の孤立しながらの連帯してゆく気分は、この延長上だ。
自身の血となり肉となっていた言葉が希薄化し、
はやりコトバがウィルスのように蔓延してゆく。
直接関係のない”笑い男”が現れるように、
遠く隔たった人が同じようなことを始める。
それは、もはや身のこなしや言葉の構築物ではなく、
しぐさや気の持ちようようなものだろう。

メディアに現れる人たちの気分に同調することで、
個人の自意識が解放される。
しぐさをまねるように、身体を同じように動かすことで、
その結果としての感情が共有される。
都市の無関心に籠もっていた身体が癒される。

もし、この映像が一方向ではなく相互に繋がり合うとしたら、
それは、大きなTV電話のようなものだろう。
そこでは、自身の態度が常に求められる対話の状態になる。
対話である電話の会話は、音声とコトバで線的につながってゆく。
TV電話での視線は、コトバとは異なり、面的に動く。
相手や自分、表情や背景を、絶えずさ迷う。

PCでの映像電話では、視線は映像画面とWeb情報を伴に走査してゆく。
Web上の関わる情報を受けながらの対話になるのだ。

そんな映像コミュニケーションが日常になると、
私たちはもっと、直接会いたくなるのか、
より一人でいたくなるのか?
その使い分けのルールが欲しくなりそうだ。


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