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エヴァンゲリオン TV放映から10年

2005-07-21 03:48:38 | 映画・音楽・・・パッケージ・メディア
エヴァンゲリオン TV放映版
劇場版では解らなかったエヴァンを、TV版で見直してみた。
これは、20世紀末の、少年の青春補完計画。
丁度19世紀末からの文学の多くが、
市民女性(工業化により家庭に篭るようになった女性)の覚醒だったように、
20世紀末のアニメによる、少年の大人への通過儀礼を仕掛けていた。
しかしそのつもりになって出る現代の大人社会は、
「バイオハザード」のように、戦後の餓鬼がゾンビとして街をさまよう魔界だった。

近代資源戦争の帰結として2度の世界大戦(2ndインパクト)の後、
敗戦焦土に残された人々が懸命に築いた前世紀末、
ベルリンの壁は崩壊し、人間の情欲が、大きな物語をも娯楽にした。
大衆消費を実現した日本の”大人”は我鬼に還り、市場をあさり、組織や家族に籠る。
子どもたちは部屋の扉の奥、個電と化したTV、ゲームにもぐりこみ、
ネットにつながり、ケイタイのコネクションで、街にさ迷いでて、座り込む。

このTV・ゲーム・コミックで育ったビジュアル世代は、
文字と音と映像のコラージュな感覚をもつ。
日本のコミックの原点は、ペンと紙で個人の内面をなぞる自己愛性があるのだが、
大衆個人の日常感覚を表現し、それを解釈し直し続ける読み手との舞台裏をもっている。
これは、日本の大衆文化・視覚文化から生まれ、その一部が表出してきたものだ。
 <参照:『マンガの国ニッポン』ジャクリーヌ・ベルント 家伝社>
子どもたちの身体は未完だが、親とコトバを覚える前からTVの前で育ち、
溢れる言説・半端な物語や取り繕いは見透かされ、
現実は、ゲーム以下の”やおい”、
つまり、”山なし、落ちなし、意味なし”を、いかに面白げにこなすかと、執心する。
終わりがわかったつもりの生は、生きづらい。

そこでは、刹那のリアリティ、相互反応にかけるオワライ芸を好む人も多いし、
相互反応できる大道芸、小さなマジック、レイブ、ストリートダンスなど、
介在するコトを通じた関係が好まれる。

子どもたちは、動物的な成長が終わる20台後半まで、市場の絶好の対象として、
もてはやされてきたし、
年輩者達は、資源と市場を争った前世紀の成功体験にしがみつき、
明日の子供を育てるビジョンも無く、
更なる保身と、情報による社会優位性の縄張り争いに、
蔓延するマス・メディアの巷話で、空気抜きをする。

新世紀の1995年TV放映から10年、
エヴァンはなんだったのかと見直しているうちに、
米国で映画化されるのを知った。
新世紀エヴァンゲリオン ハリウッドで実写映画化決定

渋谷を訪れる西欧人たち(写真)も、
バベルの塔崩壊後の未来の気配を、ビジュアルなシブヤに探しに来る。
子どもは家庭に街に引き籠り、オトナたちもタコツボを掘り、
身のまわりの安心をブランドで固め、資本市場への怨念テロルにおびえる。
モノ消費の差異を競う階級社会となり、大人に面白い生が残されていないのなら、
このオトナの補完計画こそが、大衆社会を実現した日本の世界性。

エヴァンは、子供にも大人にも、裏と表を持っているように思える。

まー、このTV予告編で繰り返す「サービス、サービス!」が、
「商売、商売!」に代われば、電源を切ればいいのだ。
キャンドルライトの闇は、人々の想像力を掻き立て・・・
そうだ今夜は、満月なんだ。


ps)http://www.gainax.co.jp/anime/eva/taidan_s.html">リニュウアルってなあに
ゲーム「シンジ育成計画」

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