YouTubeから削られた3万の著作権侵害ファイルから、ライブを支える仕組みを考える。
日本の著作権関係23団体・事業者の要請で、YouTubeが約3万の著作権侵害ファイルを削除- CNET Japan
日本の「著作権団体」による“Act Against YouTube”は正しかったのか- CNET Japan
ユーチューブ、メディア企業3社とコンテンツ契約を締結 - CNET Japan
「ああ、やっちゃった。」 - muwmuwさんのエントリ
しぐさ、ことば、歌、踊り --- ライブ :入場権
文字、意匠、印刷、録音、録画 --- 媒体 :著作権
制作、パーフォーマンス --- アート作品 :所有権
ここにで考えるのは、活動エリアとメディアと権益
社会というコトバができたときに、公私の境界が引かれた。
公私が独我に変わったとき、喜びは、孤立して、交換されるモノになった。
YouTubeは、生活に身近な映像対話だったと思っていたら、
それすらもコンテンツ-商品として、権益を主張し、独自のチャネルをつくろうと勢ぞろい。これで、ネット映像もチャネルやスポンサーのやらせ予算の規模しだいになる。それはそれで、大仕掛けでおもしろいけど、
コンテンツは、創る人・楽しむ人が、共振・共感することにリアリティがある。
リアリティは、シャノンのいうようなキャッチボールしあうものじゃないのに。
ライブは、そのリアリティの最大のもの、
東京ドームの5万人ライブは、その共時・共感にこそ価値がある。
放映権・著作権など諸権利に支えられるものは、それとして、
ローカルにリアリティを楽しむライブを支える仕組みを考えたい。
<詳細>
他人を楽しませる人がいる、楽しんで喜ぶ人たちがいる、
もし、楽しませてくれる人に、その感謝と期待を込めてお礼をするとしたら、
どうしたらいいのでしょうか?
ライブでは、木戸銭・入場料で払います。路上ライブでは、お布施?CD販売?
マスメディア、エンターテイメント・コンテンツでは、著作権・制作費・媒体料・流通経費
だけど、これは、演じる人・演じられる人と、「情報」という商品や、固まりを、キャッチボールしているわけではない。
ともに楽しみ・共感するものを分け合うことを続けるための方法として、通貨で交換しているに過ぎない。
商権は、質ではなく、量の問題なのだが、
記録・コピー・流通の規模が地域という場・物流に縛られなくなったとき、
グローバルな権利・基準を、日常の地域に持ち込んでしまうと、
共有する地域・コミュニティの共感性が薄れる。
これは、登録・管理方法をもっとデジタル化して徹底して、
ロングテールな応報ができるのか、ローカルは別の基準が必要なのか、どうか?
次に人権、
人の目にさらす街にでたときは、お互いがまず風景、
路上ライブ・ステージライブなどの映像・写真に映ったとき、
肖像権は、街のもの・みんなのものだと、解放して欲しいと思う。
街のライブのブログでは、その写りこみ、見合う表情こそが、
街の楽しさなのだから。
・ローカルーグローバル
ライブというローカルな活動が、グローバル化するとき、
ネットされ・放送され・パッケージされ、
いわゆる実演者の著作権に関わってくるときに、ことは複雑になる。
・村社会-都市社会-ユビキタス社会
互いを知り合い・認め合うのか、
メディア有名人を仕立てて、さらけ出す専門家達を社会劇場で楽しんで、
自分達が客席の暗闇から覗き見るか、
自分達も写り・さらされることを認めるか?
生産・消費を共有していた村生活から都市生活にまだ馴染みが無いうちに、
ネット生活が重なってしまって、それぞれのいいとこ取りをしようとする。
’ほっておいて’と、’何で私をわかってくれないの’の間で、
ひっそりとSNSで牽制しあっているような、難しさだ。
’一緒にやろう’と、’お互い分からないところは、認め合おう’という
公共の領域を、地域で回復できるかどうか?
必要とするのは、演じる人・演じられる人が同じ場にでの情報発信、地域のメディア。
メディアやネットワークを寡占してゆく企業・商業コンテンツにバランスをとって、
YouTubeやその他の仕組みを使って情報発信すること。
ランキングやアクセス数を競うのではなく、
その地域・仲間で必要・十分な範囲で楽しんで、
バランスをとってゆくことでしょうか?
演じる人が、その人の活動の規模で、続けてゆける仕組み
演じる街や仲間の支えかたを考えたい。
日本の著作権関係23団体・事業者の要請で、YouTubeが約3万の著作権侵害ファイルを削除- CNET Japan
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「ああ、やっちゃった。」 - muwmuwさんのエントリ
しぐさ、ことば、歌、踊り --- ライブ :入場権
文字、意匠、印刷、録音、録画 --- 媒体 :著作権
制作、パーフォーマンス --- アート作品 :所有権
ここにで考えるのは、活動エリアとメディアと権益
社会というコトバができたときに、公私の境界が引かれた。
公私が独我に変わったとき、喜びは、孤立して、交換されるモノになった。
YouTubeは、生活に身近な映像対話だったと思っていたら、
それすらもコンテンツ-商品として、権益を主張し、独自のチャネルをつくろうと勢ぞろい。これで、ネット映像もチャネルやスポンサーのやらせ予算の規模しだいになる。それはそれで、大仕掛けでおもしろいけど、
コンテンツは、創る人・楽しむ人が、共振・共感することにリアリティがある。
リアリティは、シャノンのいうようなキャッチボールしあうものじゃないのに。
ライブは、そのリアリティの最大のもの、
東京ドームの5万人ライブは、その共時・共感にこそ価値がある。
放映権・著作権など諸権利に支えられるものは、それとして、
ローカルにリアリティを楽しむライブを支える仕組みを考えたい。
<詳細>
他人を楽しませる人がいる、楽しんで喜ぶ人たちがいる、
もし、楽しませてくれる人に、その感謝と期待を込めてお礼をするとしたら、
どうしたらいいのでしょうか?
ライブでは、木戸銭・入場料で払います。路上ライブでは、お布施?CD販売?
マスメディア、エンターテイメント・コンテンツでは、著作権・制作費・媒体料・流通経費
だけど、これは、演じる人・演じられる人と、「情報」という商品や、固まりを、キャッチボールしているわけではない。
ともに楽しみ・共感するものを分け合うことを続けるための方法として、通貨で交換しているに過ぎない。
商権は、質ではなく、量の問題なのだが、
記録・コピー・流通の規模が地域という場・物流に縛られなくなったとき、
グローバルな権利・基準を、日常の地域に持ち込んでしまうと、
共有する地域・コミュニティの共感性が薄れる。
これは、登録・管理方法をもっとデジタル化して徹底して、
ロングテールな応報ができるのか、ローカルは別の基準が必要なのか、どうか?
次に人権、
人の目にさらす街にでたときは、お互いがまず風景、
路上ライブ・ステージライブなどの映像・写真に映ったとき、
肖像権は、街のもの・みんなのものだと、解放して欲しいと思う。
街のライブのブログでは、その写りこみ、見合う表情こそが、
街の楽しさなのだから。
・ローカルーグローバル
ライブというローカルな活動が、グローバル化するとき、
ネットされ・放送され・パッケージされ、
いわゆる実演者の著作権に関わってくるときに、ことは複雑になる。
・村社会-都市社会-ユビキタス社会
互いを知り合い・認め合うのか、
メディア有名人を仕立てて、さらけ出す専門家達を社会劇場で楽しんで、
自分達が客席の暗闇から覗き見るか、
自分達も写り・さらされることを認めるか?
生産・消費を共有していた村生活から都市生活にまだ馴染みが無いうちに、
ネット生活が重なってしまって、それぞれのいいとこ取りをしようとする。
’ほっておいて’と、’何で私をわかってくれないの’の間で、
ひっそりとSNSで牽制しあっているような、難しさだ。
’一緒にやろう’と、’お互い分からないところは、認め合おう’という
公共の領域を、地域で回復できるかどうか?
必要とするのは、演じる人・演じられる人が同じ場にでの情報発信、地域のメディア。
メディアやネットワークを寡占してゆく企業・商業コンテンツにバランスをとって、
YouTubeやその他の仕組みを使って情報発信すること。
ランキングやアクセス数を競うのではなく、
その地域・仲間で必要・十分な範囲で楽しんで、
バランスをとってゆくことでしょうか?
演じる人が、その人の活動の規模で、続けてゆける仕組み
演じる街や仲間の支えかたを考えたい。
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