モノと心の独り言

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身近な地方選挙が終わったが、被災・復興、救済・支援を組み立てる希望の手がかりを選べたのか?

2011-04-25 06:33:07 | 暮らし・街・環境
東日本大震災は、地震・津波・原発事故と、未だに救援と支援が続く日常が始まっている。
此処までの被害という驚き、助かったという歓びが、
被災開始一ヶ月もたつと、慣れと不満が、まだら模様に拡がってしまう。

マスコミ・メディア、野次馬・にわか評論家・善意の方々には、ネタが尽きないが、
私たちもまた、被災中でもある。

救援・支援は、それぞれの場・人・時期ごとに異なる。
しかし、一貫しているのは、主役である被災者自身であって、
政府でも政治家でも支援ボランティアでもない。

いろいろなまだら模様の救援・支援策を繋ぐのは、
被災者自身の希望、明日への欲望の強さだ。
欲望は、一人では紡げない。
明日の暮し・地域を、分かち合う一人として、楽しめるようになりたいだけなのだ。
お互いに交わし合う歓びが待ってなければ、今一度立ち上がる気力がもてる分けがない。
生きなければと、生きているのではない。
より、楽しい日々がくるから生きているのだ。

昔、家族や村の明日のために、子を川に流し、自ら山に籠り死んでゆけたのは、
明日を担う家族や仲間がいたからだ。
河童伝説や姨捨山、山姥・・・・それを物語にできたのは、
その覚悟を支える希望があったからだ。

いま、救援・支援のためのモノや金の話が溢れている。
最低のライフラインの復旧、生存するための条件は必要だ。
しかし、そのモノや金を生かすのは、被災者の希望、いや欲望なのだ。
そして、その欲望を支えるのは、明日の暮しの姿だ。

もし、私たちが明日の姿を見ようとしなければ、
欲望は戻らず、絶望へと振れてゆく。
そのときに、過去に向い、過去を夢みて、落胆の日々を暮らすことになる。

歳を経ることは、楽しいことだと気がついた。
日本の戦後復興が終り、高度成長が頭打ちになったあとの宛のない日常、
ひまつぶしの、いや時間消費という日常。
私たちは、戦後の復旧から、新たな時代を興してはいなかったと、
つまり、市場戦争の時代は、越えていなかった。
遅れてきた近代国家同士の世界植民地争奪戦が、国民戦争になった二つの世界大戦。
日本の本州・北海道・四国・九州は、被弾はしたが肉弾戦はなかった。
天から降った爆弾・海から来た艦砲射撃では、敗戦ではなく、終戦。

明日の希望は、まず今自らの身体を自らで守り、廻りの人一人一人の身を尊重し、
相手の欲望を、自分の欲望とすりあわせることで、共通の欲望が育ち、
昨日の歓びを、明日にも伴にするために、共通の手がかりをもつ。

身を守りながら手がかりを掴むかどうか、

安全・安心、支援・救済などが、政治のネタになっている。
健康も子育ても高齢生活も、身を守り、自身の意志を育てることが最初ではないか?
救援・支援を手がかりに、欲望を希望へと組み上げてゆくのは、人ぞれぞれ。

この被災・復興のなかで、また、個人の、家族の、地域の、国の在りようが変わってゆく。
救援・支援と希望・絶望のマッチングの日常が続く。

地方選挙が終わったが、どんな手がかりをつかめたのだろうか?

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