今回は紀州徳川家ゆかりの宗門寺院をレポしたいと思います。
和歌山県の県庁所在地・和歌山市の人口は36万人。県内2位の田辺市が7万人ですから、ぶっちぎりトップ、一極集中型都市でしょう。
市の中心部には和歌山城がそびえます。
丹念に積み重ねられた石垣の上に建つ白亜の天守。
戦前は国宝指定されていたようですが、昭和20(1945)年の和歌山大空襲で焼失、現在の天守は戦後に再建されたものだそうです。
和歌山の大空襲は凄まじく、市内の70%が焼き尽くされたといいます。
今の整然とした街並みからはとても想像できません。
城下町には暴れん坊将軍・徳川吉宗公の銅像!
江戸幕府中興の祖としても名高い方ですよね。
徳川吉宗公が生まれたのは和歌山城の南側、吹上という場所です。
陸奥宗光や有吉佐和子なども吹上で生まれています。逸材を生む町なんですね!
閑静な寺町の一角に、報恩寺があります。
報恩寺は日蓮宗の由緒寺院、いわゆる本山格のお寺です。
山号は「白雲山」です。
堅牢な造りの山門です。お城とか武家屋敷の雰囲気がありますね~!
本堂です。
旧本堂は和歌山大空襲により焼失し、のちに再興された本堂も放火に遭ってしまいました。
今の白壁の本堂は平成11(1999)年に落慶されたということです。
戦後、本当に苦労したお寺なんですね・・・。
大棟に三つ葉葵の紋が掲げられています。
報恩寺は紀州徳川家の菩提寺です。
徳川家康公には11人の男子がいました。
このうち、側室である養珠院お萬様との間に生まれたのが、十男・頼宣と十一男・頼房でした。家康公にしてみれば還暦前後に生まれた、いわば孫のような二人を、ことさら可愛がったといいます。
そしてのちに頼宣は紀州徳川家、頼房は水戸徳川家の始祖となり、徳川宗家を補佐してゆくのです。
報恩寺歴代お上人の御廟に参拝。
開山以来、紀伊宗門の中心寺院として、法灯を継いで下さってきたことに、心から感謝します。
報恩寺は、徳川頼宣公夫人の瑶林院の菩提を弔うために開山されたお寺です。
縁起によると、瑶林院は死後、当地にあった要行寺に葬られましたが、その3年後、息子の光貞公(紀州二代藩主)が、小西檀林化主・日順上人を開山に招き、要行寺を報恩寺と改めたようです。
少し脱線しますが、「檀林」とはお坊さんの教育機関のことで、明治初期の学制発布まで存在したようです。
宗門にも、かつては多数の檀林があり、下総にあった飯高檀林は立正大学、身延にあった西谷檀林は身延山大学に受け継がれています。(↑画像は身延・西谷檀林跡)
日順上人が化主(恐らく学頭だと思う)であった小西檀林は、今の上総正法寺だそうです。
お上人のプロフィールで「~法縁」というのを時々目にしますが、法縁はかつての檀林出身者の同窓組織のことであり、それぞれに独自の学寮「谷(さく)」を持っていたそうです。
小西檀林にもいくつかの谷があり、このうち茂原谷には上総藻原寺、紀州報恩寺、そして養珠院お萬様の大野本遠寺(↑画像)も属していたそうです。
報恩寺の開山に小西檀林の日順上人を招いた裏側には、この茂原谷ネットワークが関係していたと推測されます。
話を戻しましょう。
境内の一画に、徳川家御廟所があるというので、行ってみましょう。
緩く長い階段がまっすぐに延びています。
御廟所の入口です。
空気がシンとしています。
ここには歴代藩主夫人や、幼くして亡くなった子供たちが葬られているようです。
突き当たりに大きな墓石が3基あります。
左から初代藩主・頼宣公夫人、二代藩主・光貞公夫人、五代藩主・吉宗公夫人のお墓です。
それらを囲むように、両側に藩主の生母や、夭折した子供の墓石などが配置されています。
頼宣公夫人・瑶林院の墓石です。
瑶林院は、加藤清正公と正室・清浄院との間に生まれた子です。
父・加藤清正公の法華信仰は非常に有名ですが、これは伊都さんというお母様の影響が強いといわれています。
母・清浄院も法華信仰の篤い方であったようです。清正公が亡くなった後は、廟所のあった京都本圀寺の門前に住み、供養し続けたといいます。
加藤清正公は池上本門寺に丹精を尽くしたことでも知られますが、瑶林院による寄進も多岐に及びます。
↑画像は池上本門寺の梵鐘ですが、瑶林院が寄進したもの(のちに損傷し再鋳)と記されていました。
他にも父・清正公の供養塔を造立していますし、母・清浄院が逝去された際には、まるで芸術品のような「紺紙金泥法華経」も寄進しています。
ちなみに池上本門寺にも紀州徳川家の墓所↑があり、ここには瑶林院とともに、義母にあたる養珠院お萬様も供養されています。
お萬様は77才の時に江戸紀州藩邸で亡くなっています。
(↑画像は和歌山城)
お萬様の実兄である三浦為春公は、頼宣公の養育係から始まり、一緒に紀州入りし、家老として生涯、頼宣公を支え続けました。お萬様同様、法華経を深く信仰した方だったということです。
また、勝浦城の城主も務めたお萬様の実父・正木頼忠公は、正木家が没落したのち、日蓮門下に出家し、晩年は紀州で暮らしたといいます。
お萬様の家系も、法華経、そして紀州とはご縁が深いのですね・・・。
瑶林院は65才の時に江戸紀州藩邸で亡くなりましたが、池上本門寺で荼毘に付されたあと、夫・頼宣公に伴われてこちらに埋葬されたそうです。
とても夫婦仲が良かったということです。
加藤清正公が、そしてお萬様が信仰した法華経の教えが、確実に夫婦の根底にあったと想像できます。
報恩寺には先ほどくぐった山門の他に、御成門があります。
恐らく空襲で焼失したのちに再建されたものだと思われます。
頼宣公をはじめ歴代藩主たちが、こういった門をくぐって御廟に詣で、故人を手篤く供養してきたのでしょう。
頼宣公は紀州で善政を行い、領民から信頼される藩主であったようです。
山が海に迫り、平地の少ない紀州の地で、みかん栽培や漆器など、多くの産業を振興し、豊かな藩になる礎を築きました。
また領民に親への孝養を説き、道徳を根付かせた功績は、現在まで続く「おおらかで優しい」紀州人の気質を創りあげたと思います。
7代将軍・家継公で徳川宗家の血が絶えたのち、8代吉宗以降、紀州徳川家は実に7代に渡って将軍を輩出しました。
先祖を手篤く供養することで、恩に報いてきたからこそ、家門が繁栄したのだなと、強く感じた報恩寺でした。