身延山久遠寺のエントランス、三門。
何度見ても、その存在感に圧倒されます。
今回は、そんな三門の目の前にある宿坊に、参籠しました。
身延山をよく参詣する方には、見覚えのあるエメラルドグリーンの屋根。
恵善坊です。
あれ?坊名を刻んだ石、屋根と同じ緑色だ!
坊名は赤い字ばかりだと勝手に思っていましたが、案外自由なのかも。
ところで我が家、随分昔から火除けと方位除けのお札を張っています。
最初は親戚から戴いたんですが、身延山参詣の折、偶然同じお札を見つけ、以来、毎年交換しながら既に20年。今や、そこにあって当たり前の存在になっています!
これらのお札、三門で売っています。
三門に売店?と思われるかもしれませんが、仁王像が安置される「間」の一画に札所があるんですね。
閉まってたり不在の時は、ピンポンすると恵善坊から人がやって来て、買うことができるんです。
そう考えると、我が家は恵善坊とすでに20年、ご縁があるわけです。
こちらは恵善坊の本堂です。
今晩お世話になります、と手を合わせました。
本堂横に、恵善坊歴代の御廟があります。
長きにわたって法灯を継ぎ、また巨大な三門を見守り続けてくださったことに、心から感謝し合掌しました。
恵善坊の歴史は、そのまま三門の歴史でもあります。
徳川将軍が2代秀忠から3代家光に移り、幕藩体制がようやく安定してきた頃、身延山も目覚ましい発展を遂げていました。
(↑身延山久遠寺境内)
江戸初期の身延山法主を調べてみると、
20世 一如院日重上人
21世 寂照院日乾上人
22世 心性院日遠上人
23世 慧眼院日祝上人
24世 顕是院日要上人
25世 寂妙院日深上人
26世 智見院日暹(せん)上人
と続きます。
(↑京都本満寺の山門)
20~22世は京都本満寺の出身ですし、23、24,26世は22世日遠上人のお弟子さん、25世は21世日乾上人の門下、ということで、この頃の数十年間はまさに一枚岩、大プロジェクトを敢行しやすかったと思われます。
山内のルール作りに始まり、西谷檀林の開講、そして戦国時代には難しかった諸堂宇の整備などが為されました。
(↑身延山久遠寺の菩提梯)
特に26世を継がれた日暹(せん)上人は、方丈、会合所、対面所、そしてあの菩提梯など、外部から身延山を訪れる人々の、利便性を高める施設を多く整えられたようです。
身延山に初めて三門が建立されたのも、日暹上人の時代です。
(↑三門の説明板より)
寛永17(1640)年に寄付を募り始め、その2年後に13間の巨大な楼門と、左右5間の山廊(※)が竣工します。
(※)楼門の左右にある、楼上への階段を囲む建物
(↑恵善坊の歴代御廟)
このとき設けられた三門別当寮が、恵善坊のルーツです。
なので恵善坊の開創は、三門と同じ寛永19(1642)年、智見院日暹上人が開基となっているそうです。
(↑身延山歴代御廟:左から22世日遠、26世日暹、27世日境上人)
日暹上人は、京都の篤信家・浦井宗府公の次男として生まれました。
兄は水戸藩主・頼宣公に仕える儒学者、弟が二人いて、一人は通心院日境上人(のちの身延山27世)、もう一人は立正院日揚上人(京都鷹峰檀林玄堂の初祖)という超エリート四兄弟。
さらに叔父は真応院日達上人、小西檀林の祖というから、驚くばかりの家系です。
日暹上人はとにかく弁が立つお坊さんで、「富楼那(ふるな)日暹」という異名もあったそうです。
法華経にも出てくる富楼那尊者は、お釈迦様の大勢いるお弟子さんの中でも弁舌ナンバーワン、説法第一と称された方です。
江戸初期の宗門は、法華経信者以外(将軍など為政者も含む)からは一切の布施、供養を受けず、また施しもしないという、池上本門寺をはじめとした「不受派」と、教団を存続させるため、ある程度は妥協すべきという、身延山をはじめとした「受派」に分裂、論争がヒートアップしていました。
(↑池上本門寺・総門)
そこで幕府は寛永7(1630)年、双方の代表者を江戸城に召喚し、城中問答を行わせました(身池対論)。
このとき身延山法主を務めていたのが日暹上人で、もちろん受派の代表者として対論に臨み、富楼那ばりの活躍をされたのでしょう、「不受派は邪宗である」という裁定を勝ち取りました。
(↑身延山・日蓮聖人御草庵跡)
そもそも宗祖日蓮聖人のスタンスを厳格に踏襲するならば、不受不施の考えが正統なのでしょう。対論で敗れたお上人方は、より純粋だったに違いありません。
しかし室町、江戸・・・と社会が変容し、人々が平和に共生する術を、懸命に模索してきたわけで、やはり相応の妥協は仕方なかったと、僕は思います。
そういう意味では、江戸初期の不受不施問題や、明治維新期の仏教弾圧を乗り越えてこられた先師達には、本当に感謝していますし、当時の舵取りは正しかったと、確信しています。
ずいぶん脱線しちゃいましたね。
話を三門、恵善坊に戻しましょう。
恵善坊の歴代を刻んだ墓誌を見ると、第一世が恵善院日信上人(江戸中期・寛政10年遷化)となっています。その院号から、恐らくこのお上人の代で三門別当寮は「恵善坊」と公称したのだと思います。
江戸末期以降、三門は火災と再建を繰り返します。
身延山史によると、初代三門は慶応元(1865)年の大火で焼失、このとき恵善坊も全焼してしまったようです(のちに再建)。
(↑再建された仮三門:身延山久遠寺刊「身延山古寫眞帖」より引用)
翌年、仮門が建設されますが、その仮門も明治20(1887)年に焼け、数年後に再度、仮門が設けられました。
しばらくは仮門が身延山の顔だったわけですが、やはり正式な三門が渇望されたのでしょう、身延山78世を継いだ豊永日良上人(管長も兼任)が中心となり、2代目三門建設プロジェクトが始まりました。
日清・日露戦争もあった時代、建設費に困難を極め、予想外の時間がかかりましたが、明治40(1907)年にようやく現在の三門が完成しました。
ここでふと思い出したのが、ハンセン病救済に尽力された綱脇龍妙上人です。
ちょうどこの時代、救らい施設建設を豊永日良上人に直訴しましたが、「三門建設で手一杯、宗門としては一銭の補助もできない」と資金提供は断られてしまいました。
(↑身延深敬園創立時の仮病室:加藤尚子著「もう一つのハンセン病史」より引用)
しかし豊永日良上人は、代わりにポケットマネーと、三門近くの大工小屋を提供してくださったそうです。
これを仮病室として明治39(1906)年に始まったのが、あの身延深敬園です。
乾いた雑巾をなお絞って、お金と知恵をひねり出していた当時のお上人方を、我々は決して忘れてはなりません。
こうしたエピソードを知ると、三門がとても愛おしく思えます。
そろそろ宿坊としての恵善坊を紹介したいと思います。
恵善坊では参籠者参加の夕勤はなく、受付を済ませたら夕食までフリーです。
案内されたのは2階の桔梗の間です。
今まで参籠した坊と比べ、より旅館テイストを感じます。
やたっ!みのぶまんじゅうと聖人せんべいだ!
窓を開けると、夕暮れの身延山がドーン!
春の山は彩り豊かです。
下に身延川、そして木々で遮られていますが、向こう岸は障害者支援施設かじか寮、かつての身延深敬園です。
尊敬する綱脇龍妙上人のご霊跡の間近で過ごす、特別な夜です。
身延山90世・岩間日勇上人ご染筆の色紙が掲げられていました。
妙法蓮華経見宝塔品第十一、あの宝塔偈の一節ですね!
「法華経を信仰する人こそ、浄土に住む仏弟子です」
心の持ちよう次第で、この穢土も浄土になる・・・僕の生涯の目標です。
さあ、晩ごはんです。
心づくしの精進料理、ホントに華やかですよね!
湯葉をアテに、晩酌なんかしちゃって、ごはんのおかわり2回もすれば超満腹。ご馳走さまでした!
お風呂をいただき、窓を開けて涼風にあたります。
お、松樹庵って明かりが灯るんだ。初めて知った!
それでは、おやすみなさいzzz・・・
翌朝は久遠寺朝勤に参加するため5時起床。
早朝の三門を独り占め!
日暹上人代に造営された菩提梯を登ります。
起きがけの287段は、なかなかのもんです。ふぅ~。
(↑身延山久遠寺・大堂)
祖山での勤行は、毎回新鮮な気持ちで臨むことができます。
僕の心の芯、みたいなものです。
朝勤を終えると、すっかり明るい裏三門。
わ~い、朝ごはん。
実は朝勤の途中から腹がグーグー鳴ってました(笑)!
ごはんも美味しかったし、坊内もキレイで、居心地良かったです!
ロケーションも含め、宿坊に泊まるのは初めてという方に、特におすすめの坊だと思います。
前日にお願いしていた御首題です。
三門イコール恵善坊ですからね、三門の御首題でした!