日蓮聖人のご霊跡めぐり

日蓮聖人とそのお弟子さんが歩まれたご霊跡を、自分の足で少しずつ辿ってゆこうと思います。

長松閣松井坊(身延町身延)

2025-02-01 16:08:29 | 旅行
昨年11月、初めて身延山の祖廟輪番奉仕に参加させていただきました。
(法喜堂入口)
日蓮聖人の御廟を、六老僧が交代で護持したことに始まる輪番奉仕、いつか参加したいと思っていましたが、以前から親しくさせていただいている内船寺さん(南部町)の奉仕団に混ぜてもらい(檀家じゃないのにスミマセン…)、念願が叶いました!


(久遠寺御真骨堂)
御真骨堂参拝や御廟常唱殿の清掃など、初体験のことばかり。
あっという間に時間は過ぎ、午後2時頃お開きとなりました。
内船寺さん、本当にありがとうございました!



その晩は、三門右側にある松井坊に参籠させていただきました。



落ち着きのある玄関です。
宿坊体験を推進する「お寺ステイ」の拠点でもあるんですね!
身延山内では他に、端場坊、志摩房が該当します。


お部屋はこんな感じです。

手入れの行き届いた和風旅館って雰囲気です。
小雨交じりの肌寒い日でしたが、こたつに入り、熱いお茶をいただいているうちに、心も体もほっこり。



窓から見えるのは色づき始めた鷹取山。
左隣の建物は山本坊さんです。



夕方、本堂の一画をお借りしてお勤めをしました。
本堂内は山を背にして須弥壇、内陣がありますが、裏山が迫っているせいでしょうか、外陣らしきエリアはなく、我々檀信徒は脇間に座るようなイメージです。わかります?法要の際は、お上人を真横から見る感じです。


わ~い!夕食の時間です。
「今日は特に寒いので」と、汁物を山梨名物・ほうとうにしてくださいました。

いずれもめちゃくちゃ美味!
奥様ありがとうございました。



お腹は満たされ、熱めのお風呂に肩まで浸かれば、自然とまぶたも閉じてきます。
おやすみなさい…



最近、久遠寺の朝勤は年間通じ、5時半に統一されました。
松井坊を5時前に出れば、十分間に合います。



朝勤から帰ると、心づくしの朝食。
なんて幸せなんだ!



実は7年前、三門を起点に昔の七面山参詣道を往復した際にも、松井坊に前泊させていただきましたが、おもてなしのクオリティは当時から変わらず、好印象でした。
本当に良い宿坊だと思います。


それではそろそろ松井坊の由緒を探ってゆきましょう。

松井坊、正確には「長松閣松井坊」だそうです。
山号寺号、両方に「松」の字が入っています。
(松井坊から三門を望む)
境内に松、ありますね。
昔はもっと大きい松があったのかな?


そうそう、松といえば、お部屋の床の間に、こんな掛け軸がありました。
調べると、この漢詩は宋の時代の詩人・陶淵明による「四時の詩」、四季の風景を詠んだものだとわかりました。

最後の五文字は「冬嶺秀孤松」。
冬に山を眺めると、他の木が葉を落としている中、松だけが青々と際立っている、そんな様子を表現しています。

戦争、災害、氾濫する情報…大変な世に生きる私達ですが、とにかく惑わされず、流されず、松のように生きなさい、と教えてくれているように感じます。

「長松閣松井坊」にも、そんな願いが込められているのかもしれません。



松井坊歴代お上人の御廟は、本堂左側にあります。



墓誌には36世までのお上人の法名が刻まれています。
長きにわたって松井坊、そして身延山久遠寺を護持してくださった歴代に、心から感謝致します。



墓誌の筆頭、開基のところには「日長尊者」とあります。
日長尊者とは、波木井(南部)実長公の孫にあたる波木井長氏(ながうじ)公のことです。


(菩提梯下に祀られる南部六郎実長公銅像)
ここで身延山開基・波木井実長公の子について、おさらいしましょう。
実継(長男:実長の嫡家、根城南部氏)→長継→師行
実氏(二男:加倉井南部氏→常陸の湯)
三郎(三男:佐賀武雄の舩原を拠点に元寇警備に尽力)
長義(四男:波木井郷の地頭)→長氏


(波木井南部氏の居城があった波木井山)
そもそも波木井南部氏は、波木井実長公の長男(実継)の家系が当主を務めていました。
ところが時代は南北朝の動乱期、特に4代師行公は奥州の平定に力を注いだため、甲州の本拠地を守るのは、長義公の子・長氏公の役目となっていったと考えられます。


一方、日蓮聖人ご入滅後の身延山は、
2世日向上人(六老僧)
3世日進上人(中老僧)
4世日善上人(九老僧)
と、しばらくは日蓮聖人の直弟子、孫弟子によって護持されていたことは、よく知られています。
(身延山御草庵跡)
しかし、宗祖ご入滅から半世紀も過ぎれば、直弟子、孫弟子もいなくなります。
すると身延山護持の柱は、おのずと大檀那である波木井長氏公に委ねられていったと想像できます。


(身延山歴代墓所:手前が日向上人墓、その右奥に5~8世墓)
実際、身延山5世からは波木井氏の縁者が歴代を占めています。
5世日台上人(長氏の二男、鏡円坊開創)
6世日院上人(日台上人の弟?)
7世日叡上人(波木井一族)
8世日億上人(波木井郷の人)


身延山史には、長氏公について
祖父(実長)の蠋(ちょく:とどまる)を紹(つ)いで身延に荷擔(かたん:背負う)し、志を竭(つく)して力を振るうこと 実長在世の如し
とあります。
(身延山御草庵跡)
日蓮聖人というカリスマを失くして数十年、身延山は異体同心でなくなりつつある。
ならば自分に近いベクトルを持ったお上人を歴代に据え、身延山を安定させようと尽力したのでしょう。


(松井坊本堂)
長氏公は晩年、自らも出家して日長と号し、貞治3(1364)年、御廟所奉仕の念から身延山中谷に一坊を開創します。
松井坊のルーツです。


こちらは松井坊の坊号塔

表側は青い文字で「松井坊」と刻まれていますが


裏側を見ると、妙見様のお像が安置されている旨が刻まれています。

調べるとこのお像は、もともと波木井長氏公の持仏で、一説には伝教大師最澄上人ご親刻と伝わるとか。
松井坊を開創したときに長氏公が安置したのでしょう。


ここで一つ疑問が生じました。
波木井(南部)氏と妙見様、どんな関係があるんだろう?

僕がまず連想したのは、身延山梅平にある鏡円坊

鏡円坊は、波木井実長公の屋敷跡に、身延山5世日台上人(波木井長氏の二男)が創建したお寺です。



本堂の大棟に、九曜紋が掲げられていたのを覚えています。



また、7年前に訪れた青森県八戸市の根城


(八戸市博物館:銅像は根城南部氏4代 南部師行)
付近には八戸市博物館がありますが、ここには奥州南部氏の展示資料が沢山ありました。


(八戸市博物館の展示資料より引用)
南部氏の家紋は「向かい鶴」ですが、よく見て下さい。
鶴の胸あたりに、やはり九曜紋、ありますよね?!


(根城主殿に展示されていた唐櫃)
九曜紋は北辰妙見の印、敢えて家紋に入れているほどですから、そこには大きな意味があるのでしょう。


一方、甲斐国は古くから馬の産地として知られ、波木井(南部)一族も代々、牧場を経営して、良馬を育てていたようです。
(身延山山頂からの眺め)
日蓮聖人のご遺文にも、こんな記述があります。
「此の身延の沢と申す処は 甲斐国飯井野御牧三箇郷の内 波木井の郷の…」
(松野殿女房御返事)

この「御牧(みまき)」こそ、波木井(南部)一族の牧場だといわれています。


(青森県八戸市の種差海岸)
波木井実長公の父・光行は、源頼朝の奥州討伐で戦功を挙げ、陸奥国糠部地方(青森県、岩手県の一部)を与えられました。
以来、甲州、奥州両方の南部地方を、一族で手分けして領したのです。


(青森県尻屋崎の寒立馬:南部馬の特徴がよく残っている)
奥州南部地方は八甲田山の火山灰地、農耕には適していませんが、雪が少なく広大な草原は馬の飼育に最適でした。
一族は甲斐での経験を生かし、こちらでも馬産を始めるのです。


妙見様は馬の神様ともいわれます。
古くは中央アジアの遊牧民族が、移動の際の目印にしたのでしょう、北極星や北斗七星を信仰対象としたのが始まりだそうです。
(能勢妙見山境内の神馬銅像)
妙見様を祀る宗門寺院では、馬の像を見ることがしばしばあります。


(南相馬市博物館に掲示されていたポスター)
また宗門とは直接関係ありませんが、相馬の野馬追いは、捕らえた野馬を妙見様に奉納する神事がルーツだそうです。


(松井坊本堂の扁額)
南部一族は昔から馬産に関係の深かったわけで、ならば波木井長氏公が妙見様のお像を持仏にしていた、というのも納得できます。


(池上への旅:堀内天領画集「日蓮聖人の生涯」より引用)
あ、そうそう、弘安5(1282)年、身延山を下りて常陸の湯をめざす日蓮聖人がお乗りになったのは、波木井公から供された、気立ての良い栗鹿毛の馬でしたね。
妙見様に護られながら、病身のお祖師様を池上まで送られたのでしょう。


スミマセン、結構脱線しちゃいました!
松井坊の歴史に戻りましょう。

江戸末期以降、松井坊は被災と復興を繰り返します。

慶応元(1865)年12月14日、昼四ツ半といいますから午前11時頃、中谷の坊から出た火は周辺を焼き尽くしました。
このとき三門(初代)も全焼しましたから、隣接する松井坊も類焼してしまいます。
(慶応大火後の身延山:身延山久遠寺刊「身延山古寫眞帖」より引用) 
廃仏毀釈など仏教に風当たりが強かった時代だと思いますが、信者さん達の支援が厚かったのでしょう、松井坊は間もなく再建されます。


(松井坊の裏は急斜面、ほぼ真上に円台坊がある)
ところが大火から10年後の明治8(1875)年初夏、降り続く大雨で裏山が崩れ、再建されたばかりの伽藍は大破してしまいました。


(明治15年の門前町:身延山久遠寺刊「身延山古寫眞帖」より引用) 
明治20(1887)年3月4日の昼過ぎには、中町(門前町)から出火、200戸以上の町家とともに、仮仁王門(初代三門の代わりに再建された)と周辺の坊も類焼、松井坊も再び焼けてしまうのです。


(松井坊から三門はこんなに近い!)
松井坊は三門の並びという立地、一見良さげに感じますが、歴史を辿れば、よくここまで復興してきたものだと、感心してしまいます。



今、ふと思い出したのが、身延山山頂にある奥之院思親閣


休憩所や御札所の前に、大きな浄水槽があるんですが、御存じでしょうか?

実は、思親閣の水道設備が整えられたのは昭和36(1961)年のこと、それまでは雨水が頼りだったといいますから、驚きです。
(ちなみに電気は昭和24(1949)年に通じてます。)


身延山史を調べると、この水問題に取り組んだのが当時の思親閣別当・松井坊36世の望月堯海上人でした。
(寺平から身延山を望む)
麓の用水ダムから高圧ポンプで572mもの揚水を成功させ、山頂の水問題は一気に解決したといいます。


浄水槽に取りつけられた「献納のことば」は、「東京浅草 松井講有志一同」となっています。

この大プロジェクトを全面的に支援したのが、松井講の方々だったわけです。
本当に、感謝に堪えません。

災害など、数多の困難を乗り切ってきた松井坊もまた、こうした篤信の人々に支えられてきたのでしょうね。

また参籠させていただきます!


(参考文献)
・「身延山史」(昭和46年:身延山久遠寺)
・「身延山古寫眞帖」(平成27年:身延山久遠寺 身延文庫)
・「日蓮宗徒群像」(平成5年:宮崎英修著 宝文館出版)

小倉山常寂光寺(右京区嵯峨小倉山)

2025-01-01 13:58:43 | 旅行
久しぶりに嵯峨野エリアを訪問してきました!
(外国人観光客でごった返す「竹林の小径」)
思い起こせば40年前、高校の修学旅行でも界隈のお寺巡りをしましたが、歴史にも寺院にも全く興味がなかった当時、散策を退屈にさえ感じていました。



(畑越しに落柿舎を望む)
五十路も半ばを過ぎ、古刹の点在する、あの長閑な雰囲気に触れたくて、自ら嵯峨野を歩いちゃってるんですから、僕も随分変わったんだな~と思います。 


(中院山荘跡から小倉山を望む※)
嵯峨野の西側には小倉山があります。
標高300mに満たない低山ですが、遠く東山を望む清雅の地、古くから公家たちが山荘を構えました。
(※)中院山荘を構えた宇都宮頼綱は、宇都宮妙正寺開山・妙正尼の祖父にあたる。


(天台宗二尊院境内にある時雨亭跡)
小倉山は百人一首のルーツでもあり、山の中腹には藤原定家が百首を選定した「時雨亭」の遺構もあります。



今回は、この小倉山の山裾に佇む日蓮宗の名刹、常寂光寺です。



墨塗りの山門が迎えてくれます。
薬医門の左右にある築地(ついじ)塀、通常は土壁じゃないかと思うんですが、ここでは格子になっています。



あとで境内を歩いてわかったんですが、常寂光寺には塀らしきものが見当たらないんですね!
風景の良さ、開放的な雰囲気を優先しているのでしょうね。



山門をくぐると受付があり、ここで拝観料を支払います。


戦後、日本全体が貧しかった頃、寄進者もなく荒れてゆく一方の常寂光寺を見かねて、先代ご住職に拝観料制のきっかけを与えた方がいました。
(右が平野威馬雄氏:12月2日付読売新聞「時代の証言者」より引用)
フランス文学者で詩人の平野威馬雄氏(料理研究家・平野レミさんの父)です。
常寂光寺の先代ご住職と親しく、よくこちらを訪れていたそうです。



宗門寺院では相当初期からの拝観料制だったでしょう。
そのおかげで荒廃を免れ、また昨今のオーバーツーリズムにも、ある程度対応できていると思います。
先人の英断に感謝です。



仁王門です。
茅葺き屋根の仁王門は、佐渡(妙宣寺、実相寺)以来かな?
かつて六条堀川にあった大光山本圀寺、その広大な境内にあった門を移築したといいます。


(五条堀川付近にある大光山本圀寺跡)
本圀寺自体は事情により山科に移転し、旧地には現在、題目塔と塔頭寺院が残るのみです。
そう考えると、常寂光寺の仁王門がいかに貴重であるか、よくわかります。




左右に据えられる仁王像は、若狭小浜の長源寺にあったお像だそうです。
長源寺は本圀寺の旧末寺、身延山21世日乾上人など、多くの傑僧を輩出しており、宗門史のポイントとなるお寺だと思います。
近いうちに伺いたいと考えています。



境内のほとんどは急峻な斜面です。
木の生え方から、その傾斜ぶりがわかると思います。



急な石段を登った先には…


本堂だ!
二層の屋根が印象的です。


縁起によれば、「小早川秀秋の助力を得て、桃山城(伏見城)客殿を移築して本堂とした」ということです。
桃山城(伏見城)は秀吉が築き、家康が建て直した名城です。
小早川秀秋は、関が原の戦いで西軍から東軍に寝返ったことで有名な武将ですよね。
いろんな因果を経て、常寂光寺本堂に落ち着いたのでしょう。



本堂の裏手に、歴代お上人の御廟があります。
時代の移り変わりとともに、常寂光寺にも盛衰があったことと思います。
今日まで法灯を継いでくださった先師たちに、心から感謝いたします。



御廟域の中心には、開山堂があります。
こちらには、常寂光寺を開山された究竟院日禛上人が供養されているそうです。


日禛上人は名門公家の広橋家出身、14才のとき本国寺15世・中道院日栖(せい)上人の門に入り、このとき究竟院と号したそうです。
(日禛上人画像 狩野宗秀筆:昭和44年 京都国立博物館年報より引用)
相当な秀才で、18才で本国寺16世を継承、23才のときには一如院日重上人を請じて求法院檀林を開くほどでした。


日禛上人のお名前は1年前、方広寺大仏殿のブログを書く際、調べものをしていて初めて知りました。
(東山茶屋町に遺る大仏殿石垣)
文禄4(1595)年、豊臣秀吉建立の大仏殿(※1)千僧供養(※2)に際し、京都日蓮宗門にも招請状が届きました。
(※1)この時代、奈良の大仏殿は戦火で焼失しており、京都東山にそれに代わる巨大な大仏殿が建立された。
(※2)秀吉は大仏開眼を契機に、自分の先祖と亡き両親追善のため、今後毎月、仏教8教団からそれぞれ100人の僧を集め、千僧供養会を修することを決めた


招請状を受け取った京都日蓮宗門は、騒然となります。
この招請に応じることは、宗門が古来堅守してきた不受不施義(※)に反するからでした。
(※)他宗の人の布施・供養は受けてはならない、他宗の僧や寺社に布施・供養をしてはならないという制戒
(大仏殿の発掘調査跡は、公園になっている)
出仕するとなれば、法華信徒でない秀吉の依頼を受けて、他宗の僧侶と同座してお経を読む、法要後に秀吉からの食事供養を受けることになる。
逆に出仕を断れば、秀吉は、特に晩年の秀吉は暴虐でしたから、一宗破却など簡単にやってのけるでしょう。


実は招請状が届く直前、秀吉の暴虐さが露呈した実例がありました。
秀次事件です。

(村雲瑞龍寺本堂内に展示されている秀次銅像原型)
一度は秀吉から後継者のお墨付きを得ていた豊臣秀次ですが、秀頼が生まれるや急に秀吉から疎まれ、高野山に蟄居ののち、自刃に追い込まれました。


(浄土宗瑞泉寺に祀られる秀次一族墓所)
首は京の三条河原に晒され、その前で秀次の子女妻妾39人が次々と処刑されてしまったという、あまりに、あまりに凄惨な事件でした。


京都宗門は、六条本国寺において出仕の諾否を話し合いますが紛糾、結局「極めて不本意だが、天下人の秀吉だけは例外にしよう」という現実的な意見が大勢を占め、日蓮宗門としては取り敢えず一度だけ(※)、出仕することとなりました。
(※)結果的に20年間、毎月出仕していたという

そんな中、当時本国寺住持だった日禛上人は、妙覺寺住持・仏性院日奥上人とともに、「いかなる理由であろうとも出仕すべきでない、不受不施義は守る」という意見を貫き、遂に出仕することはありませんでした。


(常寂光寺堂宇の瓦には本国寺楓紋が入っている)
ただ不出仕となると、自分を支えてくれた本国寺衆徒や檀那まで断罪される可能性があることから、日禛上人は翌文禄5(1596)年、住持職を弟子に譲って本国寺を退出、身延山や佐渡などを巡拝したのち、小倉山の麓に常寂光寺を開創、ここに隠棲したのです。


寺地は小倉山一帯を所有する豪商・角倉(吉田)栄可が寄進したといいます。
角倉栄可は角倉了以の従弟にあたります。

開山堂の隣には、角倉栄可の供養塔と

その顕彰碑があります。
(顕彰文は京都中世史研究者・林屋辰三郎氏による)
文禄四年十月朔日(※) 角倉家の当主 吉田栄可が京都本圀寺日禛上人の需(もと)めに応じ その所領を寄進」した、と刻まれています。
調べると第1回目の千僧供養会が文禄4年9月25日ですから、もうその直後に、日禛上人はご自分の身の振り方を決められていたのでしょう。
(※)朔日は1日のこと


一方、堂宇の建立を助けたのは…
瑞龍院妙慧日秀尼(俗名とも、秀吉の実姉、秀次の実母)
三好吉房(瑞龍院日秀尼の夫)
小早川秀秋(武将、秀吉の甥)
加藤清正(武将、秀吉と同郷)
小出秀政(武将、秀吉の叔父、三男は日禛上人の弟子)
その他、多くの京都町衆
いずれも、本国寺時代から日禛上人個人に深く帰依していた、法華の篤信者です。
当時の人はお寺ではなく、お上人の人格、人柄に奉じていたのでしょう。
日禛上人の窮地を救いたいと、できる限りの援助を申し出たのです。



また彼ら一人ひとりの背景について詳しく書きませんが、共通しているのは、秀吉に非常に近かったけれども、その横暴さに失望した人々、という印象を僕は持ちました。



特に秀次の母であった瑞龍院妙慧日秀尼は、実弟(秀吉)の所業で、悲しみの底に落とされたわけです。
間もなく日禛上人のもとで出家剃髪、やはり小倉山の麓、村雲の庵に籠り、子の追善を供養し続けたのです。


日禛上人が頑なに千僧供養会への出仕を拒んだのは、秀次事件の直後。
宗祖以来の宗義を曲げたくなかった、というのは確かでしょうが、悲嘆に暮れ、自分にすがってきた日秀尼という弟子、そのあまりの無常さ、やりきれなさというのも、日禛上人の覚悟に影響していたのだろうと、僕は思います。

また、宮崎英修上人著「不受不施派の源流と展開」によれば、寛容なスタイルに舵を切る宗門を相手に、日奥上人が生涯、論争し続けたのに対し、日禛上人は慶長4(1599)年の大坂対論で、家康の譲歩案にようやく翻意したそうです。
なんとなく、日禛上人の心情を推し測ることができるのではないでしょうか。


(近江八幡にある村雲瑞龍寺本堂)
日秀尼の庵はのちに今出川、そして近江八幡へと移転、現在の村雲御所瑞龍寺門跡や妙慧山善正寺(京都東山)のルーツとなります。


ちなみに、かつて村雲の庵があった場所には現在、嵯峨村雲別院というお寺があります。

常寂光寺から北にほんの300mくらい、師弟のお寺が並ぶように存在しているのが、とても印象的でした。


ところで日禛上人、常寂光寺に隠棲された時、まだ働き盛りの35才。
どんな余生(?)を送っておられたのでしょう?
(常寂光寺境内からの眺望)
歌人としても一流だったそうですから、風景を眺めては一首詠むような生活だったのかなぁ…う~ん、退屈そう。

と思っていたら、こんな逸話を見つけましたよ!


丹波と嵯峨を結ぶ大堰川(※)浚渫工事は、慶長11(1606)年、角倉了以の手により完成、それまで人馬に頼っていた物流が、高瀬舟による水運に変わることになりました。
(※)渡月橋から上流が大堰(おおい)川、下流が桂川(諸説あり)
(小倉山と嵐山の間を流れる大堰川)
ところが肝心の舟夫が集まらない。困った了以は、懇意にしていた日禛上人に相談します。


そこで日禛上人は、本国寺の備前(今の岡山県)における末寺・法蔵寺(廃寺)の檀家に、船頭を生業としている人が多いことを思い出し、彼ら18名を嵯峨に呼び寄せました。
(渡月橋付近を航行する和船)
彼らが大堰川流域の人々に操船技術を教えたことで舟運は繁盛、京都の経済も潤ったといいます。


備前からやってきた船頭たちは最初、秋から春にかけての季節労働をしており、常寂光寺を宿舎としていました。
(角倉町バス停:右端には渡月橋が見える)
のちに彼らは家族を呼び寄せ、嵯峨にある角倉家の土地に移り住みました。
今の角倉町です。



ちなみに常寂光寺の妙見様↑は、かつて角倉町にお祀りされていたのを、のちに常寂光寺境内に遷座してきたそうです。


こんな風に日禛上人、隠棲といっても恐らく、ご縁のある方々の相談に乗ったり、ときには地方に出向いて都合をつけたりと、案外忙しくされていたかもしれませんね!

日禛上人は元和3(1617)年、57才で化を遷されたといいますから、実に22年間を常寂光寺で過ごされたことになります。



日禛上人が遷化された3年後、境内のいちばん眺めのよい場所に、とても美しい塔が建立されます。
多宝塔です。


(北畠聖龍筆「法華経二十八品巻物見返絵」より引用)
多宝塔は、法華経の第十一、見宝塔品に出てくる塔で、経文では空中に浮かんでおり(住在空中)、お釈迦様と多宝如来がその中に並んで座った状態(坐其半座 )で、お説法を始めるのです。



常寂光寺の多宝塔内部には、実際に「釈迦如来と多宝如来が安置されている(常寂光寺縁起)」そうですよ。



この多宝塔建立を援けたのは、京都町衆の辻藤兵衛直信という方です。
実は例の千僧供養会で、同じく不出仕を決めた日奥上人、調べると生家は呉服商を営む辻家で、当主は代々、「辻藤兵衛」を襲名するそうです(ちなみに日奥上人のお兄様は辻藤兵衛紹二)。
多宝塔の辻藤兵衛直信が日奥上人の縁者なのか、確証はありませんが、恐らくそうでしょう。


今、ブログを書いていて僕がふと思ったのは、見宝塔品第十一って、最後の偈文は「宝塔偈」ですよね。
法華経を持つことは素晴らしい、と同時に、とても難しいことだと説いています。
(宝塔偈:僕のお経本より引用)
「此経難持」を体現した日禛上人の追善に、かつて同志だった日奥上人の縁者が、多宝塔を寄進していた…。
う~ん、深い。深いなぁ。



まあまあ、妄想も多分に入ってますが(笑)、自分の中ではすっごく納得できました。
この辺りで今回のブログ、終えたいと思います。

南無妙法蓮華経。


(参考文献)
・「小倉山の常寂光寺」(昭和56年:小山和著 法華会)
・「京の地名」(昭和37年:田中緑紅著 京を語る会)
・「続・日蓮宗の人びと」(昭和62年:宮崎英修著 宝文館出版)
・「不受不施派の源流と展開」(昭和44年:宮崎英修著 平楽寺書店)


(注)大光山本圀寺の寺名表記についてですが、もともと鎌倉から京都に移されたのは「本国寺」でありました。江戸前期に徳川光圀が一字を与え「本圀寺」となった歴史を踏まえ、拙ブログでは時代背景によって表記を使い分けています。

寂光山常照寺(北区鷹峯北高峰町)

2024-12-01 09:42:43 | 旅行
(神坂雪佳筆・本阿弥光悦肖像:「本阿弥光悦の大宇宙」図録より引用) 
前回はマルチ芸術家・本阿弥光悦が、元和元(1615)年、洛北鷹峯に開拓した芸術村のお話でした。


(常照寺展示の光悦村古図:常照寺の奥様に撮影許可をいただきました)
55軒のこぢんまりとした村ではありましたが、住民は篤い法華信仰を共有しており、村内には信仰の拠点となるお寺が4ヶ寺もあったそうです。

今回はそのうちの1ヶ寺、檀林まで擁した常照寺を紹介します。



鷹峯の交差点を左(西)に折れると光悦寺ですが、常照寺は右(東)に行きます。



100mほど歩くと、大きな題目塔が現れます。



側面には「常照講寺」



基壇には「檀林」と刻まれていますね。



木々に囲まれた参道は、光悦寺で見た境内の雰囲気とよく似ています。
往時の光悦村、こんな小径を芸術家とか職人さんが歩いていたのかもしれません。



目の覚めるような朱色の山門。



吉野門です。
法華の篤信者であった芸妓・吉野太夫の寄進と書かれてます。



これだけの門ですからね、建設費用も相当なものだったのでしょう。



受付(右)で拝観料を支払い、正面の本堂にお参りします。



寄棟造りの本堂でお題目をあげました。
残暑厳しい日でしたが、お堂を抜ける風が涼しかったです。



本堂の裏手には、歴代お上人の御廟が広がっています。
今日まで法灯を継いでくださったこと、心より感謝致します。



鷹峯に限らず、檀林があったお寺の廟所は、どこも墓石がケタ違いに多いような印象があります。
化主(学長)が期(春と秋)ごとに変わるためだと思います。



中央のお堂は、開山廟です。
中には常照寺を開いた寂照院日乾(けん)上人のお墓がお祀りされているそうです。



廟の扉をよく見ると、デフォルメされた桐紋が刻まれています。
想像上の霊鳥・鳳凰が止まり木とする言い伝えから、古来、桐は貴ばれ、天皇や朝廷が功労者に下賜する紋章として知られています。

しかし日乾上人になぜ、桐紋なのでしょうか?
確証はありませんが、もしかしたら大仏千僧供養会に端を発する、一連の不受不施論争が関係しているかもしれません。


当時、一貫して不受不施義を主張した妙覚寺・仏性院日奥(おう)上人は、宗祖以来の折伏、不受不施が、今も日蓮宗正統のスタイルだという著作「法華宗奏状」を朝廷に奏上しました(確かに全く正義なんです…)が、その内容は時代の変化からから見ると非常に尖ったもので、朝廷側も心配したのでしょう。
(京都御所)
ある日、後陽成天皇から「本当のところ、宗門はどういう見解なのか?」という下問が、日蓮宗側にありました。


(能勢妙見山にある日乾上人銅像)
当時、身延山法主であった日乾上人は「宗門綱格」一巻を著し上奏、日蓮宗の宗義はもっと一般世間に受け入れてもらえるものだというスタンスを、丁寧に説明したのです。


実は日乾上人、千僧供養会に関し、当初は日奥上人と同じく出仕を固く拒んでいたといわれています。師匠・一如院日重上人の度重なる説得で、懊悩の末、ようやく態度を転じたそうで、それだけに、双方の立場がわかる日乾上人の著述は訴えるものがあったのだと思います。

宗門綱格の評価は非常に高く、世に摂受スタイルの宗門を決定づけました。後陽成天皇も安堵したことでしょう。
こういった功績が、日乾上人の桐紋使用につながっているのではないかと、僕は勝手に想像しています。


さて、常照寺開山のお話に戻しましょう。

徳川家康から鷹峯の土地を拝領した翌年、本阿弥光悦・光瑳親子は、光悦村の中に「法華の鎮所(しずめどころ)」を建立します。
(光悦寺境内にある本阿弥光瑳の墓所)
鎮所とは恐らく、信仰の根本である法華経を鎮座させる場所、それを敢えて村内に設けたのだと思います。
光瑳は朝に夕に、この鎮所に詣で、お勤めをしていました。


そんな折、日乾上人が鷹峯にやって来たといいます。

当時、日乾上人57才。既に身延山を下り、摂津国能勢郷を拠点に布教活動をしていたようです。
鷹峯の雰囲気を気に入ったのか、あるいは何かビビっときたのかわかりませんが、日乾上人はこの地に庵を構えたのです。



(能勢妙見山にある日乾上人銅像)
光瑳はこの「日乾」というお坊さんが、実は身延山法主まで務めた高僧であることを知り、鎮所を日乾上人に寄進しました。



日乾上人は鎮所をお寺とし、寂光院常照寺と号しました。
元和2(1616)年のことでした。


一方、日乾上人はかねてから、宗門僧侶の学問所を立ち上げたいと考えていました。
(身延山歴代墓所にある21世日乾上人墓:中央)
日乾上人というと、身延山中興、教団舵取りの手腕に長けたイメージが強いですが、実は学識の高さがハンパなく、わずか19才で身延山において天台三大部を講じ、また26才で本国寺求法院檀林の講主に迎えられ(最年少記録)、天台学を講じています。
それほどの方です。徳を慕う多くの学僧からも、学問所創設を望まれていたのでしょう。


日乾上人は光瑳に、自分の構想を話しました。

光瑳はそれを聞き、大いに喜びました。
この辺境の村に、若いお坊さん達が仏教を学び、深く研究する場所ができる…なんて素晴らしいことだろうと。
光瑳は早速、本阿弥一族挙げて、この事業を支援することを約束しました。


寛永4(1627)年、日乾上人は常照寺内に鷹峯檀林を創設します。

初代講主には、弟弟子である心性院日遠上人(※)の秘蔵っ子、当時30代前半の智見院日暹(せん)上人を招きました。
(開山廟の右脇にある日暹上人供養塔)
このため鷹峯では、日乾上人は「檀林開祖」、日暹上人は「開講初祖」と呼ぶそうです。
(※)身延山22世法主



ところが開講の翌寛永5(1628)年、日暹上人は身延山26世として晋山することになったため、急遽、それまで小西檀林で化主を務めていた立正院日揚(よう)上人が招かれ、第3世化主となりました。
ちなみに立正院日揚上人は、日暹上人の俗弟にあたります。



鷹峯檀林の整備は、小西檀林のノウハウがある日揚上人によってなされました。
講堂や学寮などの造営は勿論ですが、特にこの時代、不受不施義が檀林内に入り込むことを警戒し、規則は相当厳しく、生活の細部に至るまで定められたそうです。


また、日揚上人は檀林の学徒を峯方、山方の2グループに分け、学問を奨励しました。(※)

他檀林でも似たような例がありましたね。
飯高檀林では中台谷・城下谷・松和田谷の3グループ、中村檀林では東谷・西谷の2グループに分かれていました。やはり分割して競わせた方が、結果的に盛り上がるんでしょうね!
(※)日暹上人は峯方の祖、日揚上人は山方の祖といわれる。また日揚上人は鷹峯で初めて「法華玄義」「法華文句」を講義したことから、玄堂の初祖とも称される。


ところで鷹峯檀林の雰囲気について、深草元政上人が興味深い記述を遺しています。
(常照寺前の通り)
ある夏、たまたま鷹峯の常照寺にやって来ると、議論の声の外に、法華読誦の声が聞こえる。およそ檀林の慣習では講習討論を常として、読誦は兼ねないものであるが、この山だけは独り違う。聞くところによると講主自ら読誦を勤め、それを勤めざる者を『我が徒に非ず』と言っている。
この山はいよいよ興る。
(柴又題経寺・望月良晃上人による常照講寺記の現代訳:『法華』誌通巻62巻より引用)



研究者は放っておくと究めすぎて実践と乖離してしまう、といいますが、鷹峯の先生方はその辺を留意し、上手くバランスを取っていたのでしょうね!


常照寺縁起によると、「盛大な頃は 広大な境内に 大小三十余棟の堂宇がならび 幾百人となく 勉学に勤しむ学僧で賑わった」とあります。

明治5(1872)年の学制発布により檀林の歴史を閉じるまで実に245年間、鷹峯檀林は沢山の優れたお坊さんを輩出したのです。


日乾上人開山廟の裏手には、さきほどの山門を寄進した吉野太夫の墓があります。

「太夫(たゆう)」は芸妓のなかでも最高位の称号、公家や大名といったVIPも接待することから、美貌、芸事だけでなく高い教養も求められたといいます。
吉野太夫は更にそのなかのナンバーワン、天下の名妓でした。


(吉野太夫の戒名「唱玄院妙蓮日性信女」が書かれたお塔婆)
茶の湯にも長けていた彼女は、本阿弥光悦を介して日乾上人に深く帰依し、巨財を投じて先ほどの山門を寄進したのだそうです。
このとき吉野太夫23才、すげえ!



夫の灰屋紹益(※)とは法華信仰で結ばれ、38才で亡くなるまで添い遂げたといいます。
お二人の戒名が刻まれた供養塔もあります。
(※)本阿弥光瑳の妻・妙山の弟の養子、つまり光瑳の義甥にあたる



常照寺の広い境内には、仙人が白馬で往来したという池もあります。



近年、池を整備し、また仙人を観音様として法華勧請、馬に乗ったお像を設けたそうです。
お像向背の光明点題目は、日乾上人の揮毫を拝写したといいます。



他にも龍神様の祠や



鬼子母神堂など、常照寺を護ってきてくれた善神がお祀りされています。
いずれもよく清められていました。



特に気になったのは、このお堂です。



扁額には「常富大菩薩」とあります。
ん?…以前どこかで見たことがあるぞ!?


自分のブログを辿ると、2019年に参拝した大阪能勢の無漏山真如寺に、ありました!

(能勢真如寺境内の常富大菩薩堂と扁額)
その時は常富大菩薩、地域信仰の神様ではないかと思い、深く調べずにお堂の写真だけアップしていたのですが、よく考えてみると能勢真如寺も常照寺も、日乾上人が開山したお寺なのです。
これは何かあるぞ!


昭和11年、当時の常照寺住職・山家惠潤上人が書かれた「寂光山常照講寺の沿革並常富大菩薩縁記其他」という資料には、こう書かれています。

多くの学僧に混じって真面目に勉強している『智湧(ちゆう)』という若者の様子に、とかく普通の人と異なる事が多く、不思議な奇瑞が度々起きるので、時の学匠がある夜、ひそかに智湧の部屋を覗いて見ると、白狐が机に向かって一心に勉強していた。
姿を見られた白狐は直ちに鷹峯を去って能勢の山に移られた。
能勢の妙見様のもとで修業を重ね、常富大菩薩となった。
故あって当寺(常照寺)に再三、奇瑞霊感があり、宝殿を建てて祭祀を営むようになった
ということです。


(身延山久遠寺・女坂途中にある圓台坊)
拙ブログにはまだ書いていませんが以前、飯高檀林や身延西谷檀林の調べ物をしていた時、やはり学僧に化けたキツネの話があったのを覚えています(※)。檀林と稲荷神、キツネの関係、いつか調べてみようと思います。
(※)飯高檀林では古能葉稲荷の由緒に、身延西谷檀林では寿量院文殊稲荷の由緒にキツネが登場します。



それにしても常富大菩薩のルーツ、ここ鷹峯にあったんですね!
白キツネが鷹峯を退出し、向かった先が能勢の妙見様(※)ですから、日乾上人と本当にご縁が深い、法華経守護の神様なのでしょう。
(※)古来より能勢郷にあった星信仰を、日乾上人が妙見大菩薩として改めて法華勧請した。


(光悦寺境内から鷹ヶ峰を望む)
ちなみに鷹峯、古くは平安京の北方を鎮護する妙見信仰の聖地だったとか。
そもそも日乾上人が鷹峯を訪れ、庵を構えたのも、そういう理由があったのかもしれません。


また常照寺内には妙見堂を確認できませんでしたが、すぐ近くに清雲山圓成寺という、妙見様をお祀りする宗門寺院があります。

創建は鷹峯檀林が始まってから3年後の寛永7(1630)年、本満寺21世のお上人が開山したといいますから、日乾上人の人脈で間違いないでしょう。

いずれにしろ、5年越し、それも全く異なるご霊跡で「常富大菩薩」の扁額を見つけ、その由来を知ることができました。
これもご霊跡めぐりの醍醐味ですね!



(参考文献)
・「本阿弥光悦の法華信仰(『法華』誌総会講話)」(昭和37年:法華会刊)
・「寂光山常照講寺の沿革並常富大菩薩縁記其他」(昭和11年:常照講寺刊)
・「光悦の藝術村」(昭和31年:佐藤良著 創元社)
・「不受不施派の源流と展開」(昭和44年:宮崎英修著)

大虚山光悦寺(北区鷹峯光悦町)

2024-11-01 16:04:34 | 旅行

9月初め、京都に行ってきました。
今回も気になった宗門寺院を参拝してきましたので、少しずつ書いてゆきたいと思っています。


今回、初めて京都タワーに登りました。

地上100mの展望台からは、京都盆地全体を俯瞰で望むことができ、元来の地理好き、年甲斐もなく興奮してしまいました!


(東山方面を望む)
京都はお寺だらけ、と勝手に思っていましたが、上から見てみるとお寺の屋根、気のせいかな?多くないですよね。
文化庁の宗教年鑑(令和5年)によれば、京都の寺院数(教会、布教所含む)は3269ヶ寺で全国5位。意外ですよね!(ちなみに1位は愛知県の4926ヶ寺)


(嵯峨方面を望む)
一方、京都市内の寺院数を宗派別にみると(※)、浄土宗系が36%、浄土真宗が19%、そして日蓮系と臨済宗が15%ずつ、と続きます。
(※)1973年京都府宗教法人数調査:50年前のデータですが、大きくは変わっていないと思います


龍華樹院日像上人の上洛、布教に端を発する京都宗門は、立て続けに起こる戦乱のさなか、意欲に燃えたお坊さんが東国から次々に上洛、破竹の勢いで勢力を伸ばしたといいます。
(具足山妙顕寺)
天文法難(※)の直前には「京中大方題目の巷」とまでいわれるほど、お題目が京都町衆(商人や職人)の生活に浸透していたそうです。
(※)天文5(1537)年、洛中で折伏をもって急激に伸張する法華勢力を、比叡山はじめ諸宗連合軍が武力で洛外に追放した事件。洛中の宗門は壊滅した。


(具足山妙覚寺)例えば、中世の「京都三長者」は後藤家(家業:彫金)、茶屋家(家業:呉服商)、角倉家(家業:金融)ですが、このうち後藤家は妙覚寺の檀家、茶屋家は東漸寺(日蓮宗→のちに廃寺)の檀家でした。


(小倉山常寂光寺:嵯峨小倉山一帯は角倉家の所有だった)
角倉家は浄土宗(※)ですが、不受不施義を貫いた本圀寺16世究竟院日禛上人に嵯峨の土地を寄進(常寂光寺:日蓮宗)したり、また江戸初期の当主・角倉了以は富士川開削で身延山参詣を便利にしたりと、非常に宗門にご縁が深い人です。
(※)ちなみに、日蓮宗門史研究の権威・宮崎英修上人の著書には、角倉了以は「観世音菩薩を信ずる法華信者」と書かれています。(続・日蓮宗の人びと:宝文館出版 昭和62年)


(鷹峯方面を望む)
その他にも有力町衆の菩提寺を調べてみると、妙顕寺、本法寺、立本寺…など、おおかた日蓮宗でした。
「京中大方題目の巷」という表現は、決して大袈裟ではなかったのです。


それではなぜ、法華経がこれほど京都町衆の心を掴んだのでしょうか。
(商家の賑わい:住吉具慶筆「都鄙図巻」より引用) 
実は中世の頃、特に商人に対する為政者、そして世間の目は、厳しいものだったといいます。

「売り買いで金を稼ぐ商人は卑しい」

現在ではにわかに信じられませんが、江戸時代の身分を「士農工商」と順列したように、商人の位は低かったのです。


そんな中、法華経を根本経典とする日蓮宗は、一貫して現世利益を肯定する宗教。
商売繁盛、モノやお金を循環させる商人層を、決して卑しいとはしませんでした。
(商売繁盛の守り神、松ヶ崎大黒天の幟)
現世安穏の証文 疑いあるべからざるものなり」(如説修行抄)
法華信仰を生活の中に浸透させれば、それは即ち修行であり、成仏へ至る道となる…そんな教義が、町衆の迷いを解決したのだと思います。


今回はそんな法華町衆、本阿弥一族のお寺・光悦寺を参拝してきました。

千本通りを北に向かいます。



五山送り火の一つ「左大文字」を左手に見た辺りから、住所表示が鷹峯(たかがみね)となります。
※「たかがみね」の漢字表記は「鷹」の他に「鷹」がありますが、このブログでは住所表示に倣って「鷹峯」とさせていただきます。



結構な上り坂が延々続きます。
電動アシスト自転車で良かった!



道沿いには、京料理との相性抜群といわれる醤油蔵とか、



材木屋さんなどがあって、いい雰囲気。
鷹峯の裏手には、北山杉の美林が広がっているんですよね!



鷹峯の交差点に突き当たります。
ここを右折すると、かつて鷹峯檀林を擁した常照寺がありますが、今回は左折して光悦寺に向かいます


光悦寺入口は周囲の風景に溶け込んでいて、注意してないと通り過ぎてしまいます。

参道はもみじのトンネルになっており、思わず「おぉ~!」と声が出てしまうほどです。
(この画像は参道の手前から撮影したものです。参道内での撮影は固く禁止されています)


受付で拝観料を支払い、境内を歩かせていただきました。

まずは本堂で参拝。
小ぶりで簡素、また全面障子戸で仕切られている辺り、数寄屋の雰囲気さえ感じます。



境内はそう広くはありませんが、広葉樹の森の中に小径が張り巡らされており、一瞬自分がどこにいるのかわからなくなりそうな、そんな面白さがあります。



また、茶室がいくつも点在しています。



小径の最奥に、寺名のルーツである本阿弥光悦の墓所があります。



沢山のお塔婆が供養されています。
「了寂院光悦日豫居士」
法華の篤信者でもあった本阿弥光悦の戒名です。


(本阿弥光悦坐像:東京国立博物館特別展「本阿弥光悦の大宇宙」図録より引用)
本阿弥光悦は永禄元(1558)年、刀剣三事(※)の名門・本阿弥家の分家に生まれました。
(※)刀剣の目利き(鑑定)、研磨(磨砺 :まれい)、ぬぐい(浄拭)


僕は今まで、刀剣は鍛冶屋さんが作って売るもの、と安易に考えていましたが、調べてみると鞘師(さやし:木工)、柄巻師(つかまきし:繊維、皮)、塗師(漆、蒔絵)、金工師、鍔(つば)工師(金属加工)など、刀はあらゆる職人の技術の粋が集約されたもので、さらに販売流通、メンテナンスも、熟練した専門家の手に委ねられる、そんな業界みたいです。

(刻鞘変り塗忍ぶ草蒔絵合口腰刀:「本阿弥光悦の大宇宙」図録より引用) 
明治の廃刀令で仕事が激減した職人達が、日本のジュエリー職人の基礎を築いた、という話さえあります。
刀は武器であると同時に、芸術工芸品の側面も持つんですね!



光悦は幼い頃からそういった環境の中で、本物を見極める感性を磨き、また職人や芸術家とのネットワークを育んでゆきました。


本阿弥光悦という人物は、とにかく才能豊かな人だったようです。
(本阿弥光悦作・国宝 船橋蒔絵硯箱:「本阿弥光悦の大宇宙」図録より引用) 
家業の刀剣鑑定に長けているばかりでなく、書をやらせれば「寛永の三筆」に数えられるほど。
また制作した茶碗や蒔絵硯箱は現在、国宝指定(!)されています。


俵屋宗達との合作・鶴下絵三十六歌仙和歌巻:「本阿弥光悦の大宇宙」図録より引用) 
特筆すべきは絵画。
光悦の大胆な作風は時代を越えて慕われ、継承されて、のちに「琳派」という師弟関係のない流派となってゆきます。


近年では日本画家・加山又造が「昭和の琳派」と称されました。

(加山又造筆 身延山久遠寺大本堂天井画「墨龍」:身延山久遠寺大観より引用)
身延山久遠寺大本堂の天井画は、加山又造の手によるものです。
これは日本画か⁉と思うほどの躍動感、3D感は、唯一無二ですね。



今年の1月~3月、東京国立博物館で催された「本阿弥光悦の大宇宙」展は、連日大盛況でした。
光悦のセンスは、400年経った今でも、全く色褪せてないのです!


また、僕が今まで参拝した複数の宗門寺院では、本阿弥光悦揮毫の扁額が掲げられていました。
(正中山法華経寺赤門の扁額)
(正東山日本寺山門の扁額)
特に、正中山(法華経寺)、正東山(日本寺)の「正」の字あたりに、彼の非凡さを垣間見ることができます。


そんな光悦は58才の時、運命的な出来事がありました。
元和元(1615)年、徳川家康から洛北鷹峯に東西二百間(約360m)、南北七町(約760m)の土地を拝領したのです。
(光悦寺境内から鷹ヶ峰を望む)
平安時代、この一帯は鷹狩りのフィールドだった、というのが地名の由来だそうで、実際に「鷹ヶ峰」という小山もあります。


(鷹峯に至る道。この辺りが光悦村の南端)
権現様直々に下賜、というのも驚きですが、光悦の父は家康が人質時代から親交があった(※)、そんなご縁で、家康は光悦の処遇を気にしてくれたのでしょう。
(※)父・本阿弥光二は、かつて刀剣目利き役として今川義元に仕えており、人質時代の徳川家康(当時は竹千代)と交流があったようです。


元和元(1615)年といえば、大坂夏の陣で豊臣家が滅亡した年、まだ政情が不安定で、鷹峯辺りは追い剥ぎなども出る、物騒な荒野だったそうです。
(史跡 御土居 鷹ヶ峯北)
そう、鷹峯に来る途中、道沿いに、豊臣秀吉が洛中を護るために築いた「御土居」跡がありました。
鷹峯は、つまり御土居の外側にあったわけで、治安が良くない半面、もしかしたら人の目、幕府の監視も緩い場所だったのかもしれません。


(光悦拝領略図地面写:「本阿弥光悦の大宇宙」図録より引用) 
光悦は拝領した土地を開墾し、本阿弥一族はじめ、知己の芸術仲間、工匠達とともに55軒の住居を構えました。
光悦を中心とする芸術聚楽、アートヴィレッジを営んだのです。


(常照寺に展示されていた光悦村古図:常照寺の奥様に撮影許可をいただきました)
これは光悦村の古図に、現代の活字を落とし込んだものです。
名前に「光」の字がつく本阿弥一族はじめ…


「おかた宗伯」(呉服商:尾形光琳の祖父)や「茶や四郎次郎」(御用商)など、有力町衆の名前も見られます。また「筆や妙喜」「(紙や)宗仁」のような書道具職人も軒を連ねてます。
彼らは作品を共同制作(あるいは販売流通)する芸術仲間であったのでしょう。
(常照寺展示の光悦村古図を拡大)
今回このブログでは、同時に彼らが共有していた法華信仰の側面から、光悦村のことを書きたいと思います。


彼ら町衆が生きた時代、政権は足利→織田→豊臣→徳川と、めまぐるしく変わりました。
(光悦寺庫裡)
公家社会から武家社会に転じ、また政治の中心も京都から江戸へと移ります。そうした上流階級に出入りし商売していた京都町衆は、盛衰も激しかったでしょう。


一方、日蓮宗門も激動でした。
天文法難から復興したのも束の間、大仏千僧供養をきっかけに、慶長宗論、身池対論などを経て、それまで不受不施、強義折伏が良しとされていたのが、受布施、摂受スタイルへと急激に変容していったのです。

本来、宗祖の精神を純粋に継承するならば、日本国は「釈尊の御領」、土地はおろか一滴の水、一本の草に至るまで、全てお釈迦様のものであり、国民は為政者含め「釈尊の所従」であるはずです。


しかし現実は戦に明け暮れ、より強い武将が権力を握る。
国土も民も全て、権力者のもの。思いのまま。
さらには信仰すら、権力によって歪められている。宗祖以来の不受不施スタイルが幕府によって禁教にされたのは、その象徴でしょう。
(光悦寺境内より船岡山方面を望む)
こうした理想と現実のギャップは、多くの法華町衆が感じていたと思います。
辺境の鷹峯を拝領することになった時、光悦は彼らとともに、ここに法華経が支配する理想郷のようなものを創ろうと決意したのかもしれません。


そもそも本阿弥家の法華信仰は、光悦の曽祖父・本阿弥本光に始まります。
本法寺HPには「光悦の曽祖父である本阿弥本光(清信)が、刀剣の鞘走(※)が原因で足利幕府六代将軍義教の怒りに触れ、投獄された際に 獄中で日親上人に出会い、教化されて熱心な法華信者になりました」とあります。
(※)さやばしり:刀の鞘が緩く、刀身が勝手に鞘から抜け出ること 
(叡昌山本法寺:本阿弥光二・光悦親子の丹精により現在地に移転)
「本光」という名前は、久遠成院日親上人が名付けたそうです。
法華経の教え「娑婆即寂光土」から「光」の一字を取ったといい、以来、本阿弥家の男子には「光」の字が付けられるようになりました。


(大覚大僧正に帰依した松田元喬が創建した岡山・仏住山蓮昌寺) 
ちなみに本光は男子のなかった本阿弥家に、松田家から養子に入っています。
実はこの松田家、備前で大覚大僧正の布教を支え、備前法華の礎を作った備前松田氏の家系なのです。
もともと信仰の素地はあり、日親上人によって開花したのだと推測します。


ところで本阿弥家はじめ法華町衆の暮らしぶりって、どんな感じだったと思いますか?
(緑に包まれる光悦寺本堂)
なかには光悦のような有力町衆、あるいは長者といわれる裕福な人もいましたが、実は彼らも実生活は、驚くほど質素だったといわれています。
当時は菩提寺ごとに生活規律を定めた「信心法度」があって、これが各家の家訓に反映されてくるので、「金儲け」とか「贅沢」とは無縁だったのです。


例えば、帰依が深かったといわれる光悦の母・妙秀は、恵まれない人、社会からこぼれ落ちた人たちに施し尽くし、彼女が亡くなった時には最小限の衣類と、木綿のふとん、布の枕しか残さなかったといいます。
(簡素な光悦墓:竹筒の花立てがグッときます)
そんな母に育てられた光悦ですから、
二十歳計りより八十歳にて相果候迄は小者一人、飯たき一人にてくらし申事なり」(80才で死ぬまで 自分一人と炊事係一人だけで暮らしていた:本阿弥行状記より)
というような、つましい暮らしだったそうですよ。


じゃあ貯まった財はどうしたのでしょう?
ご縁のあるお寺に施し続けたのです。

(光悦が作庭した本法寺「巴の庭」)
天文法難で壊滅した京都宗門が、驚くほどの速さで復興できたのも、法華町衆の私欲を捨てた、清貧な暮らしゆえだと思います。
それが、彼らの信仰的悦びであり、ある意味ステータスであったのでしょう。


また信仰が深く、純粋になるにつれ、法華経の受持読誦、書写はもちろん、宗義の理解も進み、やがて在家である町衆の中から、優れたお坊さんが多数輩出されるようになりました。
(光悦筆「立正安国論」:「本阿弥光悦の大宇宙」図録より引用) 
例えば光悦の孫の一人は、智見院日暹上人(のちの身延山26世)のもとで出家して本通院日允(いん)上人となり、本法寺18世、法華経寺35世、妙覚寺24世を歴任しました。


この日允上人は教育にも熱心で、そのお弟子さんである勝光院日耀(よう)上人、了義院日達上人を含めた三師「允・耀・達」は、学徳兼備の法脈として宗門でも憧れの的だったといいます。
(達師法縁の祖・日達上人御廟がある鷹峯瑞芳寺)
そんな傑僧たちを生み出す土壌があるわけですから、京都町衆の信仰、もうこれ以上ないというレベルにまで、至っていたのです。


かなり話が逸れてしまいましたね。
光悦村に戻しましょう。

さて、鷹峯に移住してきた光悦は、まず本法寺から興寿院日達上人を請じ、村の中心に本阿弥家先祖供養の「位はい所」を設けました。
しばらくはこの「位はい所」が、光悦村における信仰の拠点になっていたのでしょう。
(光悦寺本堂の扁額)
「位はい所」は光悦の没後、本法寺12世の正教院日慈上人を開山として寺となり、「光悦寺」と称するようになったといいます。


また光悦寺の山号は「大虚山(たいきょざん)」。
これは光悦の雅号「大虚庵」を由来としているそうです。
(京都市が設置の光悦寺説明板より)
「大虚」を辞書で調べると、古代中国での宇宙観で、宇宙の根源とか、万物の源みたいな意味、だといいます。
光悦がいかに己の内面、心の中の宇宙を大切にしていたか、なのでしょうが…僕のような凡人には到底、窺い知れません(笑)。


光悦寺のすぐ近くには、70才を過ぎた光悦が土地を寄進、息子の光瑳が発願して開創された鷹峯檀林の旧跡↓もあります。
(常照寺参道)
身延山21世の寂照院日乾上人を招いて開講したほどですから、当時の宗門最高レベルの講義、研究が、光悦村の中で行われていたわけです。


また、のちに鷹峯檀林の学僧達が、常唱題目行を始めました。
常唱題目行は文字通り、一日24時間(恐らく複数のお坊さんが交替で)間断なくお題目をあげる修行だと思います。
(鷹峯檀林旧跡・常照寺の石柱に刻まれた「常照講寺」)
つまり光悦村一帯には、昼夜問わずBGMのように、生の「南無妙法蓮華経」の声が流れていたのでしょう。


(光悦寺 本阿弥庵前の水盤)
信仰を共有する村民達は、朝起きたら光悦寺でお勤めをし、日中はお題目を聞きながら芸術活動、創作活動に没頭、日が落ちると再びお勤めをして一日を終え、お題目に包まれて眠りにつく…そんなサイクルだったと想像します。
「常寂光土」に極めて近い理想郷、だったのかもしれません。


(本阿弥光悦の墓石)
寛永14(1637)年、光悦は80才で亡くなります。
芸術については言わずもがなですが、信仰的にも、法華経の世界と実生活が見事に合致し、ある意味、境地に至った人生だったのではないでしょうか。


光悦の没後、残念なことに鷹峯の光悦村は徐々に縮小、やがて消滅してゆきます。
本阿弥光悦というカリスマを亡くしたことに加え、3代将軍・徳川家光が江戸幕府を盤石にしたことで、町衆たちの商売の中心が、京都から江戸に移っていったためだともいわれています。

延宝7(1679)年、光悦の曾孫・光伝は鷹峯の土地を幕府に返還、64年間続いた芸術の、そして法華信仰のユートピアは、ここに終焉を迎えました。


芸術家、職人、そして本阿弥家の人々が去り、また付近には源光庵(曹洞宗)など、他宗が寺院を構えるようになります。
(「悟りの窓」で有名な源光庵:光悦寺のはす向かいにある)
光悦寺は、江戸時代後半~明治時代にかけて、荒廃してしまったようです。


ところが大正時代、意外な形で復興するのです。


明治維新で西洋文化が良しとされる一方で、逆に貶(おとし)められた日本文化を護ろうという動きも出てきます。
大正2(1913)年、茶道界を中心に「光悦会」が組織され、光悦寺の復興が始まります。茶道サイドからのアプローチというのが、興味深いですよね!
(神坂雪佳筆・本阿弥光悦肖像:「本阿弥光悦の大宇宙」図録より引用) 
それだけ本阿弥光悦は、茶道界の人々にとってもカリスマでありました。



余談ですが、本阿弥家の菩提寺・本法寺の周囲には、茶道の宗家や関連施設が並んでいたのを記憶しています。
ご縁が深いんでしょうね!


本阿弥光悦は、千利休の流れを継ぐ古田織部から茶の湯を学び、鷹峯では村の仲間を招いてたびたび茶会を催したといいます。
また、そこで使われる茶道具は自らが制作、いずれも後世まで受け継がれる逸品でした。
(本阿弥光悦作・国宝 黒楽茶碗 銘 時雨:「本阿弥光悦の大宇宙」図録より引用)
彼の名が冠せられた光悦寺の復興は、茶道界にとって象徴的な出来事だったのでしょう。


(境内の茶室「本阿弥庵」)
本堂や庫裡の修復、荒れ地の開墾、植栽の植え替え、茶室の建築などを住民も参加して行い、また隣接地を買い戻して現在の寺容が整ったといいます。
いち日蓮宗信徒として、心から感謝したいと思います。


毎年11月、ちょうど紅葉の季節に、「光悦会」という大規模なお茶会が、こちらで催されるそうです。
(9月初旬でしたが、ほんの少し色付いていました)
そういう意味では光悦寺は、芸術文化の拠点と、法華信仰のお寺という二つの顔を併せ持つ、独特なお寺だと思います。
まさに光悦村の精神が、今でも息づいている聖地なのでしょう。


(参考文献)
・「光悦の藝術村」(昭和31年:佐藤良著 創元社)
・「近世初頭における京都町衆の法華信仰」(昭和33年:藤井學著)
・「京都町衆と法華信仰」(平成22年:冠賢一著 山喜房佛書林)
・「特別展 本阿弥光悦の大宇宙 図録」(令和6年:東京国立博物館他編)

七面山奥之院(早川町角瀬)

2024-10-01 23:02:15 | 旅行
今年も6月に、妻と七面山に登ってきました。
このところ毎年の恒例となっており、コロナ禍を挟んで5度目の登詣となりました。
(麓の羽衣橋から七面山方面を望む)
今回は初めて、奥之院に参籠させていただきました。


敬慎院から北に15分ほど歩くと、奥之院に至ります。

よくいらっしゃいました!と、お上人方が歓待してくださいました。
当日は結構な雨でしたが、その笑顔に、疲れも吹っ飛びます。
今晩の参籠は、我々だけだそうです。



案内されたのは入口近くの部屋。
濡れた荷物を新聞紙の上で乾かしているのがわかると思います!
ちなみに、乾燥機も使えます。(箱に志を入れて下さいね)



すぐにお風呂にも入らせてくれました。
こたつでお茶なんか飲んじゃって・・・もう、至れり尽くせりです。


ところで風呂場へ向かう途中、中庭に注連縄の張られた岩があるのに気付きました。

傍らの碑文によると、戦前に七面大明神が影現した「宝厳石(ほうごんせき)」というそうです。
この岩に七面大明神を感応されたのは、当時奥之院で給仕されていた高橋妙進法尼というお上人だそうです。
とても霊感が冴えた方で、その能力で多くの人を助けたといいます。


高橋妙進法尼は、奥之院の門前にある出世稲荷堂にも、深く関わっておられます。
(七面山奥之院 出世稲荷堂)
もとは奥之院の拝殿に祀られていたお稲荷さんでしたが、高橋妙進法尼の霊感によってこちらにお堂が設けられ、お祀りされたといいます。
苦労して登ってくる参詣者を護り、運を開いてくれる神様。この場所にあるということに、大きな意味があるのでしょう。


(宝厳石の由来碑)
七面山という最高の霊場で、実際に神々の言葉を受け取り、伝えることができた高橋妙進法尼。
人の幸せを願って、ひたすら尽くされた先師に、思いを馳せました。



夕食は5時半から。
野菜の煮物、ひじき煮、沢庵、みそ汁、白飯にお神酒というメニューは敬慎院とほぼ同じです。
どれも美味しくいただきました。


6時半から本殿でお開帳、続いて拝殿で夕勤です。(お社の内部は撮影禁止のため、画像はありません。)
ちなみに奥之院の七面大明神像は、両足を揃えてお座りになっているお姿でした。
確か敬慎院のお像は、片足が胡坐だったと記憶しています。ちょっと違っているのも興味深いですね!
(七面山奥之院拝殿)
お上人方のすぐ後ろで、一心にお経を読ませていただきました。
七面様、どうか我々の心の扉を開いてください。



夕勤から戻ると、部屋には布団が敷かれています。
これ、完全に熟睡できるやつですね!
心地よく、眠りにつきました。



翌朝、雨はすっかりあがり、ご来光こそありませんでしたが、富士山の頂上まで拝めました。



4時半から拝殿で朝勤。
その後の朝ごはんの美味しかったこと!



奥之院は、施設の規模が小さく、お上人やお勝手さんの人数も少ないですが、そのぶんアットホームな雰囲気で、何もかもが想像よりちょっとずつ良かったです。


それではそろそろ、奥之院の歴史について、お上人に教えていただいたお話も交え、書いてみたいと思います。

奥之院のランドマークといえば、何と言ってもこの大岩です。
太い注連縄が巻かれていますね!
自然信仰、磐座(いわくら)信仰(※)の最たるものでしょう。
(※)日本では古くから、巨石は神が宿る、降臨する場所と考えられてきた

七面山奥之院はこの大岩が、そもそものルーツです。


(七面山敬慎院 大鐘の縁起銘文)
永仁5(1297)年9月、日朗上人と波木井公が、このお山に七面大明神を勧請するために登山しました。


日蓮聖人がご在世中、七面大明神が身延山の高座石に示現し、法華経守護を誓ったというのは有名なお話ですが、その際、七面大明神は自らを「七面山の池に住むもの」と語ったそうです。
(七面大明神の示現:堀内天嶺画集「日蓮聖人の生涯」より引用)
実際にお山に登り、池の畔に七面大明神を法華経でお祀りすることは、日蓮聖人の悲願だったことでしょう。


(七面山奥之院に掲げられる縁起板)
当時、七面山には参道的なものはなく、日朗上人ご一行はお山の北側から尾根伝いに(今の北参道)登られたのではないかといわれています。
途中に日朗上人お手植えの御神木もあるようですね。


おおかたお山を登りきった頃、目の前の大岩に七面大明神が影現(ようげん:お姿を現すこと)し、ご一行をお迎えしたと伝わります。

日朗上人はこの大岩を「影嚮石(ようごうせき)」 と名付け、祠を設けて「影嚮宮(ようごうのみや)」としたのが、奥之院の始まりだそうです。



時は下り延宝3(1675)年、身延山の学禅院日逢(ぽう)上人が、ここに初めてお社を建立しました。


この日逢上人、調べてみると他にも敬慎院や神力坊のお堂を整備された方として、知る人ぞ知るお上人だそうです。
(身延山妙石坊)
また、身延山高座石の霊跡に妙石坊を開山されたのも、日逢上人だということです。


いずれも養珠院お萬さまが七面山に登られ、女人禁制を解いた少しあとに建立されています。
(羽衣白糸の滝にあるお萬さまのお像)
世間に信仰が広がり、登詣者が増える中、日逢上人が中心となって様々な施設を整備したのでしょうね。
影嚮宮も徐々に形になってゆきます。


江戸中期、宝暦年間(1751~1763年)になると、影嚮宮に本格的なお社を造立しよう、という機運が高まります。
このとき、中心となって尽力されたのが宮原講中(※)です。
(戦前の影嚮石:七面山奥之院廊下に貼られていた古写真より)
奥之院のお上人によれば、古い棟札には「宮原講中」の名が記されており、いわば施主となって丹精されたのだろう、ということでした。
(※)宮原地区は富士川の東岸、今の西八代郡市川三郷(いちかわみさと)町にあります。宮原講は地区の住民で構成される題目講だと思われます。


(七面奥之院拝殿の扁額)
その際、宮原講の方々は身延山にお願いをし、七面山本社から御神体をいただいて、新しい影嚮宮に安置しました。
恐らくこの頃から、影嚮宮は七面山の奥之院的な存在になっていったと考えられます。
(実際に「七面山奥之院」の称号が使われ始めたのは、江戸後期ということです。)


(戦前の拝殿:七面山奥之院廊下に貼られていた古写真より)
現在の奥之院の社殿は、明治期の全面改築で建立されたもので、その時も宮原講が全面協力し、無事に竣工できたそうです。


(七面山二の池の鳥居:太い注連縄が掛けられている)
聞くところによると、この令和の時代になっても宮原講の丹精は変わらず、影嚮石だけでなく拝殿、稲荷堂、二の池、御神木…などの注連縄は、宮原講の方々が毎年作り、掛け替え作業までしてくださるとか。

宮原講、すげえ・・・。


気になって仕方がないので、後日、実際に宮原地区を訪れてみました。

最寄り駅は身延線の甲斐岩間駅です。



この辺り、旧地名を「六郷」といったそうです(※)
甲州産の水晶加工に始まる印鑑作りが地場産業で、六郷のハンコはなんと、国内シェアの半分を占めるといいます。
(※)戦後、宮原村など近隣が合併して六郷村(町)となり、さらに平成の大合併を経て、現在の市川三郷町になりました。


(中部横断道六郷IC付近から宮原地区を望む)
宮原地区の界隈には、歴史の古い日蓮宗寺院が2ヶ寺(妙法山定林寺、妙覺山本定寺)あります。
宮原講中の多くが、この2ヶ寺のお檀家さんだと思われます。


実は七面山奥之院の別当さんは、この2ヶ寺から4年交替で(!)、奉職することになっているそうです。

お上人方はさぞ大変だろうと思いますし、同時に菩提寺のお上人を、4年毎にお山に送り出す宮原講中の覚悟も、相当なものでしょう。


それではその2ヶ寺、実際に訪れてみましょう。


まずは日向山(ひなたやま)を背にする妙法山定林寺です。



歴代御廟の墓誌を見ると、いちばん最初に身延山15世宝蔵院日叙上人が刻まれています。


日叙上人が法主として在職中、武田信玄の身延山攻めがあり、これを撤退させたのは(一説には)七面大明神の力によると伝わっています。
確か敬慎院拝殿に、その様子を描いた大きな絵馬が掲げられていたのを記憶しています。
(身延山歴代御廟にある第15世日叙上人墓)
身延山守護を誓った七面大明神が、武力の脅しに一歩も引かなかった日叙上人を、神力で救ったのだと思います。
これを境に、七面山信仰が一気に世間に広まっていったといいます。


(定林寺歴代御廟にある日定上人墓)
ここ定林寺は、日叙上人のお弟子さんである定林院日定上人が、真言宗寺院を教化改宗させたお寺だそうです。
ちなみに、さきほどの宝厳石の高橋妙進法尼は、定林寺にご縁が深いようですよ。


一方、定林寺から身延線を挟んで反対側、いわゆる宮原地区のど真ん中にあるのが、妙覺山本定寺です。

現在(令和3~7年)の七面山奥之院の別当さんは、ここ本定寺のお上人が務めています。


歴代御廟の墓誌を見ると、開山は妙覚院日福大徳となっています。



六郷町史によれば、本定寺はもともと真言宗寺院でしたが、身延山9世 成就院日学上人が教化改宗、時の住僧は妙覚院日福と称して本定寺を開山したそうです。


調べてみると日学上人も、七面山と深いご縁がありそうです。
日学上人が法主在職中、赤沢村の人々が七面山の山上に、初めて七面大明神のお社を建立したといわれています。その際、初代別当として選ばれたのが赤沢村妙福寺のご住職でした(妙福寺が七面山の鍵取り寺となった由縁です)。

(赤沢 長徳山妙福寺)
かつて真言系修験の行場であったといわれる七面山のこと、いきなり身延山が乗り込んでゆかず、まずは修験にゆかりの深い赤沢村、そして妙福寺(※)に管理を任せるあたりは、身延山トップであった日学上人の細やかな配慮がうかがえます。
ちなみに「長徳山妙福寺」という日蓮宗の寺号に改めたのも、日学上人代ということです。
(※)妙福寺はかつて真言宗で、修験者の拠点だったといわれる


日叙上人、日学上人とも、七面山の歴史を語る上で、欠かせないお上人だったんですね!
(本定寺境内から宮原地区を望む)
ここ宮原地区に、七面山信仰が深く根付いている理由が、何となく見えてきました。


「七面山は身延山の裏鬼門(申未:ひつじさる・南西)をおさえている」といわれます。
一方、宮原地区を地図上で探すと、七面山からみて鬼門、丑寅(うしとら・北東)の方角に位置していることがわかります。
(Google earthに加筆)
宮原地区の住民総出で鬼門をおさえ、七面山を全力でお護りしながら、同時に七面大明神にお護りされている。
そんなふうに思えてなりません。



僕が宮原地区を訪問したのが9月初旬、本定寺の本堂縁側には、ブルーシートに包まれて、すでに注連縄が準備されていました。


お縄上げ大祭は9月17日。
無事滞りなく行われますように。

南無妙法蓮華経。

(追記)
七面山奥之院ブログに、今年のお縄上げ大祭の様子がアップされています。


(参考文献)
・「身延山史」(昭和48年:身延山史編纂委員会)
・「六郷町誌」(昭和57年:六郷町編)
・「七面山」(昭和58年 宮川了篤 林是晋 共著:批評社)
・「無限なる大光明 七面さまのお話」(令和3年 功刀貞如著:大東出版社)

長宮山妙正寺(宇都宮市大通り)

2024-09-01 15:18:31 | 旅行
栃木県の宗祖ご霊跡めぐりも、佳境に入ってきました!

前回は下野国の武士・君島備中守のお母様が、日蓮聖人に帰依し、創建されたお寺についてのお話でした。
実は今回紹介するご霊跡も、女性が開基のお寺です。


今回、宇都宮を訪問したのが4月の初旬、ちょうど桜が満開の頃でした。

宇都宮駅から西に、ほんの100mも歩くと、田川があります。



この田川、普段は穏やかなせせらぎですが、実は知る人ぞ知る、暴れ川。
令和元年の台風19号、まさにこの辺で氾濫したニュース映像を見ていて、心を痛めた覚えがあります。


田川は、宇都宮駅前で大きく蛇行しています。
奥州街道が田川と交差する辺り、旧町名を「上河原町」と呼んだそうです。
昔は川を渡る人で賑わったのでしょう。

(google earthに加筆)
この上河原町に今回の目的地、妙正寺があります。
前回の妙金寺からは、直線距離で200mほどでしょうか。



2本の石柱が山門になっています。
コバルトブルーの文字が爽やかです。



山門の脇には題目法塔。
その時代その時代の、法華衆たちの思いが込められた信仰の証でもあります。
こうしてお花が供されている。きちんとしたお寺なんだと直感します。



こちらの題目碑に刻まれている絵は…帝釈様。法華経の守護神です。
日蓮聖人が描かれた有名な画像ですね、柴又題経寺で実物を拝見しました!



法華の篤信者だった僕の祖父、この帝釈様のお軸を終生大切にしていたのですが、実は妻の祖父も、主宰していた日蓮宗教会のお堂に、全く同じお軸をお祀りしており、驚いた記憶があります。(個人的な話でスミマセン。)



本堂です。お城の天守みたいな雰囲気ですね。
白い漆喰は防火性に優れているといわれます。
妙正寺は前回の妙金寺と同様、空襲などの難に遭ってきた経験が生かされているのでしょう。



栃木県のお寺らしく、本堂の基礎には大谷石がふんだんに使われています。



これまた大谷石の敷石が、墓地の奥まで続いています。



突き当たりに妙正寺歴代の御廟があります。



墓誌には48世までのお上人が刻まれています。
今日まで法灯を継承してくださった先師たちに合掌。
心から感謝致します。


墓誌によると、開山は長壽院妙正日久法尼で、日蓮聖人は一世(初祖)ということになっています。

大正15年に書かれた宇都宮誌(下野史談會編)には
文永二年乙丑春 妙正 高祖の徳風を仰き 其宗に歸し 吾が宅を捨てて寺となせり
つまり文永2(1265)年の春、日蓮聖人が宇都宮で布教していた時、ある女性が聖人に深く帰依、自宅をお寺とした、というのが妙正寺のルーツです。


この女性というのが、宇都宮の殿様・7代景綱の、お姉様にあたる方でした。
別の文献には受戒されたとありますので、出家し、日蓮聖人から直々に「妙正」という法名を賜ったのでしょう。
また妙正尼が暮らしていたのは宇都宮城下、熱木(ねぎ)という場所でしたが、ここを法華経の庵、精舎としたのです。


ちなみに妙正寺の山号は「長宮山(ちょうきゅうざん)」ですが、景綱のお姉様が「長宮氏の後室」(宇都宮誌)であったことに由来していそうです。
(本堂の扁額)
長宮氏が誰なのか調べてみましたが、わかりませんでした。ただ「宮」がつく姓ですから、結構高貴な家かもしれませんね。


ここでふと疑問が生じました。
(鎌倉比企谷・長興山妙本寺の日蓮聖人銅像)
当時、ほぼ無名の日蓮聖人が、殿様のお姉様に面会し、教えを説くことができたのでしょうか?


まず、妙正尼の弟である「宇都宮景綱」について調べてみました。
(宇都宮明神を祀る二荒山神社)
そもそも宇都宮家は、武家貴族・藤原氏が宇都宮明神社の神官となり、神領を有したことが始まりですから、家格は相当高いでしょう。



ちょっと話は逸れますが、鎌倉・鶴岡八幡宮近くの路地裏に「宇都宮稲荷」というお社があります。
日蓮聖人の辻説法跡や日親上人の妙隆寺から目と鼻の先、この辺ときどき散策するので、このお稲荷さん、実は前から気になっていました。


(宇都宮辻幕府旧跡碑)
かつてここには宇都宮家の館があり、一帯は宇都宮辻子(ずし)と呼ばれていたそうです。景綱の4代前・朝綱の時代には、なんとこの場所に将軍の居館、つまり鎌倉幕府が11年間も(!)置かれていたといいます。
内部抗争を繰り返した鎌倉幕府にあって、宇都宮家の信用度は抜群、関東の名門といわれた所以です。


妙正尼の弟・第7代景綱ですが、この方もかなりの大物御家人だったようです。
鎌倉幕府、政治の舵取りは「評定衆(ひょうじょうしゅう)」という、わずか十数人の機関(トップは執権)でなされていましたが、景綱はこの評定衆の一人に任じられるほど、将軍や執権から信頼されていたようです。
(宇都宮城址)
また、景綱は幕政で培った経験を生かし、宇都宮一門の決まりごと「宇都宮弘安式条」を早くから制定しています。これはのちに全国の武家が参考とするなど、武家家法の草分けとなりました。


(「拾遺古徳伝」に描かれた、法然上人の遺骸を護送する宇都宮頼綱:下野新聞社刊「中世の名門 宇都宮氏」より引用)
さらに妙正尼や景綱からみて祖父にあたる第5代頼綱は、あの法然上人直々に帰依していたようですから、宇都宮家は生粋の念仏家系だったんじゃないかと思います。

調べれば調べるほど、普通は日蓮聖人など、門前払いだと思います。


文永2(1265)年春といえば、日蓮聖人が宇都宮入りされ、宇都宮氏の重臣・君島備中守の屋敷にお泊りになった時と一致します。
(妙金尼が開基の法光山妙金寺)
このとき日蓮聖人に深く帰依した君島備中守のお母様(妙金尼)は、父方の祖先は宇都宮家ですから、宗家に出入りすることは可能だったと考えます。
あくまで僕の想像ですが、妙金尼のような仲介者があれば、日蓮聖人は景綱のお姉様にも、教えを説くことが叶ったでしょう。



それから9年後の文永11(1274)年、宇都宮景綱は、姉が精舎としていた熱木の地にお寺を建立、日蓮聖人から寺名を「長宮山妙正寺」と賜りました。
景綱が姉の信仰に理解を示していた、ということになります。


文永11(1274)年というと、日蓮聖人は佐渡流罪が赦免となり、鎌倉で三度目の諌暁をするが受け入れられず、身延に入山するという、激動の年です。
(歴代御廟の中心に立つ日蓮聖人供養塔)
恐らく実際には、弟子の日朗上人が開山に遣わされたのだと思います。
そして日蓮聖人を初祖と仰ぎ、日朗上人は2祖となった、そんな感じかと考えます。



さきほどの墓誌には
一世 日蓮聖人
二世 日朗上人
三世 日輪上人
四世 日山上人
と刻まれていましたが、実はこの4祖までは池上(長栄山)本門寺、比企谷(長興山)妙本寺と全く同じです。
長宮山妙正寺含め、いずれも山号に「長」の字があるため、かつては「三長一寺」といわれ、貫首さんは3寺を兼務(大変!)されていたわけです。



いや~、驚きました。
宇都宮の地に、正統派の日朗門流が存在していたとは!
特に三世の日輪上人は、宇都宮第9代公綱(きんつな)の帰依を得て、伽藍を一新するなど「妙正寺中興の祖」と仰がれているくらいですから、名前だけの貫首ではなく、実際に住持した貫首さんだったのでしょう。



また妙正寺本堂内には、中老日法上人ご親刻の日蓮聖人像がお祀りされているそうです。
日法上人刻の宗祖像は、池上本門寺大堂にもありますよね!ご縁の深さを感じます。


(google earthに加筆)
ちなみに妙正寺は宝徳年間(室町時代)、永禄年間(戦国時代)と二度移転をし、現在の上河原に落ち着きました。
城下町のお寺って、城の縄張り(構想図)に組み込まれているので、時代によって移転してるケースが多いと思います。


(妙正尼の墓石)
妙正尼は元亨3(1323)年、93才で永寂されたそうです。当時としては抜群に長命、そのため戒名は「長壽院妙正日久法尼」です。


(大坊・本行寺で購入した「高祖日蓮大菩薩御涅槃拝図」より:「妙勝御前」が妙正尼と思われる。貞綱は景綱の子) 
計算してみると、初めて日蓮聖人に対面したのが妙正尼35才の時。
それから実に58年もの間、宗祖の教えを弘め続けたわけで、宇都宮一門のメンタルケア、そして子育てなどにも良い影響を与えたことでしょう。


したたかに戦国時代を生き抜いた宇都宮家。
しかし慶長2(1597)年に突如、豊臣秀吉から改易に処せられてしまいます。
後継者を巡る内紛など、理由は諸説あるようです。
(宇都宮城址)
お家再興の動きもあったようですが結局叶わず、22代、500年以上にわたり存続した宇都宮家は取り潰され、滅んでしまいます。


妙正尼から始まる宇都宮家、法華信仰のDNAは、ここに終焉を迎えてしまった…かに思えました。


ところがそのDNA、実は思わぬところで再興していたのです。
(小田原山王にある新田義貞首塚)
7代景綱の曾孫・武茂泰藤(むも やすふじ)は、南北朝の動乱時、南朝方の新田義貞に従っていましたが、越前で義貞が戦死すると、その首を持ちながら各地を転々とし、小田原で首を手厚く葬ってから三河に行き着きます。

泰藤は期するところがあったのでしょう、三河で法華宗に帰依するのです。


のちにその子孫が「大久保」姓を名乗ります(※)
当時まだ無名だった三河の豪族・松平家に仕え、数々の戦では武功を挙げ、主君の天下取りを支えました。
(大久保忠世画像:おだわらデジタルミュージアムより引用)
そう、徳川家康の重臣・大久保忠世として、再び世に出たのです。
一族は皆、篤い法華信仰を継いでいました。
(※)岡崎には「大久保家発祥の地」碑があるそうです。現地の菩提寺含め、いつか訪問したいと思います。


忠世は弟忠佐(※)とともに長篠の戦いで活躍、家康に遠州二俣城主に命じられます。
天正18年(1590)、豊臣秀吉の小田原攻めののち、大久保忠世は家康から小田原城主に任ぜられました。
(昭和35年に再建された小田原城天守)
2代忠隣(ただちか:忠世の子)の時代に大久保家は改易になりますが、その後5代忠朝のとき小田原藩主に返り咲き、以後廃藩置県まで、大久保家は小田原藩主を務めました。
(※)大久保忠佐(法名:道喜)は、中山法華経寺ご霊宝が散逸せぬよう尽力したことで知られる。


実は僕、小田原で生まれ育ち、今もその近くで暮らしています。

後北条氏が滅亡し、小田原の領民たちが肩を落とす中、大久保氏は善政を行って人心を得た、と小学校の郷土史で学びました。それだけに小田原の殿様といえば北条か大久保か、というほど身近に感じていましたが…まさかルーツが宇都宮家にあるとは思いませんでした。
調べものをしていてホント、鳥肌が立ちました。



小田原城下に、大久寺という大久保家の菩提寺があります。もちろん日蓮宗です。



境内には、忠世はじめ一族の墓所があります。
宇都宮の妙正尼から始まった法華信仰が、盛衰を経てここに花開いたんだと思うと、言葉では説明できないほどの感慨に包まれました。
僕自身にも、深いご縁を感じながら、墓前で合掌しました。


小田原、大久保氏と宇都宮の関係、実は他にも沢山あって、因縁めいたものを感じるのですが、本題から逸れてしまうので、また別の機会にしたいと思います。


なんだか沢山、脱線しちゃいましたね!

宇都宮妙正寺に戻りましょう。

庫裡(本堂右)が巨大!
先代ご住職にお話を聞くと、昔は団参に来られる信者さんが多く、庫裡の上にある大広間を参籠部屋として使っていたといいます。



本堂裏にはお稲荷さんのお社があります。
よく清められています。
鎌倉の宇都宮稲荷といい、宇都宮家は稲荷信仰が強かったのでしょう。



本堂前、鋳物でできた題目塔の画像で、今回のブログを締めましょう。
印象的だったのはその台座に刻まれていた文字です。


皆さんお馴染み、開経偈の一節です。

「見聞触知、皆菩提に近づく」
つまり見たり、聞いたり、触れたり、知らないことを知ったり…五感で入って来るもの全てが、成仏への近道なんだという意味だと思います。


春先に訪問した栃木県、日蓮聖人のご霊跡4ヶ所を巡る旅の報告は、今回でひとまず終わります。
いずれのご霊跡も初めての情報ばかりで、まさに「見聞触知」、本当に刺激的、新鮮な旅ができたと思っています。
(高根沢町・長榮山妙福寺近くの田園風景)
本来はご自身の刀傷、そして中風治療のために訪れた下野国、日蓮聖人は旅の途中で多くの逸話を残し、そして住民の幸せのために法華信仰を遺されたこと、よくわかりました。
またそういったご霊跡を、後世まで継承できるように尽力した先人の後ろ姿も、感じることができました。

今回は訪問が叶わなかった日光鬼怒川の藤原とか、宇都宮近郊の壬生などにも、日蓮聖人の足跡は確認できるようです。近いうちに是非、参拝したいと考えています。

いずれにせよ、これだけは断言します。
日蓮聖人は下野国にいらしてます!


(参考文献)
・「宇都宮誌」(大正15年:下野史談會編)
・「宇都宮市地誌」(昭和8年:宇都宮市教育委員会編)
・「中世の名門 宇都宮氏」(下野新聞社刊)
・「日蓮宗の人びと」(宮崎英修著:宝文館叢書)

法光山妙金寺(宇都宮市仲町)

2024-08-01 13:56:28 | 旅行
栃木県の宗祖ご霊跡巡りも、3ヶ所目になりました。

今回は県庁所在地・宇都宮にあるご霊跡を紹介します。


(ライトレール 駅東公園前駅)
僕は20代の頃、宇都宮には仕事で頻繁に来ていました。
それから既に30年が過ぎ、再訪してみると、路面電車(ライトレールっていいます)が走るわ、小ぎれいな建物が林立するわで、街はずいぶん様変わりしていました。


宗祖研究の権威・小川泰堂居士の著書「日蓮大士真実伝」によると、那須温泉で養生された日蓮聖人は、続いて鬼怒川沿いの藤原という場所に至り、当地の庄屋さんの帰依を受けています。現在の藤原山清隆寺のルーツだといいます。
(残念ながら今回は訪問できませんでした。)
(google earthに加筆)
このあと日蓮聖人は40~50km南下して、宇都宮に入ったそうです。


宇都宮は、その名前からわかるように宇都宮明神のお社(現在の二荒山神社:ふたあらやまじんじゃ)を中心に発展した町です。
(二荒山神社 大鳥居)
奥州征討の戦勝祈願所として、源頼朝も頻繁に参拝したほどですから、鎌倉時代の宇都宮は別格の社檀だったに違いありません。



二荒山神社のすぐ東には、餃子の名店が軒を連ねる「餃子通り」。



付近にはインスタ映えしそうな餃子のモニュメントなんかもあります!



この通りを東に数分歩いたところに、妙金寺があります。



周囲の風景から、町なかのお寺というのがよくわかると思います。


まずはコンクリート造りの本堂を参拝。
大火や空襲を経験してきた都市部のお寺では、コンクリート造りが多いような印象があります。

宇都宮市街は戊辰の役や太平洋戦争の空襲で、相当やられたと聞きます。
敢えて木造を避けるというのも、お寺の歩んだ歴史、軌跡なのかもしれません。



山号は法光山です。



本堂2階部分から西方向を眺めた景色。
この辺りは旧町名を「寺町」というように、お隣には法華寺(日蓮宗)、奥には生福寺(真言宗)が見えます。
その奥に見える森が、二荒山神社です。



本堂2階部分から東方向を眺めた景色は…満開の枝垂れ桜!
絶好の季節に参拝できたこと、感謝です。


妙金寺歴代お上人の御廟を参拝。

宗祖直々のご霊跡を今日まで護り通すには、代々大変なご苦労があったことでしょう。心から感謝致します。



開山は日蓮聖人の孫弟子である摩訶一阿闍梨日印上人、



そして開基として「妙金大信尼」の法名が刻まれています。
女性を由緒とするお寺なんでしょうか。



参道脇に、「妙金寺の由来」という碑があります。
昭和50(1975)年、当時の36世日秀上人が書かれた文章です。
こういうの本当に助かります!



宇都宮に入った日蓮聖人は、「君島備中守平綱胤の館に」一宿を求め、泊めていただいたそうです。


当時、下野国を治めていたのは幕府の有力御家人・宇都宮氏でした。
(宇都宮城址)
君島備中守はその宇都宮氏の重臣ですから、無名のお坊さんがいきなり泊めてくれと言っても、普通は厳しいと思います。
何らかのツテ、ご縁があったのだと考えます。


(妙金寺境内の枝垂れ桜)
日蓮聖人はその晩、家人に法華経のお話をされたことでしょう。
そのお話に深く感じ入った君島備中守のお母様(※)が「宗祖の徳に帰依して弟子とならんことを」願い出たのです。
(※)「日蓮大士真実伝」には「老母」と記されています。ご高齢だったと思われます。


ここで少し脱線しますね。
日蓮聖人のご遺文には、女性の信者さんに宛てたお手紙が数多くあります。
それこそ老若とか学問の有無、いろんな立場の女性がいたと思いますが、お祖師様はそれぞれのレベルに応じた言葉を選んで、丁寧に教えを説いています。
(阿仏房と千日尼:堀内天嶺画集「日蓮聖人の生涯」より引用)
例えば佐渡・阿仏房の奥様である千日尼に向けたお手紙には「法華経は女人の成仏をさきとするぞと候いし」と書かれています。


迷いを無くす、すなわち悟りを開く(成仏する)ために日々修行する、というのが仏教だと、僕は理解しています。
(妙金寺境内の椿)
しかし当時の仏教は、女性は罪障のために成仏できない、としていたようです。つまり初めから行く手が閉ざされていたようなものでしょう。信仰なんてできませんよね…。


そんな時代に日蓮聖人は、法華経の行者ならば、女性であっても、誰であっても等しく成仏できると説いたのです。
(妙金寺歴代御廟の宗祖供養塔)
こういった日蓮聖人の基本スタンスは、ご遺文を読むかぎり生涯一貫していますし、君島備中守のお母様もそこに救われたのだと思います。



日蓮聖人は君島備中守のお母様の信心を確信し、「直筆の本尊を授け、剃髪染衣」させ、「妙金」という法号を授けました。
性別関係なく、一人の弟子として、認められたのです。



本堂前、水神様の説明碑に、妙金尼の人となりがわかる記述があります。



妙金尼は大変情け深く 近隣の困窮者を見捨てられず 殊に身寄りのない孤児たちを集めて養育」されたと刻まれています。
不幸な人、貧しい人…誰であっても成仏できる、というお祖師様の教えを踏襲し、弱者救済に捧げた生涯だったのでしょう。


ところで息子さんの君島備中守、どんな人なのか調べてみました。
妙金寺由来碑には、君島備中守は「宇都宮七代城主 景綱の家臣」と刻まれています。時代的な整合性からすると、実際は八代貞綱、九代公綱にわたって仕えたと思われます。

宇都宮の30kmほど北、塩谷町船生(ふにゅう)という場所にある、こんもりとした山、ここはかつて船生城といって、君島備中守の居城だったといわれています。
宇都宮の北方警備を任されていたんですね。


(宝治合戦で三浦氏が自害した鎌倉の法華堂跡)
君島備中守、父方のルーツは千葉氏一族の大須賀氏でしたが、曽祖父の時に幕府の内乱(宝治合戦)に巻き込まれ、宇都宮氏を頼って下野国に移住します。このとき住み着いたのが芳賀郡君島で、「君島」と改名したようです。


一方、君島氏を受け入れた宇都宮氏も、婚姻関係などで千葉氏一族とのご縁が深いようです。
(中山法華経寺 山門)
例えば宇都宮家9代当主・公綱公の妻は、千葉胤貞公の妹です。千葉胤貞公といえば中山法華経寺の大檀越として、宗門では有名だと思います。
そして妙金尼はその宇都宮家の出身、ということを考えると、君島家は千葉氏一族との太~いパイプがあったに違いありません。

そもそも「君島備中守平綱胤」という名前からして、千葉氏のカラー(※)がよく出てますよね!
(※)千葉氏の祖・房総平氏由来の「平」、千葉氏の通字「胤」


千葉氏の家臣には、富木常忍公、曽屋教信公など、古くから日蓮聖人の活動を支えた信者がいましたし、日昭上人、日朗上人も千葉氏に近い家系だと記憶しています。
(宮の橋より田川を望む)
土地勘のない宇都宮、そういった人脈、情報に助けられて、日蓮聖人は君島備中守の館を訪ねたのかもしれません。


話を戻しましょう。

さきほどの妙金寺由来碑によると、「備中守は母のために一宇を建立し 徳治二年三月 高祖の法孫 摩訶一阿闍梨日印上人を請じて開堂供養の式を営み 法光山清光院妙金寺と号す」とあります。

徳治2(1307)年というと日蓮聖人が宿泊されてから42年後のこと、妙金尼はすでに遷化されていたと思いますが、その頃には立派な法華信仰の拠点となっていたことでしょう。


妙金寺開山の日印上人は、日朗上人のお弟子さんです。
いつも参考資料として引用させてもらっている「高祖日蓮大菩薩御涅槃拝図」(大坊・本行寺で購入) には、摩訶一丸時代の日印上人が描かれています。
有名な鎌倉殿中問答(※)では、全ての宗派を論破してしまうほど、弁の立つお坊さんとして知られています。
(※)文保2(1318)年から足掛け2年、幕府の命で行われた各宗の問答対決。鎌倉での法華経の布教を、幕府が認める契機となったといわれる。


僕が今まで参拝したお寺では、

日蓮聖人が立教開宗後、鎌倉に入る際に立ち寄られた、葉山の本圓寺



日蓮聖人が佐渡に渡る直前、逸話を残された新潟角田浜の妙光寺

などは日印上人の開山でした。宗祖のご霊跡を護り伝えるために尽力されているんですね!
日印上人は越後出身ということもあり、新潟県内にゆかりのお寺が多いようですよ。


(妙金寺歴代御廟に刻まれた墓誌)
そして妙金寺の第二祖は、日印上人の直弟子・三位僧都日静上人です。
この日静上人は名門上杉家の出身で、足利尊氏の叔父(※)にあたります。
(※)日静上人の姉が尊氏の生母


鎌倉幕府が滅び、政治の中心が京都に遷ったタイミングで、光明天皇の勅命により京都六条堀川に大光山本圀寺が開かれますが(※)、日静上人は実質的な開山となっています。
(※)足利尊氏の政治力により、鎌倉松葉ヶ谷の法華堂(宗祖ご草庵)が移されました。
(京都六条堀川にある本圀寺跡)
そのためでしょう、妙金寺は古くから本圀寺とのご縁が深く、天文法難で本圀寺が破却された際には、妙金寺挙げてその復興に尽力されたようです。



特に、妙金尼がお祖師様から授与された本尊が二幅あり、これらは妙金寺歴代が累々、命懸けで守り抜いてきたものですが、このうち「一幅は元亀元年に上洛し 天文法乱に罹災せし当山の本寺たる京都本圀寺に献納」したと刻まれていました。



こういった利他的な行い、なかなかできることじゃありません。
情け深く世話好きだったという妙金尼。
妙金寺にはそのスタイルが連綿と受け継がれているのでしょう。


いや~逸話たっぷりの妙金寺、もっと早く来ていればよかったな!!
今までノーマークだったことを反省しています。

日蓮宗門で「日蓮聖人のご霊跡」というと、四大法難の地、そして身延入山下山の道が、圧倒的な存在感で君臨しています。
やはりお祖師様のご遺文に記述がある、というのが大きいとは思います。
(妙金寺境内の枝垂れ桜)
しかし中にはお手紙に書かなかった、書けなかった旅もあったでしょうし、お手紙の紛失とともに消えてしまった旅も、あったはずです。
もしかしたらそんな旅の中に、秘められた宗祖像があるかもしれませんよね!

ネット情報でもいい、先人の書き遺した記録でもいい、少しでも興味を持ったら、実際に現地を訪れてほしいと思います。

僕は今後も知られざるご霊跡を訪問し、ブログにアップしてゆきたいと考えています!


(参考文献)
・「宇都宮市史 第3巻」(1981年:宇都宮市史編纂委員会編)
・「宇都宮市地誌」(昭和8年:宇都宮市教育会編)

長榮山妙福寺(高根沢町亀梨)

2024-07-01 18:07:58 | 旅行
前回は、小松原法難後の日蓮聖人が、湯治をされたという伝承がある、那須のご霊跡を紹介しました。
(小川泰堂著「日蓮大士真実伝(復刻版)」ニチレン出版)
小川泰堂居士の著書「日蓮大士真実伝」によれば、文永2(1265)年の春、下総を発った日蓮聖人は、常陸国を経由して那須に至った、ということでした。


相当な長旅、どこか途中で宿泊された場所はなかったのかな?
あれば日蓮聖人が那須で湯治をされた、という説の根拠にもなるんだけどなぁ…

調べていたら、日蓮聖人が那須へ向かう途次、しばらくご滞在されたと伝わるご霊跡が見つかりました!
今回は栃木県高根沢町の妙福寺です。



高根沢町は、宮内庁の御料牧場があることで知られています。
御料牧場は、皇室の方々が口にする食材の多くを生産する場所です。昭和42(1967)年の成田空港建設に伴い、高根沢町に移転してきました。



広大な牧場は、皇族方の静養場所にもなっています。
昨年、天皇皇后両陛下が「ごっつんこ」された微笑ましい動画は、話題になりましたよね!


高根沢町一帯は、稲作も盛んです。鬼怒川から引いた用水路が整備されているため、水が豊富なんだとか。

苗がぐんぐん成長しています。
温暖化で米が穫れなくなってきてるといいますが、今年は豊作を期待しましょう!



鬼怒川の河岸段丘(喜連川丘陵)上には、古道「辰街道」が南北に通っています。
この古道沿いに、妙福寺があります。



大きな門柱が山門代わりになっています。



火灯窓が印象的な本堂です。
お堂の天井に天符が貼られているのがチラッと見えました。
御祈祷のお寺なのでしょうね。


山号は「長榮山」です。
(妙福寺本堂の扁額)
「栄」の旧字は「榮」ですが、池上のように火伏せの目的で土二つを充てたお寺もあるなか、こちらは火二つです。
実はこの「榮」の字、花の美しさとか、温かみのような意味合いもあるようですよ。


お寺に向かう前に電話を入れましたが、ご住職は先約があるそうで、直接お話は伺えませんでした。ちょっと残念!
(境内をゆっくり見させていただく許可はいただきました。)

はて、日蓮聖人がご滞在されたという逸話について、何か手掛かりはないだろうか・・・


と思っていたら、参道脇に妙福寺の縁起を刻んだ碑がありました。

昭和7(1932)年、妙福寺42世のお上人代で建立された板碑です。



碑文によれば、日蓮聖人がこの界隈を訪れたのは「小松原法難の後 那須温泉入湯の途次」だったそうです。
お、つじつまが合うぞ!


日蓮聖人がここからほど近い烏麦村にさしかかった頃には、すっかり暗くなってしまい、お弟子さん達とともに、近くのお堂で一夜を明かすことにしたそうです。
(旧烏麦村付近にあるお堂:宗祖御一泊のお堂かは不明です…!)
そこは偶然にも、お釈迦様をお祀りするお堂だったといいます。


お堂の中で夜通し法華経を唱えているうちに、空が白んできました。
村人たちが何事かと、集まってきました。
(旧烏麦村付近の田園風景)
日蓮聖人は村人たちに、わかりやすくお説法をしたそうです。
そして村人たちもその教えをよく理解したのでしょう。


村人たちは、このお坊さんならば!と、悩みを打ち明け始めました。



烏麦村から隣村に行くには、山道を抜ける必要がありましたが、当時、近くの池には毒蛇が棲んでおり、「屡々(しばしば)村民の危害を被る所となり 其の悲惨な事 例ふべからず」、つまり噛まれて命を失う人が続出していたのです。



話を聞いた日蓮聖人は、村人に「絹川(鬼怒川)より清浄なる小石数万個を採取」して来させました。



そして「大聖人も一石一字の経を書写して塚となし 門弟日〇(※)日法の二人と共に祈願大行せられ」ると、
(※)刻字が達筆で読めず。日「興」上人か?



忽ち毒蛇を駆除」し、それ以後、毒蛇は現れなくなり、村人は安心して山道を往来できるようになったということです。


いわゆる一字一石経という修法でしょう。
(石和・鵜飼山遠妙寺境内の説明板)
僕が今まで参拝したご霊跡では、石和の鵜飼山遠妙寺で、似たような逸話がありました。


(石和遠妙寺境内、済度された鵜飼の霊をお祀りするお堂)
成仏できない鵜飼の亡霊が悪さをし、土地の人が悩んでいたところ、日蓮聖人が法華経の経文を書いた69,384個の小石を川底に沈めて供養、亡霊は成仏できたということでした。


マムシやヤマカガシといった日本の毒蛇は本来、非常に憶病で、近づいてつっついたりしなければ、攻撃してくることはありません。
(旧烏麦村付近の田園風景)
烏麦村の毒蛇は、鵜飼の亡霊と同様、成仏できない魂が姿を変えて悪さをしていたのかもしれませんね。


日蓮聖人は烏麦村に「数旬之間 留錫(※)」されたと石碑に刻まれています。
(※)行脚中のお坊さんが滞在すること

一旬が10日間ですから、数十日間はこの界隈(鈴木隠岐の守豊重公の館)に滞在し、「説法、祈願等を親修せられた」のでしょう。
村人は大喜びですよね!


ただ、日蓮聖人の本来の目的地は、那須温泉です。
烏麦村を去ろうとすると、村人が別れを惜しむので、随従していた弟子の日法上人(宗門屈指の仏師)に日蓮聖人のご尊像を刻ませ自らが開眼、当地に遺していったといいます。


(妙福寺境内にある柘榴の木)
烏麦村の住民たちは、祖師像をさぞ大切にしたでしょうし、またこの村を中心として独自に法華信仰が護られ、少しずつ広まっていったと考えられます。


(小松原法難翌年の日蓮聖人の推定足跡)
これだけの逸話があるわけですからね~!
日蓮聖人が那須温泉に湯治に行かれたという伝承は、さらに真実味を帯びてきました。



妙福寺歴代お上人の御廟を参拝。
宗祖直々のご霊跡を、今日まで護持してくださった先師達に、心から感謝致します。


墓誌には44世までのお上人が刻まれています。

開山は…日什大聖師、すなわち室町時代の傑僧・玄妙阿闍梨日什上人です!


日什上人は、ここからそう遠くない会津の出身、もともとは「玄妙」という天台僧でした。
(日什上人画像:磐田玄妙寺縁起より引用)
相当頭が切れる方だったようで、比叡山のトップ・学頭にまで上り詰めました。
のちに比叡山を下り、故郷会津に近い羽黒山で活動されていたようです。


66才の時、ひょんなことから「開目抄」「如説修行抄」を読んで衝撃を受け、改宗して法名を「日什」と改めました。
(日什上人生誕・遷化の地である会津妙國寺の日什上人御廟)
日什上人のすごいところは、高齢にもかかわらず何度も上洛し、遂には天皇に上奏、一派を導き(※)公武にわたって法華経を弘めたことでしょう。
日蓮聖人滅後100年が過ぎ、宗門各流派が本家争いに明け暮れる中、日什上人は純粋に宗祖のスタイルを貫き、とにかく布教活動に力を尽くしたのです。
(※)現在の顕本法華宗の淵源


古希間近になっても気力は衰えず、各地に多くのお寺を開山しています。
(飯田本興寺の題目碑「開山日什大聖人」)
ちなみに、僕が以前参拝した横浜市飯田の本興寺は、弘和2(1382)年、日什上人69才の時に開山(※)していますし、
(※)もともと宗祖鎌倉辻説法の霊地に直弟子の天目上人が開創したが、天目上人は迹門不読を是としており、のちに住持となった日什上人が、事実上の開山上人とされる。


(磐田玄妙寺の日什大正師頌徳碑)
磐田市の玄妙寺は元中2(1385)年、日什上人72才での開創でした。


妙福寺も恐らくその頃に、日什上人が正式なお寺として開いた、と考えられます。

先ほどの石碑には、「日什大聖師 京都より会津へ往還の節」烏麦村を通りがかり、村人に「再三親教し 化導成満」したと刻まれています。


それより100年以上も昔、この地に宗祖直々の逸話があり、今も法華信仰が息づいていることに、日什上人は驚いたことでしょう。

その100年以上の「空白の期間」、村人がどうやって信仰を継続していたのか、そもそもお坊さんがいたのかとか、僕も非常に興味があります。


そのヒントとなりそうなのが、このお寺の説明板です。

妙福寺には寺宝として、近くで発見された題目板碑が2基、格護されている旨が書かれています。


板碑は板状の石を加工して造立される供養塔で、14世紀に全国で流行したといいます。

以前訪れた東秩父の浄蓮寺では、地元の緑泥石片岩を加工した石塔婆↑が沢山ありました。
妙福寺の題目板碑も、こんな感じかもしれません。


日蓮聖人が去り日什上人が訪れるまでの時代に、2基の板碑は造立されたようですから、その「空白の期間」、村人達は何か深い想いを込めた板碑建立を、共通の目標としてお題目修行していた、そう推測します。
(妙福寺の題目板碑は、高根沢町の有形文化財となっている)
本当に純粋な信仰だったのだと思いますし、それがまた日什上人のスタイルとよく合ったのでしょうね。


最後に、今回のブログを書くにあたって調べた高根沢町の郷土資料集に、興味深い記述があったので、引用させていただきます。

栃木県内の寺院を宗派別に見ると、真言宗が圧倒的に多く 次いで曹洞宗、天台宗、浄土宗と続く。」
「高根沢町には、真言宗が五カ寺、日蓮宗が四カ寺、曹洞宗と真宗が各二カ寺である。」
「県内で日蓮宗の最も多いのが宇都宮市の五カ寺、次いで高根沢町の四カ寺、鹿沼市と大田原市、矢板市の三カ寺である。寺院数や人口との比率から見れば高根沢町の四カ寺が最も多く、主に県北地方に教線の広がっていることがわかる。」 
(高根沢町図書館/高根沢町デジタルミュージアム 町史コラム「高根沢と日蓮宗」より引用)


お祖師様が直々に蒔いた信仰の種が、村人の丹精によって芽を出し、日什上人の導きでゆっくりと成長し、根を張り、見事に花を咲かせた…。
高根沢町は間違いなく、下野国における法華の聖地なのでしょう。

妙福寺を訪問したのが4月初旬、境内の巨大な枝垂れ桜が満開でした!



(参考文献)
・「高根沢町史」(高根沢町図書館/高根沢町デジタルミュージアム)
・「高根沢町郷土誌」(高根沢町)

那須山喰初寺(那須町湯本)

2024-06-01 14:44:09 | 旅行
今回は久しぶりに日蓮聖人のご霊跡です!

(小松原法難のご霊跡・鏡忍寺総門)
小松原法難後の日蓮聖人の足取りについては、ご遺文に明記されたものがありませんが、先人達は各地のお寺の縁起とか、地域で伝承されている逸話なども調べ尽くし、大体の経路を推定しています。


特に幕末~明治維新の時代、宗祖研究の権威として知られた小川泰堂居士は、著書「日蓮大士真実伝」の中で、かなり詳細に記しています。
(実は最近、この復刻本↓を購入し、時間があれば読んでます!)

これによると、小松原法難の翌年、すなわち文永2(1265)年の春にはもう、日蓮聖人の消息が確認できるようです。
まずは下総国 海上郡 鼻和(うながみごおり はなわ:現在の旭市塙)で布教され、真言宗のお寺を改宗させています。


(水戸市加倉井にある常陸の湯霊跡)
このあと進路を北にとり、常陸国に入ったと記されています。
いわゆる「常陸の湯」は、この時に訪れたのかもしれませんね。


さらに日蓮聖人は、筑波山を回り込んで那須に至り、そこで湯治をされたということです。
(google earthに加筆)
初めて目にする情報ばかり。
なんだか、居ても立ってもいられなくなりました。
よし、行ってみよう、那須!


というわけで、今回は6年ぶり(佐野妙顕寺以来)の栃木県!
那須のご霊跡を紹介したいと思います。
宇都宮でレンタカーを借り、走ること1時間余り、那須高原に至ります。



(那須高原を貫く県道16号線)
この道、古くは那須街道と呼ばれていました。
那須と水戸を結ぶ道として、江戸時代には人馬の行き来があったようです。


那須街道は、ほぼ那珂川に並行して走っています。
(水戸中心部を流れる那珂川:関東地方整備局HPより引用)
実は今回、初めて知ったのですが、水戸を流れる那珂川の源流は、那須岳にあるんですね!(那珂川の「那」は那須が由来)
那須と常陸、古くから人の往来があったことは間違いなさそうです。
お祖師様も、那珂川沿いを歩いて那須に行かれた…かもしれません。



目的のご霊跡に到着しました。
那須山喰初寺(※)です。
インパクトのある寺名ですね!
(※)読み方ですが、縁起には「くいそめじ」とありました。また「くいぞうじ」と書く文献もありました。



場所は「新那須」というバス停の目の前です。
この界隈にはいくつも温泉郷がありますが、新那須温泉はその名の通り、大正時代開湯の一番新しい温泉だとか。



お寺の入口はこんな感じ。
30年前に建立された大きな鐘楼が目印です。
僕のレンタカーと比べても、その立派さがわかりますよね。



辺りには、ほのかに硫黄の香り。
石塔には「日蓮聖人御入湯霊場」の文字が刻まれています。
さて、どんな縁起があるんだろう?わくわく!



こちらが本堂です。
窓が多いので、お堂の内部は結構明るいかも。
木の感じからするとこのお堂、そう古くはなさそうです。



事前に電話をしましたがつながらず、庫裡もご不在だったようです。
残念ですが、本堂前に掲げられている縁起↑をもとに、各種資料を漁りながら、喰初寺の歴史を探りたいと思います。


さきほどの「日蓮大士真実伝」によると日蓮聖人、那須湯治の目的は「近き頃、中風の御心地にてありければ…」とあります。

「中風」は漢方医学的には、風邪にあたった(中った)時に起こるような、しびれ、麻痺、めまいなどの症状のことで、脳血管疾患後にもよく見られるといいます。


小松原法難でお祖師様は頭部に3寸(9cm)もの刀傷を負いました。
また南条兵衛七郎殿御書によると「自身も切られ 打たれ…」とあるほどですから、衝撃だって相当あったでしょう。
(小松原山鏡忍寺の祖師堂扁額)
脳にひずみが生じれば「中風」的な症状も出ていたかもしれません。
傷の治療とともに、「中風」を軽くするため、那須に湯治に来られたのでしょう。



喰初寺から車で3分も上がれば、那須温泉の元湯に至ります。


那須温泉の歴史は古く、今から1400年ほど昔、飛鳥時代には開湯されていたといいます。

鹿を射損じた猟師が、逃げる鹿を追って山奥に入ると、鹿が傷ついた体を温泉で癒していた、そんなルーツがあるそうです。
効能多い温泉に感謝して創建された、温泉(ゆぜん)神社もあります。



時間があったので元湯「鹿の湯」に入ってきました。


真っ白で硫黄臭強め、そして熱めのお湯でしたが、芯から温まりました。
(鹿の湯 パンフレットより引用)
日蓮聖人もこのお湯に浸かったのかなぁ、なんて妄想してたら、のぼせる一歩手前!
ふぅ~、あぶないあぶない。


ところで那須には、九尾の狐伝説があります。
(資料によって細部が微妙に違うのですが、大まかには以下の通りです。)
(那須町による殺生石由来の説明板より)
平安時代、日本を滅ぼそうと時の上皇に悪さをした九尾の狐がいました。
武士に追われた九尾の狐は那須まで逃げ、そこで巨大な石に化けて長い間、毒気をふりまき、人畜の命を奪い続けました。
結局、ある高僧が法力でこの石を打ち割り、九尾の狐はやっと姿を消したというお話です。



石は割れて飛び散り、その破片の一つが元湯エリアにある殺生石だといいます。
注連縄でお祀りされていますね。



実はこの時飛び散った別の石が、喰初寺のルーツだと伝えられています。


日蓮聖人は湯治からの帰途、草むらの中に巨大な岩石が横たわるのを見付け、ここに邪気が籠っているのを即座に見抜いたのでしょう、すぐに筆を執って七字のお題目を墨書きしました。
その上で、法力を込めて数珠を打ちつけると、巨石は二つに割れ、隠れていた九尾の狐は昇天したといいます。



境内には九尾稲荷社があります。



済度された九尾の狐を、稲荷神として法華経でお祀りしているのでしょう。
よく清められていました。


日蓮聖人がご入滅された後、弟子の日朗上人がここを訪れ、石に染筆されたお題目をそのまま刻み、後世に遺しました(爪で刻んだという伝承もあるそうです)。
(立てかけてある僕の折り畳み傘、長さ60cm弱)
喰初寺本堂の横に、恐らくそれと思われる巨石があります。
その逸話から「数珠割石」と呼ばれ、信仰を集めてきました。
手前に祠が設けられていますね。


巨石をくまなく観察しましたが、お題目の跡を見つけられませんでした。

いろいろ調べると、この石は屋外に野ざらしですから、野火に遭ったり、お守りとして石を削ってゆく人も後を絶たなかったといいます(←絶対ダメ!)。
そのため、後年にお題目の部分を碑石として切り離し、整形して本堂に格護したのだと思います。
本堂には「経題石」がご本尊としてお祀りされているそうです。


ところで寺名「喰初寺」の由来、気になりますよね!

さきほどの縁起によると、江戸後期、那須を治める黒羽藩主の娘が大病をし、ものを食べることができなくなってしまったといいます。


(喰初寺の縁起より)
両親は手を尽くしますが全く効果なく、途方に暮れていたところ、夢に日蓮聖人が現れ、方策を示されました。
早速示された通り、経題石に祈願を込め、そこに生えた苔を水に浸して飲ませると、娘はみるみる回復し、ものが食べられるようになったそうです。(諸説あり)


(喰初寺本堂の扁額「初喰佛」)
感激した藩主は経題石を「喰初佛」と名付けてお堂を建立、その逸話が広まって信仰を集めました。
転じて、この地域では子供が生まれると、母子で経題石に参拝し、石の前でお食い初め式をして、健やかな成長を祈るのだといいます。



数珠割石の裏手に、喰初寺歴代の御廟があります。
宗祖の由緒が残るご霊跡を、見事に復興・護持してくださった先師達に、感謝の誠を捧げました。



墓誌には、開山として通妙院日現上人が刻まれています。
文政期に遷化されていますから、さきほどの黒羽藩主と時代が一致します。
恐らく最初にお堂が建立された際、招かれたお上人なのでしょう。


ちょっと気になるのは、その次に刻まれているお上人は、一気に昭和の時代となることです。

実は当初、ここは正式なお寺ではなく、修験者や民間の霊能者のような人が堂守を継承するお堂「喰初庵」だったそうです。


昭和初期、喰初庵を正式な寺院にしようという機運が高まり、招かれたのが慈中院日源上人です。墓誌では中興開山とされています。

東京の二本榎・承教寺や池上近くの林昌寺で修業されたお上人だといいます(第2世、第3世も)。
承教寺も林昌寺も、池上本門寺とご縁が深いですよね。
恐らく経題石を刻んだ日朗上人の法縁から選ばれたのだと思います。



境内に復興記念碑があります。



裏面には、宗祖650遠忌の砌、諸堂の復興とともに、正式なお寺「那須山喰初寺」と改めたことが刻まれていました。
650遠忌ですから昭和6(1931)年、ちょうど満州事変の年です。


さらにその前年秋には、近くで山津波(大規模な土石流)が発生、多くの人が犠牲となっています。

境内には、当時の犠牲者を追悼するため、地蔵菩薩像が鎮座しています。


由緒あるご霊跡なのに、お寺でなかったために荒廃したり、相続により開発されてしまったような場所を、僕は各地で見てきました。
天災、政情不安、恐慌…と大変な時代に、それでも後世のことを考えて、正式なお寺にするよう尽くした喰初寺の先師達に、ただただ感謝です。

この復興記念碑は平成元(1989)年、現在のご住職(第5世)が歴代の偉業を顕彰するために建立されたようです。
碑に刻まれているからこそ、僕は今、先人のご苦労に思いを馳せることができる。
正しく伝えるっていうのは、一番の布教だと思います。


(那須温泉の元湯付近)
それにしても日蓮聖人、「中風」を我慢しながら、よく下総から那須まで歩いて来られたと思います。
それだけ那須温泉の効能が、当時から知れ渡っていたのでしょう。


そしてもう一つ、これはあくまで空想、オカルトですが…
レンタカーのナビを見ていて気付いたことがあります。
(google earthに加筆)
那須の先は白河。
実は結構近くて、箱根駅伝一区間分もありません。
(東北道の那須~白河は17.2km)


明治時代に書かれた「高祖日蓮記」という宗祖御一代記には、小松原法難で犠牲になった鏡忍房日暁上人について、こんな事が書かれています。
(小松原上人塚の日暁上人供養碑)
鏡忍房は元奥州白河の住人、白河八郎と云って武門に育ちたるもの
で、故あって浪人となり、諸国を流浪するうちに、日蓮聖人の弟子となったそうです。彼は
三十人力もあらうといふ剛勇の人
だからお祖師様が大勢に襲われた時、傍らに生えていた松を引っこ抜き、振り回して応戦できたのだと。
そして絶命する寸前まで日蓮聖人を護りぬき、最期は
無念、無念と叫びながら落命
したと書かれていました。



義理堅い日蓮聖人のこと。
法難の翌春、進路をわざわざ北にとったのは、もしかしたら、鏡忍房日暁上人の故郷・白河を訪れる目的もあったんじゃないかな、なんて思いを巡らせながら、霧雨に包まれる那須のご霊跡をあとにしました。



(参考文献)
・長沢利明「食い初めの寺」(西郊民俗)
・「那須喰初佛」(那須町誌)
・大坪朴堂「高祖日蓮記」(三芳屋書店)
・小川泰堂「日蓮大士真実伝」(ニチレン出版)

菩提梯(身延町身延)

2024-05-01 15:13:47 | 旅行
先日、昔の写真アルバムを整理していたところ、僕が初めて身延山に登詣した時の写真が見つかりました。
(身延山奥之院山門にて、手前左が僕:1974年夏)
昭和49年ですから、今からちょうど50年前のことです。
その旅のこと、ほぼ忘れてしまったのですが、実は1ヶ所だけ、鮮明に覚えているところがあります。


家族で登った菩提梯です!(当時の写真がないのが残念)

小学1年生の僕が、いいとこ見せたくて、壁のような石段を一気に駆け上がっていた記憶。
そして遙か下を必死に登ってくる両親や姉を見下ろして、悦に入っていた記憶。
およそ煩悩だらけの思い出ですが、それが僕の、身延山での一番古い記憶です。


今回はその菩提梯について、書いてみたいと思います。



まぁ、いつ見ても圧倒されます。
三門と本堂、標高差104mを一直線で結ぶ、287段の石段です。


登った人にはわかると思いますが、1段1段が高い!

単純計算で1段あたり36cm(一般的な階段は20cm位)。
傾斜角40度前後が延々続くわけですから、キツいはずです。


ただ、この菩提梯がなかった時代、参詣者は土の、それも急峻な道を通ってゆくしかありませんでした。
雨の時などは、さぞ大変だったでしょう。



菩提梯脇にある説明板には
「26世日暹(せん)上人代の寛永9(1632)年に、佐渡の住人 仁蔵の発願によって完成したものです。」
とあります。



仁蔵、すげえな・・・。
これだけの巨大建造物です。どんなに信仰が深くても、いち民間人がおいそれと造れるレベルではありません。
仁蔵、何者なんだろう?と、以前から不思議に思っていました。


身延町誌には、地域で伝承された民話として、こう書いてあります。
(寺平の身延山大学グラウンドから身延山を望む)
「寛永年間に仁蔵という佐渡の船頭が、身延山に登山した。当時まだこの石段はなかったので、仁蔵は本堂前の急坂を見て、どうかして石段を作りたいと考えた。そして、宗祖の御前へ参籠して、『石段を作るだけの金を授け給え』と祈願した。」


(真野湾越しに大佐渡山地を望む)
「それから後、船頭仁蔵は佐渡の近海を航海していた時、佐渡の山の上に何か光るものを見た。不思議に思って登ってみると、一面の金であった。偶然とも不思議とも例える言葉もないような幸運につきあたった仁蔵は、これも日蓮聖人が下されたものであると堅く信じ、巨万の金を持って身延山へ登山した。」



「そして、立札を作り『石一つ運んだものに銭百文を与える。』と村々へ布告した。金の力は偉大なもので、数日の間に必要以上の石材が集まった。こうして、あの天にも届くかと思われる大菩提梯(ぼだいてい)ができ上ったのであると伝えられている。」
(身延町誌 第七節の一、口碑伝説)

身延界隈では「仁蔵」は佐渡の船頭で、偶然佐渡の金脈を発見した人、だと伝わっているようです。
ちょっと信じがたいですが、夢のある話ですね!


一方、身延山26世智見院日暹上人は、「仁蔵」に対し、実際にご本尊を授与しています。
この脇書には、「仁蔵」の正体に迫る記述があります。(脇書は漢文調、カッコ内は僕の現代語訳です。悪しからず…)
(身延山短大仏教文化研究所編「身延山諸堂記外」より引用)

「仁蔵法諱蓮心宗門無類信士其先但州之人也」
(仁蔵 法名蓮心は、宗門でも無類の篤信者、但馬の人)

「佐州金銀山之開基味方但馬守家政(※)之父也」
(佐渡の金銀山を開発した山師 味方但馬の父)
(※)味方但馬は名を「家政」とも「家重」ともいわれる。佐渡宗門では「家重」の方が一般的

「寛永九壬申春三月初吾山壇階之切石搆営重畳之砌」
(寛永9年3月初め、切石を積み重ねて身延山に石段を造るという大事業の際)

「投置一石者附与銅銭一百穴焉」
(一石を投げ置く者には銅銭一百穴を付与した)

「以郡郷雲如来役夫山如集不日成功」
(そのおかげで役夫が山のごとく集まり、日ならず完成した)

「畢况復塚原中興之大檀那也」
(大事業を終え、佐渡塚原中興の大檀那に戻った)



ここで味方但馬(みかたたじま)家重(=家政)について解説したいと思います。
(史跡 佐渡金山入口:味方但馬も開発した青盤脈にある)
味方但馬家重(元の名は村井孫太夫)は佐渡金山を開発した山師、いや大山師です!
もともと武家だった一族は、播磨国三方(今の兵庫県中西部)に拠点があり、味方姓を名乗ったようです。
播磨国には鉱山が多かったためでしょうか、いつからか鉱山稼業に転換、一族の中でも、味方但馬家重(以降 味方但馬と表記します)は山師としてのセンスが抜群で、佐渡奉行・大久保長安の招きにより、当時大金脈が発見されたばかりの佐渡に渡りました。


山師は鉱山の専門家であると同時に、企業家でもありました。
多くの労働者を雇い、坑内作業から選鉱、精錬、運搬まで、鉱山の仕事全てを、自分の資力と責任で経営していました。
(山師も立ち会う鉱脈の試掘:内閣文庫蔵「佐渡金山金掘之図」より引用)
大鉱脈に当たれば一夜で大富豪に、逆にひとたび落盤や水没でもあれば破産してしまうという、博打のような仕事でした。
(「山師」って言葉、ギャンブラーや詐欺師的な意味合いもありますよね!)


江戸初期、佐渡には40人以上の山師がいたようですが、味方但馬はその中でも一番稼いだ山師ではないでしょうか。
(水上輪による排水:内閣文庫蔵「佐渡金山金掘之図」より引用)
味方但馬最大の強みは排水技術の高さ。水没により他の山師が手放した坑道を再生させ、巨大金脈を開発します。


(史跡 佐渡金山内に展示される金貨)
最盛期にはわずか10日間で、今の価値にして十数億円分もの鉱石を掘り出したようです。
このうち3~4割を幕府に上納、すると幕府の財政も潤います。
そのため味方但馬は徳川家康に謁見を許され、このとき「味方但馬守家重」の名を頂戴した、といわれています。


(具足山妙覺寺山門)
一方、味方但馬の一族は、代々日蓮宗を信仰しており、京都妙覺寺を菩提寺としていました。自身も熱心な信者だったようです。

味方但馬は金山開発で得た莫大な富に溺れることなく、佐渡の日蓮宗寺院に軒並み喜捨し続けました。
まさに佐渡宗門を支えた大檀那、大功労者なのです!


(塚原山根本寺境内)
特に当時の佐渡根本寺住持は栴檀院日衍(えん)上人、本寺の京都妙覺寺から来島したというご縁もあったのでしょう、味方但馬は深く帰依、根本寺は彼一人の資力で、山容を一新することができました。


(根本寺祖師堂)
(築山は「布金壇」といわれる)
根本寺祖師堂は小高い築山の上に建立されていますが、「味方但馬は土を運んだ者には一簀(み)あたり銅銭一百穴を与えた」旨が書いてありました。
お!?このやり方、まさに菩提梯の工事と同じですね!


かなり話が逸れちゃいました。さきほどのご本尊の脇書に戻りましょう。

この脇書によれば、「仁蔵」は「味方但馬の父」と読み取れますが、調べると味方但馬の父である村井善左衛門は慶長8(1603)年に病没、また味方但馬自身も元和9(1623)年に亡くなっており、いずれも菩提梯建立を発願したといわれる寛永9(1632)年には既に鬼籍に入っています。
(フェリーから佐渡島を望む)
ちなみに味方但馬が佐渡に渡った時期は、大久保長安が佐渡奉行に就任した慶長8(1603)以降でしょうから、「仁蔵」が金山を発見し、巨万の富を築いたというのは、のちに作られた話ではないかと思います。


ちょっと気になるのは、菩提梯発願の年のわずか2年前、江戸城で身池対論が行われていることです。
寛容な路線を推し進める日暹上人など身延山と、あくまで不受不施を主張する日樹上人など池上との対論で、幕府は不受不施派を敗者とする裁定を下しました。
(具足山妙覺寺本堂)
これにより不受不施派の拠点はことごとく身延山側に接収されます。
特に味方但馬の菩提寺である京都妙覺寺は、不受不施派の祖・仏性院日奥上人を輩出したお寺でしたから、人事は慎重を極めたのでしょう、身延山21世を歴任された寂照院日乾上人が入っています。


味方但馬は佐渡金山の他にもいくつか鉱山開発をしていましたが、摂津国(今の兵庫県東部)の多田銀山もその一つでした。
多田銀山は能勢妙見山↓のすぐ近く、それこそ10km程しか離れていません。

古くから鉱山に携わる人々は、妙見様への信仰が強かったと聞きます。
天空の星々が地上に降って鉱物になる、と考えられていた時代もあったようです。


(妙見山の頂上付近に白い自衛隊のレーダー施設が見える)
そう、佐渡金山の近くにも妙見山↑がありますね!


(能勢妙見山境内の日乾上人像)
多田銀山にほど近い能勢の妙見山は、古来地元で信仰されていた星信仰を、寂照院日乾上人が法華経で勧請し直し、山頂に妙見大菩薩をお祀りしたのがルーツです。
なんか不思議!いろいろリンクしてきます。


(身延山歴代墓所にある日暹上人墓)
一方、さきほどの身延山26世日暹上人は、日乾上人からみれば弟弟子(身延山22世日遠上人)の直弟子という、ほぼ一枚岩の関係です。
味方但馬の人となりは、日乾上人から日暹上人へ、確実に伝えられていたと、想像します。


僕は「仁蔵」について、こう考えています。

金山を当てて巨万の富を築いたのは味方但馬。
彼は「仁蔵」こと父・村井善左衛門が抱いた壮大な夢「身延山菩提梯」を継承し、子々孫々、今後何代に渡ろうとも、完成させようと決意したのだと思います。
前人未踏の巨大事業、味方但馬は金山経営と並行して、工事の段取りを模索していたのでしょう。


そんな矢先、味方但馬は60才で亡くなりますが、息子の二代目味方但馬家次が遺志を継ぎます。

寛永5(1628)年に身延山に晋山した26世智見院日暹上人は、味方但馬代々の熱い思いを汲み、寛永9(1632)年、「仁蔵」という佐渡の住人の発願という形で、快く事業開始を了承した、ということだと考えています。
つまり「仁蔵」は、味方但馬の父から始まる代々の総称、とするのが自然だと思っています。


実は昨春、佐渡を訪れた時、僕は佐渡金山近くで生まれ育ったお上人2名に、菩提梯を造った「仁蔵」は誰だと思うか、興味があって聞いてみました。
(大佐渡山地:山塊左端の奥に佐渡金山がある)
いずれのお上人も「仁蔵」は味方但馬で間違いない、佐渡ではそう考えられている、という結論でした。
もはや僕の中では、味方但馬説で決着しています(笑)。



ちなみに佐渡相川の金山近くには、二代目味方但馬家次が父・家重の菩提のため、日衍上人を開山に迎えて建立した光栄山瑞仙寺があります。



ご住職に瑞仙寺本堂裏にある味方家先祖代々の墓地(※)を案内していただきました。今でも末裔の方が島の内外にいらして、墓参に訪れるそうですよ。
僕も合掌し、「仁蔵」さんに感謝の気持ちをお伝えしました。
(※)味方但馬代々の墓所は、京都妙覚寺にもあるようです。


菩提梯は造営からそろそろ400年。

歪みやズレは多少ありますが、まだまだ圧倒的な存在です。



半世紀前、あの煩悩だらけだった少年が、今やこうして「仁蔵」の思いに感応しながら登っているんですから、この石段は単なる巨大建造物でなく…そう、悟りへの梯(きだはし)なのかもしれません。



最後に後日談。


この3月、身延山参詣の折、菩提梯の採石場跡を訪問してきました。
身延山の北側、下山地区の山間に、ひっそりと遺されています。



大きな岩が数塊あり、注連縄で丁寧にお祀りされています。


直線的に開けられた矢穴が、当時の石工の仕事ぶりを想像させてくれます。

お題目を独特の調子で唄いながら、ノミを打ち込んでいたのかな。
こういう観光地化されてない遺跡、僕はホント、気分がアガります!



説明文には、菩提梯の工期が寛永9(1632)年から80年間と書いてありました。
あれだけの傾斜ですから、大雨とか地震で崩れたりもしたでしょう。
修復に修復を重ねて、安定したのが80年後、だったのかな?と考えます。


ところでこの採石場跡、味方但馬が関わっていたのなら、妙見様が近くにあるんじゃないかと思って現地に赴いたのですが・・・なんと!

採石場跡のすぐ上に、北辰妙見大菩薩をお祀りするお堂、妙見寺があるではないですか!!



これにはマジで驚きました。
身延町誌によると、法光山妙見寺は文亀11(1514)年の創立とありますから、菩提梯造営よりも前に存在していたことになります。 

まあ、オカルトでしょうが・・・意外とこういうの、あるんですよね!
やめられません(笑)。

明光山妙勝寺(岡山市北区船頭町)

2024-04-01 09:24:39 | 旅行
一昨年、2代目の愛犬が老衰で逝き、しばらく犬不在の日常が続きました。
犬がいない生活は、旅に出やすいなど、それはそれで快適だったのですが・・・やはり元来の犬好き、気付けばネットで3代目候補を探し始めてました。

そんな時、岡山で里親募集してる雑種犬(メス・1才半)に、妻がビビッときまして、昨年6月にわざわざ湘南から岡山まで対面しに行きました!



元野犬、相当警戒心が強いやつでしたが結局、情が移っちゃって、今は我が家で暮らしています。


今回は、その岡山の旅の途中で訪問した、宗門寺院を紹介したいと思います。


(JR岡山駅)
岡山市の人口は、驚きの70万人超!
お隣の倉敷市と合わせると、実に100万人以上が界隈に住んでることになります。




JR岡山駅からは市電です。
市電は2系統ありますが、清輝橋線で終点まで乗ります。



清輝橋駅から少し歩くと、旭川に至ります。
児島湾が干拓される明治まで、この辺りは河口に近く、人や荷物を載せた多くの舟が往来していたようです。



今回、参拝するお寺は、旭川沿いの船頭町にあります。
舟運時代が偲ばれる地名ですね!



妙勝寺に到着しました。
この辺りの地質なんでしょうか、敷石も砂利も、そして法塔もベージュ色です。



山門です。
控え柱のある薬医門です。


左右に立派な灯籠を配した本堂です。
備前法華のお寺、沢山のお題目で護られたお堂なのでしょう。

これまで妙勝寺を護持してくださった先師達に感謝し、合掌しました。
そしてあの保護犬と仲良くなれるようにという思いも、ちょい込めました!



山号は明光山(みょうこうざん)です。


庫裡でご住職に挨拶させていただきました。
話の端々にユーモアを挟むお上人で、さぞ面白い法話をされるんだろうな~、と思いました。
これから法事があるような雰囲気でしたが、ご首題など、快く応対してくださいました。ありがとうございました!



境内の中心には、鎌倉末期から南北朝時代にかけて大きな功績を残された大覚大僧正の、巨大な供養塔が立っています。


当時、京都より西はまだ法華未開の地でした。
日像上人の命を受け、単身中国地方へ赴いた大覚大僧正は、吉備国(今の岡山県)全域で布教を行いました。
(備前市邑久町から瀬戸内海を望む)
特に備前では、松田氏(備前守護職)の援助も得て、のちに「備前法華」という言葉までできるほど、篤信のエリアを作りあげたのです。



大覚大僧正が開創したと伝わるお寺は、岡山県だけで40ヶ寺以上もあるそうですが、妙勝寺はその中でもごく早い時期に開かれたお寺で、備前日蓮宗の始まり、とされるようです。


妙勝寺が開かれたのは、南北朝動乱の真っ只中、興国3(1342)年前後だと伝わります。
(南北朝の動乱:明治図書刊「歴史資料集」より引用)
この時代、朝廷が真っ二つに割れ、全国あちこちで内戦が起きていました。
南朝(後醍醐天皇方)に仕える武将・多田頼貞(よりさだ)は、本拠地の摂津国能勢郷を離れ、各地を転戦していましたが、伊予で北朝方に敗れてしまいます。


多田頼貞は残兵とともに備前に逃れます。
(妙勝寺境内で栽培される蓮)
幸いにも地元の豪族・阿比六郎熊城(くまき)が味方に付いてくれたため、網浜という場所にある彼の屋敷を拠点とし、ここで再興を期すことにしました。


ところが備前国のすぐ東隣は播磨国、敵(北朝)方である赤松氏の所領でした。

備前網浜に多田頼貞が潜伏しているという情報は、すぐに赤松軍に伝わります。巧みに間者(スパイ)を潜り込ませていたのです。
その上で赤松軍は大軍勢で攻め込んできたため(網浜の戦い)、多田軍は完敗、頼貞は自ら腹を割いて逝きました。


戦いの跡には、多田軍の屍ばかりが放置されていました。

ある日、旭川を舟で上ってきたお坊さんが、この屍を集めて荼毘に付し、お堂を建てて丁重に弔いました。

(京都妙顕寺奉安の大覚大僧正坐像:京都像門本山会刊「大覚大僧正」より引用)
このお坊さんが大覚大僧正で、お堂は「法華霊堂」と号されました。
のちに大覚大僧正の法孫によって寺号が附せられ、「妙勝寺」と称するようになったということです。
(夙外生著「大覚大僧正」:大正5年刊)


また他の文献には、自邸を砦にした阿比六郎熊城が、当地を布教に訪れた大覚大僧正に帰依し、自邸をお寺にしたという、別の縁起も書かれていました。
諸説あるようですね。
(妙勝寺境内の紫陽花)
ご住職によると、妙勝寺は岡山大空襲で焼き尽くされ、昔のものはほとんど残っていない、ということでしたから、真相は闇の中、ちょっと残念ですね!


大覚大僧正供養塔のすぐ右側、木に隠れるようにもう一本、石塔が立っています。

これは能勢修理頼吉の供養塔と伝わります。
能勢修理頼吉は、文献によって多田頼貞の家臣とも後裔ともいわれます。
詳細は不明ですが、現在の妙勝寺に残る唯一の多田氏遺跡、ということは確かなようです。


妙勝寺は岡山市内を南北に流れる旭川の西岸にあります。
対岸は「網浜」という住所ですから、戦はこの一帯であったと考えられます。
(旭川:対岸は網浜)
布教のために舟でやってきた大覚大僧正が、備前で最初に目にしたのは、凄惨な戦いの跡だったわけですね。
まさに地獄絵図の中、大覚大僧正は戦死者の霊を慰め、生き残った者には信仰を通じて心のケアを施した、それは間違いないことでしょう。


一方、最後まで後醍醐天皇に忠義を尽くし、圧倒的不利にもかかわらず勇猛に戦い、果てた多田頼貞に、敵(北朝)方の総大将である足利尊氏は感服したそうです。

頼貞の嫡男・頼仲(よりなか)は、能勢の旧領(摂津国)と、備前国17郷を安堵されました。そして姓を「多田」から「能勢」に改めた上で、代々足利に仕えたといいます。


時代は下り戦国時代、能勢氏は断絶の危機に陥ります。
(能勢妙見山参道の能勢頼次銅像)
当時の当主は能勢頼次(よりつぐ)。
明智光秀とは友好的な一方、その主君・織田信長とは敵対するという、とても微妙な立場でした。


そんな時、本能寺の変が起きるのです。
明智光秀の謀反により、信長は自刃します。

(本能寺夜討:香雨亭桜山著「絵本太閤記 真書実伝」より引用)

それからわずか11日後、首謀者の明智光秀は羽柴秀吉に打ち取られ、明智に加勢した能勢軍も、秀吉の大軍に敗れてしまいます(山崎の戦い)。


このとき、能勢頼次は数名の家臣とともに備前に逃れました。
能勢家の先祖にご縁の深い、妙勝寺です。
恐らくこの頃には、備前法華が地元で一大勢力となっていたことでしょう。
能勢頼次はここに身を隠し、彼らとともにお題目を唱えながら、再興の機をうかがったのです。
時代は繰り返すんですね!


のちに頼次は徳川家康に召し上げられ、関ケ原での活躍もあり、再び旧領を安堵されます。
ちなみに、頼次が時の身延山法主・寂照院日乾上人とのご縁によって、途絶されていた先祖代々の星信仰を、法華経でお祀りし直したのが、現在の能勢妙見山です。


北極星信仰の聖地・能勢妙見山の成り立ちに、間接的にではありますが、大覚大僧正や備前法華が関わっていたというのは、とても興味深いです。
(能勢妙見山内:石碑に刻まれた桐竹矢筈十字紋)
また「妙見山」という山や地名は全国にありますが、西日本、中でも岡山県に突出して多い、という話も聞きます。
真偽の程は定かではありませんが、西国における北極星信仰は、妙勝寺が大きなキーワードになるのかもしれません。
機会があったら掘り下げてみたいと思います。


話を妙勝寺に戻しましょう。
(空襲で焼け残った大覚大僧正供養塔)
太平洋戦争末期の昭和20(1945)年6月29日未明 、岡山はB29による大規模な爆撃に遭い、多くの死傷者が出ました。
市街地の実に7割以上が焼き尽くされ、残念ながら妙勝寺も灰燼に帰してしまいました。


そんな中、信徒の西村多吉さんご一家が、妙勝寺再興に尽力されました。

戦後の物資がない時代、家族で木材を運んで本堂を再建、のちに表門や鐘楼など、およそ現在の寺容を整備した、妙勝寺の大偉人です。



こちらはご一家の偉業を称える石碑です。



石碑裏面には
「敗戦後、敵国政策下ニ置カレ」「極度ニ悪化」してしまった「信仰」「道義」「思想」を「善導」するために、「大覚大僧正ノ遺徳ヲ慕ヒ」「旧本堂再建ヲ誓」った
と、刻まれていました。


もともとお寺は、祈りで心を清める場所であり、学びの場所であり、地域の人を結びつける場所でもありました。
信仰心の篤い備前の人々にとって、お寺はアイデンティティそのものだったかもしれません。


ふと、お祖師様のご遺文「崇峻天皇御書」の一節を連想しました。
(妙勝寺境内の日蓮聖人銅像)
「蔵の財(たから)より身の財すぐれたり 身の財より心の財第一なり」

戦後、多くの人が失いつつあった大切な「心」を取り戻すためには、まず本堂再建が必須と確信し、西村多吉さんご一家は力を尽くされたのでしょう。

一基の石碑から、大切なことを改めて教えられたような気がします。
備前法華衆の心意気を感じました。


ところで岡山出身の3代目犬、我が家に来てすでに8ヵ月が過ぎました。

当初なかなか人に慣れませんでしたが、食欲だけは旺盛、これを逆手に根気よく手なずけ、最近わずかずつ、心を開き始めました。

同時に体重も1割ほど、増えました。
妙勝寺の御利益もあったかな?

身延山大善坊(身延町身延)

2024-03-01 11:07:16 | 旅行
1月の20、21日で、身延山にある義父のお墓参りを計画していました。
(2024年1月21日の天気図:日本気象協会HPより)
ところが当日は南岸低気圧で雪模様の予報!
スタッドレス履いてないし・・・なかなかこういう機会もないよね!とポジティブに考え、電車で行くことにしました。


久しぶりの身延線。
富士駅から特急「ふじかわ」に乗って、ほぼ富士川沿いに北上してゆきます。


明治から大正にかけて、法華の篤信者である堀内良平氏、小野金六氏らが中心となって敷設した「富士身延鉄道」を前身とするJR身延線。

まだ鉄道そのものが認知されていなかった時代、地元の説得に、資金繰りにと奔走した彼らに思いを馳せるうちに、うつらうつらして・・・1時間弱で身延駅に到着!



幸い雪は降っておらず、小雨の中、義父の墓参ができました。
タクシーで御廟に行き参詣、そこから大善坊へ歩いてゆきました。



東谷参道には沢山の坊がありますね!
このうち現在、宿坊として営業しているのは7ヶ坊だと思います。



大善坊に行くには2つのルートがあります。
歩行者は窪之坊さん先の分岐を右へ、自動車はさらにその200m先を右に折れます。



歩行者道は往古からの参道なのでしょう、めちゃクラシックな碑があります。
※傾斜がきつい箇所があるので、荒天時は自動車道を歩くのがおすすめです。



覚林坊さんを過ぎると、突き当たりに大善坊があります。



朗らかな奥様が迎えてくれました。
宿帳に記入後、境内を歩きます。



グーグルマップで見ると、大善坊は寺平のお山の西麓にあります。



ちょうどこの真上に、さっきお参りした聖園墓地があるのだと思います。


まずは歴代お上人の御廟を参拝。
今日まで大善坊の法灯を継いでくださった先師たちに、心から感謝いたします。

大善坊の開山は、応仁の乱よりも古い長禄元(1457)年。
身延町史によると、大善院日邉上人がこの地に坊舎を建立し、隠棲したのがルーツだそうです。



この時代、日蓮門下では各門流が「我らこそ正当、正嫡だ!」と主張し、特に京都では将軍への諌暁など、実力を競っていました(※)
奇しくもこれが京都宗門に活力を与え、「題目の巷」といわれるほど法華信仰が広がりました。一方、比叡山など他宗から妬まれる原因ともなり、のちの天文法難の火種になります。
(※)そのため寛正7(1466)年、諸門が合同融和してやってゆこうという取り決め(寛正の盟約)がなされたほどでした。



一方、この頃の身延山はというと、「何等の変化もなく、守成し来れり」(身延山史)とあります。
辞書で「守成」を引くと「創始者の意向を受け継ぎ、その築きあげたものをより堅固なものとすること」だそうです。


(身延山歴代御廟:手前から7、8、9世墓石)
当時の法主様は7世日叡上人、8世日億上人、9世日学上人あたりでしょうか。
身延山史によると、日億上人と日学上人は俗兄弟、そして二人の師は日叡上人ということですから、地味だけど相当な安定政権、身延山は一枚岩の時代だったと思われます。


特に9世の成就院日学上人は、関東諸檀林を学び歩いた著名な学匠でした。
その上で、身延山は他と同じであってはならない、「行」も「学」も極めるための施設にしたい、という強い思いがあったようです。
(身延山歴代御廟:9世日学上人墓石)
日学上人のお弟子さんに鎌倉本覚寺を開いた一乗院日出上人がいますが、日出上人が将来の法器として手塩にかけて育てたのが11世行学院日朝上人、彼が実際に、身延山を行学二道の聖地に発展させてゆくのです。


(大善坊碑に刻まれた「日邉聖人」)
大善坊のルーツである大善院日邉上人も学僧だったといいますから、行学両道の基礎を造るべく、当時の法主様と尽力された方だったと思われます。


大善坊の名前が広く知られるようになったのは明治時代、ここに無料宿泊所「功徳会」が設立されてからでしょう。
(大善坊裏山から東谷を望む)
身延山史によると、明治39(1906)年、大善坊住職が「本堂下に老婆の枯死しているのを見て、無宿者の宿泊保護事業を志して、功徳会を創設した」とあります。


当時の身延山には、身寄りのない貧困者、周囲から忌み嫌われる難病を抱えた人などが多く参詣に訪れ、山内でいわゆる「行き倒れ」した人も少なくなかったといいます。
(明治15年頃の門前町:身延山久遠寺刊「身延山古寫眞帖」より引用) 
そういえば以前読んだ綱脇龍妙上人の伝記には、綱脇上人が初めて身延山を参拝した時の話として、身延川の河原に沢山のハンセン病患者が小屋を作って生活していて、その光景に驚いたと書いてありました。
今からはおよそ想像がつきませんが、それが身延山の日常だったわけですね。


当時の大善坊住職は、長谷川寛善上人。もともとは僧侶でなかったといいます。
眼の病気で視力をほぼ失い絶望していた時、眼病守護の神様といわれる「身延山の日朝様」のことを知人に聞き来山しました。
(覚林坊日朝堂の幟)
当時の覚林坊36世・正明院日温上人と出会い、感応したのでしょう。寛善上人はなんと出家得度し、覚林坊の隣地にある大善坊(当時は荒廃していたらしい)を任されることになったといいます。


そんな方ですから、弱者を見捨てることができなかったのでしょう。丸太小屋程度の無料宿泊所を設け、受け入れることからスタートしました。
(大正12年頃の大善坊前:身延山久遠寺刊「身延山古寫眞帖」より引用)
行路病者だけでなく、心の病を患う人、無一文の人・・・多少の例外はあっても、大多数は社会から追い詰められ、命がけでやって来た人達でした。



国の制度として社会福祉が始まったのは明治7(1874)年(※)、まだそんな頃ですから、周囲の理解が少なく、寛善上人は「乞食の親方」と揶揄されることもあったそうです。
(※)国による最初の救貧制度「恤救(じゅっきゅう)規則」制定


当初は寛善上人個人による「慈善事業」であったため、功徳会の財政はいつも火の車状態でした。
(昭和初期の功徳会:身延山久遠寺刊「身延山古寫眞帖」より引用)
しかし社会が徐々に成熟してくると、こういった事業にこそ公的な支援を!という機運が高まり、大正9(1920)年に山梨県から補助金が交付されるなど、寛善上人の善行はやがて「社会事業」として認知されてゆくのです。


(特養ホームみのぶ荘)
戦後、功徳会は養老施設として財団法人化され、大善坊境内から梅平に移転、経営も大善坊から離れ、現在は身延山が母体の「身延山福祉会」が事業を継いでいます。


(昭和8年の身延深敬園:身延山久遠寺刊「身延山古寫眞帖」より引用)
今回、調べものをしていて気付いたのですが、長谷川寛善上人の「身延山功徳会」と、綱脇龍妙上人の「身延深敬病院」は、偶然でしょうか、いずれも明治39(1906)年に始まっています。


明治政府は欧米列強に早く肩を並べようと、富国強兵、殖産興業をスローガンに強い国づくりを進め、表向きの繁栄はあったのでしょう。
(官営八幡製鉄所:明治図書「歴史資料集」より引用)
しかし一方で、そこからこぼれ落ちる人々がいて、せめての救いを身延山に求めてやって来た、そのピークが明治39年頃だったのかもしれません。
そんな時に目を背けず、弱者に手を差し伸べた長谷川寛善、綱脇龍妙両上人の姿に、宗教の原点を感じずにいられません。


それでは宿坊としての大善坊を紹介します。


こちらが坊の玄関です。



お数珠とか簡単な仏具を販売するコーナーもあります!



角の広いお部屋に案内していただきました。



障子を開けると、霧に煙る鷹取山が見えます。



独特のパターンで編まれている畳!
久々の電車旅で疲れていたため、大の字で仮眠をとりました。



床の間の掛軸にはお祖師様。
日朗上人と身延山頂を目指しているところ、でしょうか。
御軸を見るのも、坊に泊まるときの楽しみです。


奥様にお願いし、本堂で自主的にお勤めさせていただきました。

内陣に七面大明神のお像がお祀りされていました。
現在のご住職は以前、七面山の別当さんを担われていたからかもしれません。ちょうど東日本大震災の頃でしたから、その祈りも、本当に切なるものだったのでしょうね・・・。


ちなみに、僕の認識が間違っていなければ、現在のご住職は長谷川寛善上人の曾孫にあたる方だと思われます。

身延山久遠寺の要職も兼任されているため、さぞお忙しい毎日だと思います。法務を終えて夜、帰坊されてから、快くご首題を書いてくださいました。
弾けそうな笑顔が印象的なお上人です!


さあ、晩ごはんの時間です!

どれも美味しいですが、特に土鍋で煮た大根と、栗ご飯が特筆もんでした!
腹はち切れそう。



熱めのお風呂につかり、寝る準備OK!
お休みなさい。


翌朝(1月21日)、まだ結構な雨が降っていたため、奥様が甘露門まで車で送迎してくれました。

いつも通り朝勤は進みましたが、いつもとちょっと違う点がありました。

通常、導師の偉いお上人が、法要の最後に朝勤参加者に挨拶をされるのですが、その日は脇導師を務めていた大善坊のご住職が代読されていました。



続く祖師堂での法要も、偉いお上人は参加されず、大善坊のご住職が導師を代行されていました。
ん・・・どうしたんだろう?


なんて考えながら大善坊に戻ると、既に朝ごはんが並べられていました。

夕べあれほど食べたのに、朝もおかわりまでしちゃうから不思議。



洗面所はどことなく七面山敬慎院のそれに似ています。
ちなみにトイレはウォシュレット付き便座、快適です!



帰りの身延線に合わせてタクシーを呼び、大善坊をあとにしました。
お世話になりました!


夕方、自宅に戻り、PCを開いて驚きました・・・。
(2月1日付日蓮宗新聞1面)
いつも身延山のフレッシュな情報を発信してくださる「ゆる身延」さんから、この日未明に内野日総法主猊下がご遷化されたとの訃報が・・・。
報道各社が発信する前の情報、さすが「ゆる身延」さん、ありがとうございます。


さきほどの朝勤の違和感は、このためだったんですね。
(大善坊裏山から本堂域を望む)
そういえば大善坊のご住職は、数年前まで法主猊下の随身長(お付きの秘書的な役割)もされていたといいます。
悲しみはいかばかりでしょう。



それにしても法主猊下のお逮夜を、僕は偶然にも身延山で過ごしていた、不思議なご縁をいただいたと感じています。
法主猊下、長い間本当にありがとうございました。

これからも微力ながら、僕はこんな形で発信を続けたいと思います。

南無妙法蓮華経

廣普山妙國寺(堺市材木町)

2024-02-01 13:21:05 | 旅行
前回のブログ「方広寺大仏殿跡」では、豊臣秀吉が両親の菩提を弔うために催した千僧供養会、その招請を受けるか否かを巡って、宗門が大混乱したお話を書かせていただきました。

そもそも日蓮宗、宗祖のやり方を累々と継承するならば、今でも僧侶信徒全員が不受不施、布教も折伏中心だったはずです・・・。


宗門が現在の寛容なスタイルへと変化したのは、戦国時代の僧・日珖上人が一つのルーツだといわれています。
今回は、5年前に参拝した、堺妙國寺(日珖上人開山)の画像を交えながら、そのあたりのお話を書きたいと思います。


堺という地名は、「旧摂津国と旧和泉国、そして旧河内国の三国の境(さかい)に発展したまちであることから付いたといわれています。」(堺市HPより)とあります。
(堺市HPより)
市章もこの通り。「市」の字が3つ、ドッキングしてますね!



大阪天王寺と堺を結ぶ阪堺電車。




「妙国寺前」という駅名なんですね(※)
宗門寺院が駅名になっているのは、新潟村田の妙法寺以来です。
堺のお寺といえば妙國寺!って感じなんでしょう。
(※)寺名については、このブログでは「妙國寺」に統一します。



駅の近くにある伝統産業会館に立ち寄ってみました。



刃物、昆布製品、緞通(だんつう) という敷物など、堺の特産品がそのルーツとともに紹介されていました。


もともと奈良の外港として栄えた堺は、戦国時代、明(みん)やスペイン、ポルトガルとの貿易港として栄華を極めました。
(モンタヌス画『東インド会社遣日使節紀行』 に描かれた17世紀の堺の想像図)
ヒト、モノ、カネがどんどん集まるわけで「ものの始まり、みな堺」という諺(ことわざ)まであったといいます。


(堺の鉄砲鍛冶屋:「和泉名所図会」4巻より引用)
天文12(1543)年、種子島に伝来した鉄砲。堺は国内有数の鉄砲の製造拠点でもありました。
今でも堺と種子島は友好都市なんだそうです。


昔からそんなイケイケの町でしたから、武力で支配下に置こうとする大名たちに、常に狙われていたようです。
(環濠都市 堺:河合守清著「堺大絵図改正項目」より引用)
そこで堺商人たちは、町の周囲に濠をめぐらして傭兵を配置、さらに豪商が中心となって独自に町を運営していました。
こうして、いわば独立国のような都市を創り上げ、自由な交易を続けていたと、伝統産業会館の説明文に書いてありましたよ。

面白い~!堺は独特の町だったんですね!



それでは妙國寺に行ってみましょう。
妙國寺駅から東に300m位、歩きます。



昔の道標です。
「そてつ」とは、妙國寺の別名のようです。



妙國寺の門は西と北の2ヶ所です。



どちらにも菊の御紋が掲げられています。皇室の勅願所だったんですね。



日蓮聖人のご尊像に合掌。
聖人は比叡山ご遊学の際、聖徳太子に縁のある叡福寺(太子町)や四天王寺(大阪市)も訪れています。
ここ堺も歩かれた・・・かもしれませんね!



この辺りは和泉宗務所なんですね。


本堂です。
鉄筋とおぼしき二層のお堂です。

内部に宝物資料館がありました(拝観料が必要、撮影不可)。
やはり堺だけあって、海外の品、そして戦国武将ゆかりの品が沢山展示されていましたよ。


いただいた妙國寺の由緒によると、開山は戦国時代真っ只中の永禄年間(1558~1570年)とあります。
三好実休(じっきゅう:俗名・義賢あるいは之康)が、京都頂妙寺3世の仏心院日珖(にちこう)上人に、寺領とソテツを寄進したのが始まりだそうです。
(三好実休像:河内将芳著「日蓮宗と戦国京都」より引用)
四国阿波を本拠地とした三好氏ですが、一時は天下を狙える存在だったといいます。弱体化した室町政権乗っ取りの足掛かりとして、かつて堺を支配したこともあるため、堺には三好氏ゆかりの寺院が多いそうですよ。


一方、妙國寺開山の日珖上人は、地元堺の商人・油屋常言(じょうげん)の子として、天文元(1532)年に生まれました。
油屋は、当時希少な火薬や油も扱っていましたから、戦国武将たちにも重宝されたのでしょう。堺でも屈指の豪商だったようです。
(日珖上人像:河内将芳著「日蓮宗と戦国京都」より引用)
お兄さんが家業を継ぎ、日珖上人は堺頂源寺(のちの長源寺)の正法院日沾(にってん)上人のもとで出家しました。
幼い頃から類い稀な秀才といわれた日珖上人ですが、比叡山、奈良、京都で学び、わずか12才で(!)長源寺3世を継ぎます。まさに神童だったんですね。



また特筆すべきは神道についての深い知識で、後年「神道同一鹹味(かんみ)抄」という「日本書紀」の内容を説いた著作を発表しています。
日蓮聖人が書かれた「同一鹹味御書」になぞらえた題名じゃないかと思います。内容は僕にはさっぱり理解できませんが、いわゆる法華神道という分野では、ものすごく評価が高い論文のようですよ。


日珖上人の師匠は日沾上人、さらに日沾上人の師匠は妙国院日祝上人という方で、もともとは中山法華経寺のお坊さんだったんですが、応仁の乱で疲弊する京都にやって来て布教、有力者の帰依を得て文明5(1473)年、あの聞法山頂妙寺を開創するのです。
(聞法山頂妙寺 山門)
そんなご縁もあり、弘治元(1555)年、日珖上人は23才の時に頂妙寺3世として晋山します。


当時は群雄割拠の畿内、血で血を洗う戦に明け暮れ、常に死と紙一重だった三好実休が、日珖上人に深く帰依したのは、その数年後だと思われます。
堺に寺領を寄進した実休ですが、その直後、戦死してしまいます。
(堺妙國寺 「和泉名所図会」4巻より引用)
日珖上人は30才となった永禄5(1562)年、豪商である父や兄の外護により、本堂など伽藍を整備し、妙國寺を開山するのです。
ここに三好実休の遺志が果たされたわけです。
ちなみに妙國寺という寺号、師匠の師匠である日祝上人の院号からいただいているそうですよ。


↓これはウチの娘が中学生の時に使ってた歴史資料集(明治図書)に載っていた戦国時代の畿内勢力図です(赤が信長派、青が反信長派の大名)。

三好長慶(ながよし)は三好実休のお兄さんですが、青、反信長派ですよね。これ、意外と大事なポイントなんで、覚えておきましょう!


当時の関西宗門といえば、天文5(1537)年に起きた、いわゆる天文法難の痛手からやっと復興したところでした。

(具足山妙覺寺境内にある天文法難殉教碑)
天文法難は、洛中で折伏をもって急激に伸張する法華勢力を、比叡山はじめ諸宗連合軍が武力で洛外に追放した事件です。
宗門諸寺は焼き尽くされ、多くの命が失われました。
生き残った僧俗は、安全な堺の末寺に避難しましたが以後6年間、洛中での布教や、寺院再興は許されませんでした。実際には比叡山との和議が成立するまで10年間、京都に帰れなかったということです。


(妙國寺境内の狛犬)
この10年間というのは、計算すると日珖上人が5才~15才の時になります。
心身ともにボロボロになって京都から堺に逃れてきた法華僧俗たちを、ちょうど多感な年頃に、否が応にも目にしたわけで、これは堺出身の日珖上人に少なからず影響を与えたことでしょう。


実は日珖上人の前半生は、宗祖以来の強烈な折伏スタイルだったといわれています。それこそ時の支配者の信仰が、日蓮宗よりも劣っている的な、逮捕スレスレの説法をされていたようです。
(織田信長像:安土城案内より引用)
ところがその頃、京都に入った織田信長には、日蓮宗のこうした折伏主義が見過ごせなかったんでしょう。安土城下で行われた、日蓮宗と浄土宗との宗論に至るのです。
信長は浄土宗と事前に謀り、申し合わせどおり日蓮宗を負けに導きます。


この安土宗論、日蓮宗側の代表として臨んだのが日珖上人でした。
信長の命令によって「日蓮宗が負けました、今後他宗との宗論はしません」という証文を、泣く泣く書かされたのです。
(具足山妙覺寺には比叡山焼討の難に遭った華芳塔が奉安されている)
信長の仏教弾圧は苛烈で知られ、比叡山焼き討ちに象徴されるように、教団を全滅させる力さえありました。ましてや日珖上人は三好氏(反信長派)のお寺を開山したお坊さんなのです。
日珖上人はギリギリの判断で、宗門を存続させる道を選んだのでしょう。


ここでちょっと堺妙國寺の縁起に書いてあったお話を。

妙國寺のソテツは、ちょうど安土宗論の年、信長によって安土城に移植されてしまいます。「妙國寺のソテツ、前から欲しかったんじゃ。日珖が弱っている今なら!」と持ち去ったのでしょう。
(廣普山妙國寺縁起より引用)
ところが安土城では、毎夜そのソテツから「堺へ帰りたい」という声が聞こえるようになりました。激怒した信長が部下に命じてソテツを切らせたところ、切り口より鮮血が流れ、大蛇のごとく、のたうち回ったそうです。



さすがの信長も怖くなり、妙國寺に戻しました。
日珖上人は傷だらけのソテツを植えなおし、法華経一千部(!)を読んだところ、樹勢が回復したそうです。


このソテツに宿るのは龍神様で、日珖上人の夢枕に現れ、上人の善行に感謝したといいます。そして今後ずっと、妙國寺を守護することを約束しました。

この神様は宇賀徳正龍神として、境内のお社にお祀りされています。


話を戻しましょう。
(豊臣秀吉像:河内将芳著「秀吉没後の豊臣と徳川」より引用)
安土宗論からわずか3年後、本能寺の変で信長が自刃すると、代わって政権を握った豊臣秀吉は、日珖上人が書かされた詫び証文を「不当」として浄土宗から取り上げ、宗門の布教を許してくれます。



だから頂妙寺の仁王門に、宗門布教再開を許可したとされる書状が掲げられているんですね!



ところが当の日珖上人、この頃からスタイルを軌道修正し始めていました。
先述の「神道同一鹹味抄」では「開目抄」の一節を引用し、
「高祖も末法に摂受折伏あるべしと遊ばしたり。時処を見て弘むべき也」
と論じ、今は摂受の行が大切な時としたのです。


かねてから日珖上人は、妙國寺内に学室を設けていました。天文法難で堺に逃れた僧達を集めて、天台教学を講じていたのです。
ここで日珖上人の摂受スタイルは熟成し、教え子たちに受け継がれてゆきます。

「三光無師会」といわれるこの学室では、非常にレベルの高い教育がなされていたのでしょうね、のちの京阪本山貫首は、ほぼこちらの卒業生で占められることになるのです。例えば・・・
 一如院日重上人(京都本満寺)
 瑞雲院日暁上人(京都頂妙寺)
 功徳院日通上人(京都本法寺)
 仏眼院日統上人(堺妙國寺)
といったお上人方です。

彼らは堺で学んだため「泉南学派」といわれ、関西学派の母体になりました。


徳川家康が関東に拠点を移し、やがて江戸に幕府を開くと、京都諸山も関東に進出するようになります。
(身延山久遠寺の三門)
身延山には日重上人のお弟子さんが次々晋山、いわゆる「重乾遠」の時代を築き、不受不施が台頭していた関東宗門を変えてゆきます。


(正中山法華経寺の山門)
また当時不祥事が相次いでいた中山法華経寺貫首には、京阪の三山(頂妙寺、本法寺、妙國寺)が輪番であたることになりました(以降明治まで)。
そしてこの輪番の最初を担ったのも、日珖上人だったのです。


こうして今の宗門は、おおかた関西学派がベースとなっていったのです。
そうすると日珖上人って、宗門を語る上で欠かせない大偉人、ある意味ルーツみたいなお上人だったわけですね!
(日珖上人像:河内将芳著「日蓮宗と戦国京都」より引用)
慶長3(1598)年、中山12世であった日珖上人は遷化されます。
まさに戦国の世を映すかのような、激動の67年間でした。



妙國寺で戴いてきた縁起の表紙に「由緒寺院」と書かれていました。
日蓮宗ポータルサイトによると、由緒寺院とは「宗門史上 顕著な沿革のある寺院 」だそうです。

ブログを書きながら、「あぁなるほど!」と、唸らずにはいられませんでした。



最後に
1月21日、内野日総法主猊下が法寿九十九をもって、遷化されました。
衷心よりご冥福をお祈り申し上げます。

南無妙法蓮華経

方広寺大仏殿跡(東山区茶屋町)

2024-01-01 15:17:43 | 旅行
突然ですが、「京の大仏」って、ご存じですか?


かつて京都東山に、奈良の大仏をも凌ぐ、史上最大の廬舎那仏(るしゃなぶつ)坐像と、それを格護する巨大な大仏殿があったそうです。
(度重なる地震や火災で、残念ながら今は「跡」しかありませんが・・・。)
(昭和48年に焼失した4代目京の大仏:京都新聞社編集局編京の仏像 続」より引用) 
豊臣秀吉が天下統一した直後に落成した「京の大仏」ですが、皮肉にもこれが、日蓮宗門を激震させる大騒動の原因となってしまったと、別の調べものをしている時に知りました。


今回は大仏殿跡を巡りながら、その大騒動「不受不施論争」に、ほんの少し触れたいと思います。


ブログを書くにあたって、宮崎英修上人著「不受不施派の源流と展開」(平楽寺書店)という本を購入しました。
ともすればセンシティブな題材かもしれませんが、終始、偏ることのない視点で書かれており、知識のない僕でも自然に読み進められました。
宮崎上人は兵庫県の出石出身、不受不施派研究のみならず宗門史研究の第一人者だったそうです。平成9(1997)年に遷化されています。


大仏殿跡は鴨川の東、五条と七条に挟まれた辺り(地図中✕印)にあります。

(智積院前にある観光案内図:方角は上が東)
付近には国立博物館や三十三間堂、妙法院や智積院など、有名どころが密集しています。


(豊国廟鳥居:奥に見える山が阿弥陀ヶ峰)
このエリアの東方にそびえる阿弥陀ヶ峰には、慶長3(1598)年に逝去した豊臣秀吉の廟所があるそうです。


こちらは秀吉を祀る豊国神社です。

徳川幕府により、廟所とともに廃絶されましたが、明治時代になり再興されました。


(方広寺本堂:ちなみに山号はないそうです)
豊国神社の北隣に、天台宗の方広寺があります。
ここには日本史上、最も有名な梵鐘があります。


で、でかい!身延山の大鐘よりずっとでかい!
(方広寺鐘楼)
調べたら身延山大鐘楼の大鐘は高さ2.4m、対して方広寺の梵鐘は驚きの4.12m!
狭めの境内に対して鐘楼も巨大で、なんというか、現在の方広寺は「鐘のお寺」って感じです。



秀吉没後、秀頼が父の追善として鋳造した鐘です。


(「国家安康」「君臣豊楽」の銘 は白く囲ってありました)
銘文の「国家安康」「君臣豊楽」が大坂の陣の引き金になったといわれるものですね!


それでは方広寺や豊国神社に隣接する大仏殿跡に行ってみましょう。

平成12(2000)年に発掘調査された場所が、大仏殿跡緑地として開放されています。



敷石らしきものも、ちらほら。


(奈良東大寺大仏殿:現在は江戸中期に建立された3代目)
室町時代末期、奈良東大寺の大仏殿が幕府内の主導権争いに巻き込まれ焼失(大仏も被災)してしまう事件がありました。
以来、江戸中期まで復旧されず、鎮護国家のシンボルが不在の状態でした。


天正14(1586)年、前年に関白となった秀吉は、大仏を京都に建立しようと発願、諸大名の普請で大工事が始まりました。
(京の大仏殿境内の基礎となった巨大な石垣)
途中、朝鮮出兵などもあり工事は滞ることもありましたが、文禄5(1595)年5月に大仏殿が落成します。



(大仏殿跡の案内板より)
西向きに造られた大仏殿は東西55m×南北90m、で、その大仏殿は東西210m×南北260mの回廊で囲まれており、これがいわゆる境内だったと考えられます。


付近の案内地図に大仏殿の境内を入れてみると・・・

(智積院前にある観光案内図に加筆:方角は上が東)
こんな感じかな?
お隣の妙法院も組み込まれていたとか、三十三間堂もその一部だったとか、文献によって解釈は違いますが・・・まぁ、とにかく巨大、東大寺大仏殿をも圧倒する規模だったわけです。


(東山警察署大仏前交番)
当初、この施設に寺名はなく、単に「大仏」と呼ばれていました。
というかこの一帯を通称「大仏」と言っていたようで、近くの交番にもその名残りがあります。
「方広寺」という寺名は、奈良の大仏が再建された江戸中期以降に付けられたようですね。


(大仏殿跡の案内板より)
この大仏殿の歴史を辿るとかなり激動で、大地震や火災のために荒廃と再建を繰り返し、今は跡形もないんですが・・・このブログでは「初代 京の大仏」の落成までにとどめておきたいと思います。


(豊国神社拝殿の提灯)
大仏(殿)が落成すると早速、秀吉は自分の先祖と亡き両親追善のため、今後毎月、ここに仏教8教団からそれぞれ100人の僧を集め、千僧供養会(八百僧ですけどね!)を修することを決め、必ず出仕するよう各宗に招請状を出しました。


招請状を受け取った京都日蓮宗門は、騒然となります。
この招請に応じることは、宗門が古来堅守してきた不受不施義に反するからでした。
(具足山妙顕寺表門:当時の住持・日紹上人も当初は不出仕を強く主張した)
「不受不施義」というのは、教義と宗教生活の純正を守るために、
●僧は法華不信・未信者、謗法者からの布施供養を受けない→不受
●信徒は法華僧以外には布施供養しない→不施
というスタイルを、僧俗ともに貫くという意味です。


出仕するとなれば、法華信徒でない秀吉の依頼を受けて、他宗の僧侶と同座してお経を読む、法要後に秀吉からの食事供養を受けることになる。
これは明らかに宗制に背くことだが、秀吉のこと、出仕を断れば、京都宗門は破却されるかもしれない・・・。
(六条の大光山本圀寺跡:現在は山科に移転)
早速、本国寺(現在の本圀寺)に京都諸本山が集まり、深刻な議論を闘わせました。


時あたかも天文法難や信長による日蓮宗弾圧を経て、宗門がどん底からやっと立ち直ってきた矢先のことです。
(聞法山頂妙寺仁王門「秀吉公台命」扁額:安土法難後の宗門布教を約束した証)
安土宗論(※)で日蓮宗が不当に書かされた詫び証文を、秀吉は浄土宗側から取り上げ、京都での布教再開を後押ししてくれた恩もありました。
宗制を破るのは極めて不本意だが、天下人の秀吉だけは例外にしようという、現実的な意見が大勢を占めました。
(※)天正7(1579)年、信長が安土城下で行なわせた、浄土宗と日蓮宗の法論。敗れた日蓮宗は詫び証文を書かされる等、厳しく処罰された。日蓮宗の勢力を嫌った浄土宗と信長が結託した、計画的な弾圧とされる。 


そんな中、妙覚寺の仏性院日奥上人と、本国寺の究竟院日禛上人は、いかなる理由であろうとも出仕すべきでない、不受不施義は守る、と敢然と主張したそうです。

ここで日奥上人、日禛上人のプロフィールを書かせていただきます。
(具足山妙覚寺大門:徳川の時代になり、聚楽第の裏門を移築したという)
日奥上人は京都の豪商の家に生まれ、10才で妙覚寺18世・実成院日典上人の門に入り、研鑽を積みます。真面目で努力家の日奥上人を、師匠の日典上人は全力で教え導きました。日奥上人もその期待に応え、28才で妙覚寺19世を継承します。


この時代の宗門は、世の中の変化に寛容に対応する関西学派と、宗祖以来の伝統的折伏主義で他とは相容れない関東学派、この二派に分かれていました。
ちなみに当時の身延山は、関西学派の流れを汲む法主様が続きましたから、関東にあって関西学派でした。
(具足山妙覚寺方丈の屋根瓦)
逆に妙覚寺は、京都にありながら昔から関東との交流が深く、師匠の日典上人も若い頃に関東諸山で教学を究め、帰洛後に妙覚寺貫首に就いたようです。


日典上人がバリバリの関東学派なわけですから、弟子の日奥上人が不受不施義を貫くのも、師匠の影響が大きいのでしょう。

(左が方広寺大仏殿、右に仁王門、奥に三十三間堂:梵氏祐祥著「京都社寺境内版画集」より引用)
日奥上人は、大仏が落成すれば必ず法会が催され、宗門は大混乱するだろうと予想し、大仏造営中から建立が成就しないよう、密かに祈願までしていたといいます。
日奥上人だって本当は波風を立てたくなかったのです。


一方、日禛上人は広橋家という公家の出身でした。
(山科・大光山本圀寺境内より)
学問の才覚は抜群、また人望もある方だったのでしょう、わずか18才で本国寺16世を継承、本国寺内に学室(求法院檀林)を開くなど、名声を轟かせます。


(旧飯高檀林歴代化主御廟にある蓮成院日尊上人墓石)
また飯高檀林を創り上げた教蔵院日生上人、蓮成院日尊上人とも親交が深かったことから、関東学派のスタイルも十分理解していたと考えられます。


日禛上人の直弟子の一人に、豊臣秀次公の母・ともさん(秀吉の実姉)がいます。
(村雲御所瑞龍寺本堂内にある豊臣秀頼公銅像原型)
一時は秀吉の後継者に指名されながら、秀頼誕生を機に、秀吉から謀反の嫌疑をかけられた豊臣秀次公は、28才の若さで高野山で自害に追い込まれ、子女妻妾まで一人残らず処刑されてしまいます。


(村雲御所瑞龍寺山門)
悲しみのどん底にいたともさんは、日禛上人のもとで得度して日秀尼となり、嵯峨の地に庵を設け、生涯秀次公一門の冥福を祈りました。
今の村雲御所瑞龍寺のルーツです。


(東山・妙慧山善正寺にある瑞龍寺歴代御廟:中央が日秀尼の墓) 
天下人の横暴により悲嘆に暮れている人が、自分の直弟子にいるということも、日禛上人が今回の千僧供養会不出仕の立場を貫き通したことに、少なからず影響したと僕は思います。


話を戻しましょう。
(六条御境の碑:現在は西本願寺、かつて一帯が本圀寺だった)
会議は紛糾し、なかなか結論が出ませんでしたが、最終的には「千僧供養会に一度だけ出仕して秀吉の面目を立て、次回からは不受不施義を主張する」という決定を下し、日奥上人と日禛上人の主張は押し切られました。


日奥上人と日禛上人は「一度でも出仕したら宗義に背くことになる」と、この決定に迎合せず、あくまで不受不施義を貫く姿勢を変えませんでした。
(京の大仏殿境内の基礎となった巨大な石垣)
ただそうなると、彼らが率いるお寺の衆徒や檀那も、断罪される恐れさえあることから、日奥上人は妙覚寺を退出して丹波小泉に、日禛上人は本国寺を退出して嵯峨小倉山に隠棲しました。
地位や名誉よりも、宗義を貫くことを選んだわけです。


千僧供養会は予定通り、同年9月25日から始まり、毎月毎月、欠かさず行われました。

(2代目大仏殿:「東山名所図会」京都府立京都学・歴彩館 デジタルアーカイブより引用)
当初、一日を時間で区切り、①真言②天台③律④五山(禅)⑤日蓮⑥浄土⑦時⑧一向(真宗)の順番で、各100人の僧が法要をやり続けるというものです。
ただこの順番に不服を唱える宗も続出し、あと法要を受ける側も飽きちゃうからかもしれませんが、秀吉没後は毎月一宗のみが出仕する、というスタイルに変わりました。


(妙法院表門)
会場は、秀吉がこのために大仏近くに誘致した天台宗南叡山妙法院(もとは祇園にあったそうです)の経堂、


(改修中の妙法院庫)
そして法要後に出仕僧に食事の供養があるのですが、この食事の準備は現在の妙法院庫裡でされました。
国宝指定されている庫裡は、現在改修工事中ですが、当時のかまど跡が地中から発掘されたそうですよ!


(妙法院土塀)
当初、日蓮宗は「一回だけ出仕」のはずでしたが、結局上奏できず、秀吉没後まで継続して20年間も(!)出仕し続けることになります。


一方、日奥上人と日禛上人のスタンスは、信条を貫き、権力に媚びなかったとして、実は当時の在家信者、そして関東諸山から圧倒的な賛同を得ていたとも言われます。
(豊国神社境内の豊臣秀吉像)
こうした宗内の亀裂は、豊臣政権からすれば好都合、手を出さずに敢えて放置したようです。


政権が豊臣から徳川に代わっても、日奥上人や関東諸山の主張は微動だにせず、宗内の対立はより深まってゆきました。
最終的には江戸幕府が介入し裁定(身池対論)、不受不施義そのものが邪義、禁教となります。
(身池対論が行われた江戸城跡:現在の皇居二重橋)
日奥上人は既に遷化されていましたが、見せしめなのでしょう、掘り返された遺骨が対馬に流され、関東学派の拠点となっていたお寺はことごとく、関西学派に接収されてしまいました。


行き場を失った関東学派の僧俗は、キリシタンとともに幕府から徹底的な弾圧を受け、断食、自害、流浪して亡くなる方も多かったようです。それでも信仰する者は、地下に潜伏、信仰の自由が保障される明治時代まで、命がけで信仰を継いだといいます。


現代、日蓮宗を信仰する僕には、どちらの道が正しかったのか・・・本っ当に答えが出せません。
関西諸山がこぞって宗義を優先し千僧供養会への出仕を拒否していたら、日蓮宗そのものが存続できなかった可能性が高いと思います。
(具足山妙顕寺本堂の屋根)
関西、特に公武の中心だった京都の諸山は、天文法難や安土宗論などの弾圧を経て、強硬一辺倒で突き進む怖さを、身をもって知っていたはずです。
古来からの宗制を主張しすぎず、ギリギリのところで妥協することで、生き残りの道を模索し続けた彼らの決断を、批判しようがありません。


一方、信仰の純粋を守るために、命の危険も顧みず、権力に対峙し、時代の流れに抗った方々がおられたことを知り、本当に心が震えました。
(身延山歴代御廟所にある第46世復歴・日唱上人墓)
僕は各地のお寺を参拝する時、歴代お上人の御廟をお参りするようにしています。
その中で、かつて不受不施義を主張し、あるいはそれを疑われて、お寺の歴代を除歴とされたお上人方のお名前を、目にすることが度々ありましたが、実はこのブログでは、敢えて触れずにいました。


今回、方広寺大仏殿跡を訪問、また宮崎英修上人の著書を読み、少し、考えが変わりました。
(大仏殿跡緑地)
純粋に、そして頑なに不受不施義を貫こうとした僧俗、逆に時の権力に対応しながら、後世に教団を残そうとした僧俗の歴史は、いずれも決してアンタッチャブルではなく、むしろ現代の日蓮宗信徒こそ、もう少し知っても良いのかな、と。


激流に揉まれながら石が丸くなってゆくように、現在の宗門は本当に寛容な教団になりました。硬軟両派の、辛苦の産物なのでしょう。
ならば是非、彼らのことを記憶に留めたうえで、今日、当たり前のようにお題目を唱えられる幸せを、感じてほしいと思いました。

南無妙法蓮華経

深草山寳塔寺(伏見区深草宝塔寺山町)

2023-12-01 14:58:10 | 旅行
深草にある日像上人のお寺、寳塔寺を参拝してきました!


深草丘陵の西麓に広がる地域、その昔は一面に草が生い茂り、そのため「深草」と呼ばれたようです。

深草は京都盆地の中でも、いち早く稲作が始まった場所でした。
そして穀物、農耕の神様として「伊奈利社」が鎮座されたのです。
今の伏見稲荷大社のルーツですね!
今やパワースポットとして、世界中から参詣者が絶えません。


寳塔寺は伏見稲荷のすぐ南側にあります。
(JR奈良線)
JR奈良線の稲荷駅からも、京阪電車の龍谷大前深草駅からも近く、アクセスは抜群です!



山門が見えてきました。
寳塔寺の入口ですね。



大きな石柱に、日像上人の御廟所である旨が刻まれています。


裏側に回ると、

お?大阪の川端半兵衛さん・・・見覚えのある名前だぞ。
ん~と・・・誰だったっけ?



室町中期と伝わる山門をくぐり、参道を進みます。


寳塔寺境内は背後にそびえる七面山(標高101m)の西側斜面に広がっています。
画像からも、緩やかな傾斜を感じてもらえると思います。
白壁の合間に、たくさんの塔頭寺院があります。
数えたら6ヶ寺もありました。



本堂域の直前にあるのは、朱塗りの仁王門です。
宗紋の大提灯といい、華やかですね!



仁王門の天井には牡丹の花がたくさん!
日像上人の後継者・大覚大僧正の出自は近衛家説が有力ですが、牡丹の天井画は近衛家の家紋(近衛牡丹)に関係あるの・・・かもしれません。



山号は深草山です。



本堂です。
間口が広いので、大法要も開けそうです。


寳塔寺の伽藍群は、室町時代の戦乱(応仁、天文法華)でほぼ燃え尽き、その後に再建されていったようです。

この本堂は慶長13(1608)年再建といいます。
ただそれ以降、火災に遭わずに現在に至っているって、素晴らしいですよね!



こちらの多宝塔は更に古く、永享10(1438)年の墨書きが残っていることから、戦乱でも焼けずに今に至る、京都でも最古級の多宝塔だそうです。



方丈で優しそうな奥様にご挨拶。
ご住職は法務でご不在でしたが、書き置きの御首題を戴くことができました。



歴代お上人の御廟に参拝。
墓誌には第48世までのお上人が刻まれていました。
日像上人の御廟を擁する大寺、今日まで護持するには、歴代大変なご苦労があったことでしょう。心から感謝致します。


縁起によると、もともとこちらには平安時代の公卿・藤原基経公(初代関白)の発願で創建された極楽寺(天台宗→真言律宗)があったようです。
(開山二世良桂律師、中興八世日銀上人の頌徳碑)
徳治2(1307)年、1回目の洛外追放に遭った日像上人が、極楽寺の住職・良桂律師と三日三晩問答し、破折しました。
これを機に、良桂律師は日像上人に帰依し、極楽寺も法華経に改宗したといいます。
なので、寳塔寺開山は日像上人、良桂律師が二祖となります。


いろんな資料を読んでゆくと、この問答、日像上人が鶏冠井の向日神社前で布教している時に、法論に及んだという説が有力なようです。
(鶏冠井にて、深草良桂上人、実眼上人が帰依する様子:京都本山妙覺寺刊 日像菩薩徳行絵伝より引用)
時あたかも二度の元寇を経て鎌倉幕府が衰退し、不安渦巻く世の中。
大寺の住職でさえ、自分の信仰に実は納得しておらず、日像上人の説法に足を止めたのでしょう。



境内からは伏見の街、その向こうに西山の山並みが見えます。
あの麓あたりに、鶏冠井があるんですね!



客殿前には貴人がくぐりそうな高麗門。



で、手前の石灯籠には、また川端半兵衛さんだ!

・・・そうだ、思い出した!
僕は身延山久遠寺に参拝する際、まず御真骨堂と開基堂にお参りするのがルーチンなんですが、その開基堂前の石灯籠↓

裏側に、川端半兵衛さんと刻まれていました。


昭和60(1985)年、身延山久遠寺に大本堂ができる前、あの場所には本師堂という、釈尊立像(※)を奉安するお堂があったそうです。
(久遠寺本師堂:身延山久遠寺刊 身延山古寫眞帖より引用)
身延山史には、昭和初期、本師堂の修繕にあたって、「兵庫県の本願人 川端半兵衛夫妻は、仏壇仏具の荘厳や石灯籠にいたるまで、独力をもって寄進した」と記載がありました。
(※)四條金吾頼基公造立、現在は釈迦殿に奉安されている


後日、川端半兵衛さんについて寳塔寺のご住職に問い合わせると、丁寧に教えてくださいました。
代々の大坂商人であり、法華篤信の家系であった川端半兵衛さんは、寳塔寺に深いご縁、信仰があった、いわゆる大檀那的な存在のようです。

寳塔寺本堂にお祀りされているお釈迦様のお像は、川端半兵衛さんが久遠寺本師堂のお像と同寸同形に作らせたもので、昭和4年に寳塔寺に寄進されたといいます。
また、川端半兵衛さんご自身は昭和33年に逝去されますが、ご遺骨は一族とともに寳塔寺墓所に納められているそうです。
こういった方々の丹精のおかげで、現在の宗門があるのでしょう。感謝に堪えません。


本堂左側から日像上人御廟、そして七面宮に至る参道があります。

この辺りから、空気がシュッとしてきます。



日蓮聖人のご尊像や三十番神堂をお参りしたあと、鳥居をくぐり、森に囲まれた階段をさらに登ってゆきます。



急に視界が開け、妙見様、お稲荷さんなど、数棟のお堂が現れます。


このうち一番大きなお堂が七面宮です。

こちらに奉安されている七面様のお像は、寛文6(1666)年のものといいます。
身延山・高座石での七面大明神伝説を初めて記した深草元政上人(1623~1668)ご在世と一致しますから、こちらの七面様には元政上人が大きく関係しているのかもしれません。



ちなみに、妙顕寺で出家し研鑽を積まれた元政上人が、子弟を教育するために設けた深草山瑞光寺↑は、寳塔寺のすぐお隣にあります。


それでは日像上人の御廟に向かいましょう。
七面宮が山頂付近だとしたら、山の中腹に御廟域があります。

奥のお堂が像尊本廟、つまり日像上人の御廟です。



遥拝所まであります!
石の上に正座して、上人の遺徳に感謝しました。


御廟域には、日像上人が13才、経一丸時代の坐像があります。

弘安5(1282)年10月11日、ご入滅が近い日蓮聖人に頭を撫でられ、帝都開教のご遺命を受けているお姿だそうです。


(宗祖の御棺前で日朗上人に剃髪される経一丸:京都本山妙覺寺刊 日像菩薩徳行絵伝より引用)
10月13日朝、日蓮聖人は入寂されますが、翌14日、御棺の前で(!)経一丸は師匠の日朗上人に剃髪され得度、肥後阿闍梨日像と改名します。


日像上人は宗祖13回忌を機に上洛、40年間もの艱難辛苦の末、「妙顕寺を勅願寺とする」という後醍醐天皇の綸旨を賜ります。
(具足山妙顕寺の表門)
ここに日蓮聖人との約束、帝都開教を果たし、ついに日蓮宗が天下公認となったわけです。
このとき日像上人は既に66才になっていました。


康永元(1342)年、74才となった日像上人は、後事を大覚妙実上人に託します。
(妙顕精舎にて遷化される日像上人:京都本山妙覺寺刊 日像菩薩徳行絵伝より引用)
「没後、妙実を視ること、吾を視るごとくせよ」という言葉を、妙顕寺衆徒に伝えた2日後、11月13日に日像上人は化を遷されました。


生前、日像上人は常々、自分が死んだら、深草で遺体を荼毘に付し、山腹に葬ってほしいと話していたそうで、弟子信者たちがその通り、丁重に弔ったといいます。

寳塔寺参道、塔頭寺院に囲まれた場所に、日像上人御荼毘処が残っています。


日像上人の御廟が定まると、寺号をそれまでの「極楽寺」から「鶴林院」としたそうです。
(高麗門に掲げられた鶴紋)
お釈迦様がご入滅された時、沙羅双樹(さらそうじゅ)というお釈迦様とご縁の深かった木が、悲しみのあまり鶴のように白くなった、という伝説が転じて、鶴林院は日像上人の墓所、恩に報いる場所を意味するのでしょう。


御廟の墓標には、日像上人ご染筆の題目宝塔が用いられており、これにちなみ、のちに寺号が「寳塔寺」となりました。
(七口題目石の前で、草刈籠に座って説法する日像上人:京都本山妙覺寺刊 日像菩薩徳行絵伝より引用)
この宝塔は日像上人が若い頃、都の七つの出入り口(※)にわざわざ建てたもので、いわば「南無妙法蓮華経」を、可能な限り大衆の目にさらす戦略、布教塔だったと考えられます。すごい熱意ですよね!
(※)京の七口:鞍馬口、粟田口、伏見口、東寺口、丹波口、大原口、長坂口・・・諸説あり


また、日像上人御廟が寳塔寺にあることに倣い、妙顕寺の歴代御廟もこちらにあります。

妙顕寺のお上人が毎月お掃除にいらしているそうです。よく清められていました。


深草山寳塔寺は、妙顕寺からみて南東、つまり巽(辰巳)の方角にあたることから、「巽之霊山」と呼ばれるそうです。
(像尊本廟 屋根の頂部)
古くから巽(辰巳)は、縁起が良い方角とされました。


僕は巽(辰巳)と聞いて、二つ、連想することがありました。

一つは日像上人の師・日朗上人の御廟です。
(鎌倉・妙法華経山安国論寺境内の日朗上人御荼毘所)
日朗上人は元応2(1320)年1月21日に遷化されますが、上人の遺骸は遺言通り、鎌倉松葉ヶ谷で焼かれ、その裏山に葬られました。


(鎌倉・長興山妙本寺の祖師堂)
日朗上人が終生大切にされた住坊は、鎌倉比企ヶ谷にある長興山妙本寺ですが、ここは日像上人にとっても、自身が出家したお寺であり、数多の修行を重ねてきた、いわば聖地でした。


そして日朗上人御廟(現在の逗子・猿畠山法性寺境内)は長興山妙本寺から見て、まぎれもなく巽(辰巳)の方角に位置するのです。
(逗子・猿畠山法性寺境内の日朗菩薩墳墓霊場)
日朗上人が遷化された年、日像上人は翌年に3度目の洛外追放、そして妙顕寺開創という、帝都開教の今後を左右するほどの岐路にあり、どうしても京都を離れることができなかったと考えられます。葬儀には代理で妙実上人を遣わせました。
後日、妙実上人から葬儀の報告を、涙ながらに聞いたことでしょう。
師がいかに今生を終ったのか、日像上人はそれを自らの最期に投影した、そんな気がしてなりません。


もう一つは、お祖師様のご遺文「種種御振舞御書 」に記された、龍ノ口法難の部分です。

「江ノ島の方より月のごとく、光りたる物まりのやうにて、辰巳の方より戌亥の方へ光渡る」

(9/12深夜、片瀬・寂光山龍口寺の七面堂に至る階段上より、巽の方角を撮影)
暗闇の中、ひとり死の淵に置かれた日蓮聖人を救った光り物は、巽(辰巳)の方角から現れたのです。


孫弟子の日像上人も、「巽(辰巳)から現れる吉兆」というものに、何か深い信仰があった、というのは邪推でしょうか。
(寳塔寺本堂)
諸宗の讒訴によって京を追われ、洛外で一心不乱に説法していた若い頃。
誰も知る人がいない、石や瓦まで投げつけられる四面楚歌のなか、深草のお坊さんは、そんな自分に共鳴してくれた。

暗闇の中に見つけた一条の光。あれが起点だった・・・。



激動の生涯を過ごした日像上人が、自らの墓所を敢えて深草、妙顕寺の巽(辰巳)にした理由、僕はなんとなく、理解できました。


このブログを書いている只中、日像上人の第682遠忌、祥月命日 を迎えました。
11月とは思えない暖かい日和、南東の風がゆる~く吹いていました。

南無妙法蓮華経。


※川端半兵衛さんと寳塔寺さんとのご関係について、丁寧にご教示くださったご住職に、この場を借りてお礼申し上げます。ありがとうございました。