
(日蓮聖人聖語カレンダーより)
2月16日は日蓮聖人のお誕生日でした。
今年でご降誕804年だと思います。

(誕生寺近くの小湊漁港)
日蓮聖人はご自身の出自を
「日蓮は安房の国 方海の 海人が子なり」(本尊問答抄)
と遺されています。
つまり小湊片海(かたうみ:今の鴨川市東部)で、海人(あま:漁師)を生業とする家に生まれた、ということです。

(善日麿誕生を喜ぶ貫名重忠公:堀内天領画集「日蓮聖人の生涯」より引用)
日蓮聖人のお父様は貫名重忠公、もともと遠江国貫名(現在の袋井市東部)の出身でしたが、源平の合戦で平氏に味方したことが原因(※)で鎌倉幕府から睨まれ、安房国小湊に流されたと伝わっています。
(※)貫名山妙日寺の説明板より。諸説あり。
貫名重忠公は正嘉2(1258)年に亡くなり、遺言により先祖からの地・遠江国貫名に葬られました。のちに日蓮聖人のお弟子さんが当地に貫名山妙日寺↓を建立しました。

こちらには7年前に参拝させていただきました。
お祖師様の家系を知ることができて、とても満足した覚えがあります。
ところが人間とは欲深いもので、貫名重忠公のさらにご先祖様を知りたくなるのです。
日蓮聖人という強烈なカリスマのルーツはどこにあるのか?誰まで辿れるんだろうか?

(佐渡日蓮聖人大銅像)
法華経の普賢菩薩勧発品第二十八に「少欲知足」(欲を少なく、足るを知る)という教えがありますが、この際一旦スルーさせていただいて…今回は自分の好奇心を満たすべく、貫名家のさらに先を探しに出かけました。

(井伊谷川)
浜名湖の北東沿岸(※)には、幾筋かの川に浸食されてできた、大きな谷があります。
(※)行政区の再編(2024年4月)により浜松市北区→浜松市浜名区に変更されました

(浜松市地域遺産センター展示より引用)
井伊谷(いいのや)です。

奥に見えるのは標高467mの三岳山。
谷あいに田んぼが広がる、長閑な風景です。
昨年放送されていた大河ドラマ「光る君へ」。
当時の帝・一条天皇は、許されぬ愛に突っ走っていましたね!

(一条天皇と定子:NHK「光る君へ」ホームページより引用)
ドラマには出てきませんでしたが、この一条天皇の近臣に藤原共資(ともすけ)という人がいたようです。
藤原北家、あの藤原鎌足の12代後だそうですから、相当な家柄の方だと思います。
正暦元(990)年、勅命により藤原共資は遠江国の国司として下向することになり、浜名湖に突き出た庄内半島、その突端の村櫛(むらくし)に築城して暮らしました。

(Google earthに加筆)
当時、遠江国には皇室直轄の領地がいくつもありました。
皇室の財政に直結するわけですから、遠江国の国司は重職だったといいます。
それだけ共資は、天皇からの信頼が厚い人だったと想像できます。

ただ、共資には世嗣となる男子がいませんでした。
それまでに男子を二人授かりましたが、いずれも早逝しています。
そのため共資は居城から20kmも離れた渭伊(いい)八幡宮(※)に毎月参拝、どうか良い後継者を授かるようにと、祈願していたのです。
(※)井伊谷の総鎮守
寛弘7(1010)年の正月元旦、恒例の渭伊八幡宮参拝を済ませた共資は、御手洗(みたらい)の井戸(※)で、元気に泣く男の赤ちゃんを見つけました。

いわゆる捨て子なのか、あるいは意図的に置き去られたのかはわかりませんが、共資はその子に何か感じるものがあったのでしょう、自分が引き取って後継ぎにしようと決意します。
(※)御手洗とは今の手水舎、つまり神仏を拝む前に参拝者が手や口を洗い清める場所
男の子は「共保(ともやす)」と名付けられました。

共保が発見された井戸は、今でも田んぼの真ん中に、白壁に囲まれて保存されています。

玉垣に囲まれた石の井桁です。
で、その右には大きな橘の木がありますね!
共保が発見された時、その誕生を祝うかのように、井戸の傍らに橘の花が一輪咲いていた、と伝わっています。
柑橘類の花はふつう5月頃開花します。正月だと相当季節外れですが、いわば奇瑞(良いことの前触れとして起こる不思議な現象)だったのでしょう。

僕が訪れたのも1月末、もちろん花はありませんでしたが、果実は沢山なっていましたよ!
橘は、不老不死とか魔除けの意味があるスピリチュアルな果実として、古くから大切にされたそうです。京都御所にも植えられているし、3月3日の雛飾りにも、右近橘と左近桜が飾られますよね!

(我が家の雛飾り:あれ?右近橘に花も実も付いている!)
そうそう、聖徳太子の出生地にも、橘の木があったということです(今その場所は天台宗の橘寺になっているそうですよ)。

(井伊谷宮には「まゆ玉」が飾られていました)
その昔、子供は親元から離し、お寺で育ててもらうと、強い子に成長するといわれていたからでしょう、井戸で保護された共保は、渭伊八幡宮の神主夫婦、そして隣接する地蔵寺(恐らく昔は寺社一体だったと思います)の和尚に預けられ、大切に育てられました。
武道にも学問にも優れた共保の噂は京に上り、藤原一族の間でも話題になるほどだったといいます。

(井伊共保の居城であった井伊谷城跡)
やがて共保は元服し、養父・共資の次女(※)と結婚します。
のちに共資から家督を継ぐと、共保は渭伊八幡宮裏の小高い丘に城を築き、こちらに土着するのです。
(※)次女ですが名は「長子(ちょうし)」。共保よりも2才年上。
このとき初めて自らの姓を「井伊」と名乗ったそうです。
「渭伊」八幡宮の「渭」を「井」に変えたのですね!

渭伊八幡宮はもともと井戸の付近にあったようですが、のちに1kmほど北に遷座され、現在もよく清められています。

(井伊八幡宮の説明板より)
そもそも「渭」という漢字を辞書で調べると、「水の流れ」的な意味が出てきます。
実はこの辺り、古代の遺跡が多いようなんです。
浜松市地域遺産センターの展示によれば、井伊谷では特に湧水や川の近くから銅鐸が出土するなど、古くから水を、祭祀の対象としていたと推測されるそうです。

(浜松市地域遺産センターの展示より引用)
そして驚くことに、それこそ古墳の時代から、この一帯は「井」と呼ばれていたとか。
とすると、「井伊」という姓には、地元への深い思いだけでなく、水への感謝も込められているのかもしれません。

(井伊共保公出生の井戸 説明板より引用)
一方、養父・共資は、井伊家の祖となる共保が独り立ちするにあたり、共保出生の由緒から、橘を家紋に、井桁を旗印の紋として与えました。


実際、さきほどの共保出生の井戸、石碑の傘部分には「井桁」「丸に橘」が彫られています。

もうおわかりですね!
日蓮宗の宗紋「井桁に橘」のルーツは、あの井戸にあるのです。

共保の4代後、井伊盛直の子が
●井伊の宗家(井伊良直)
●赤佐家(赤佐俊直)
●貫名家(貫名正直)
に分かれるのですが、貫名正直の3代後が貫名重忠公(日蓮聖人のお父様)となるわけです。
つまり日蓮聖人の遠いご先祖は井伊家、さらに遡れば藤原北家ということになります。

(龍潭寺・井伊家御霊屋の大棟:臨済宗寺院とは思えない紋)
ところで、井伊家では「井桁」と「橘」が別個に使われています。
では、これらを組み合わせて日蓮宗紋としたのは、いつ頃なのでしょう?
いろいろ文献を漁ると、一般論として仏教各宗派が宗紋を使い始めるのは、徳川幕府の宗教統制以降、という見解が多かったです。
「井桁に橘」もその頃からじゃないかと、個人的にも思っていました。

(日蓮宗で使われている御宝札袋:宗紋「井桁に橘」が印刷されている)
ただ、鈴木智好上人(※)が昭和12年に著された「日蓮聖人御系譜の研究(続)」には、「重忠公 遠州より房州に流されたる時 幕府の役人により持ち来りたる唐櫃に 井桁に橘の紋所が付いていた」という記載があります。
(※)藤原共資公を日蓮聖人の遠祖と考え、その旧跡(村櫛城址)保存に尽力されたお上人の一人です。

(貫名家菩提寺・袋井妙日寺の大棟)
これが事実ならば、「井桁に橘」は貫名家の紋が発祥となります。
独自に「井桁」と「橘」を組み合わせることで、井伊の血筋を家紋に留めようとした、そしてのちに貫名の家紋が日蓮宗の紋として使われるようになった…かもしれませんが…真相はどうなんでしょう?
さて、そろそろ井伊家の祖・共保公の話に戻りましょう。

(井伊谷城山頂から井伊谷を望む)
寛治7(1093)年に83才で逝去するまで、共保は井伊一門をよく統率し、立派に遠江国を治めました。

遺骸はかつての地蔵寺(今の龍潭寺※)に葬られ、井伊家歴代墓所の最奥に墓が設けられています。
(※)地蔵寺は行基菩薩開山なので法相宗だったと考えられる。戦国時代に臨済宗に改め、龍潭寺となった。

(左が22代直盛、右が初代共保の墓石)
井伊共保公は日蓮聖人の遠祖となる人。
龍潭寺の現在の宗旨は臨済宗ですが、小さな声でお自我偈を唱えさせてもらいました。
龍潭寺は井伊家の菩提寺として繁栄、徳川家康に仕えた24代・井伊直政までの歴代当主が、こちらに眠っています。

(龍潭寺 井伊家歴代墓所 説明板)
また直政の養母は、あの「おんな城主 直虎」。
大河ドラマ放映後の混雑はすごかったらしいですよ!

(彦根城天守)
秀吉や家康から重用された井伊直政は、高崎を経て近江彦根に拠点を移し、初代彦根藩主となります。

以後、井伊家の本拠地は彦根ですが、井伊谷の墓所、そして井伊共保公 出生の井戸の整備は、歴代当主がなさってきたそうです。
なかなかできることではありません。心から感謝致します。

(彦根城天守から見える琵琶湖)
余談なんですが、井伊谷と彦根、いずれも大湖のそばにありますよね?
古くは、遠江国浜名湖は「遠淡海(とうつおうみ)」、近江国琵琶湖は「近淡海(ちかつおうみ)」と呼ばれていたそうです(遠近は都からの距離でしょう)。
水の湧く井戸から始まった井伊家のこと、兄弟のような湖の畔に、再び引き寄せられたのでしょう。
日蓮聖人の生涯も、驚くほど水にまつわる逸話が多いです。

(善日麿誕生時、湧き出す清水:堀内天領画集「日蓮聖人の生涯」より引用)
まずお生まれになった時、庭に清水が湧き出たのはよく知られています。

(鎌倉の日蓮乞水)
地面を杖で突いて冷たい水を湧き出させ、また祈りによって雨を降らせました。

(佐渡真浦の波題目碑)
大荒れの海を渡る時には、波に題目を書いて鎮め、

(身延山・宗祖御草庵横を流れる身延川)
晩年は川に囲まれた身延山を、法華経の聖地とされました。

(七面山一ノ池)
そう、七面大明神も水の神様でしたね!
いつもどこかに水の気配を感じる、そんな方が宗祖・日蓮聖人なのです。

先日、親しくさせていただいているお寺で、大荒行を成満されたお上人の帰山式が催され、参列させていただきました。

寒空の下、目の前で7名のお上人が何度も冷水をかぶる姿に、圧倒されました。
なかなか他宗では見られない光景だと思います。
式典の最後、そのお上人が大勢の参列者に謝辞を述べられました。

百日間、沢山のお経を読み、沢山の水をかぶり続けたお話に触れ、
「行堂で培ったお経の力、そして水の力を、お世話になった皆さんにお返ししてゆきたい」
と仰っていたのが印象的でした。
この世に生きる我々が、祈りによって神仏と感応したいとき、それを可能にするのが水の介在なのかもしれません。
「御手洗の井戸」なんて、まさに人と神仏の境目だったのでしょう。

(井伊共保公 出生の井戸)
井伊共保公を初祖とする日蓮聖人、そして聖人が開いた一門が今でも「水の力」を信じ、尊崇していること、僕はとても納得できました。

(帰山式で使われた水)
日蓮聖人の、遠い遠いご先祖様から続く、水の系譜。
今も確かに、引き継がれています。

日蓮聖人のルーツを探る旅、井伊家の家祖や藤原北家まで遡ることができました。
また「井桁に橘」紋のはじまりも確認することができ、無事、僕の欲求は満たされました!
「少欲知足」、明日から頑張ろうかな…。

ちなみに「井伊共保公 出生の井戸」、車で行く場合は、龍潭寺の駐車場に停め、

そこから50m、歩いてすぐです!
(参考文献)
・「日蓮聖人御系譜の研究(續 )」(昭和12年:鈴木智好著 「棲神」第22号 祖山學院同窓會文學部)
・「水城 橘の君 生誕の水のいわれ」(昭和58年:福川智香子著 JDC)
・「日蓮聖人御系譜の研究(續 )」(昭和12年:鈴木智好著 「棲神」第22号 祖山學院同窓會文學部)
・「水城 橘の君 生誕の水のいわれ」(昭和58年:福川智香子著 JDC)
・「宇宙世紀の人造り」(昭和45年:湯川日淳講述)
・「日蓮聖人の御一生」(昭和16年:水島芳静著 天泉社)