北海道を旅してきました!
早々と梅雨明けした関東地方に比べ、今夏の北海道は梅雨のような長雨が続き、地元の方々が「異常気象だよ」と口を揃えて言うような天気でした。
せっかく北海道に行くのだから、現地の日蓮宗寺院も参拝してみようということで事前に情報を集め、訪問してきたので報告します!
函館に参上っ!!
江戸末期、ペリー来航をきっかけに鎖国が解かれ、下田と函館を開港しました。多くの外国船が函館に寄港した名残りで、函館山の麓には洋館が建ち並んでいます。
函館には市電が走っています。市電の終点・函館どつく前で降り、坂道を上がって行きます。
坂道の中腹にある船見町には大きなお寺がいくつもあります。
この一角に実行寺があります。
山号は「一乗山」です。
この界隈は「山之上」という地名のようです。
実行寺は、六老僧の日持上人に縁のあるお寺のようですね!
正面にあるのはお祖師様のご尊像かな?
おお~!日持上人のご尊像のようです。初めてそのお姿を拝ませて頂きます!
堅固な意志を感じる表情です。それに右手の筋肉!力の漲り方が違います。
ちなみに実行寺では6月1日を日持上人忌として報恩法要を営んでいるそうです。
大陸に向けて蝦夷を旅立ったのが6月1日なのではないかと思われます。
本堂です。とても立派な屋根!そして本堂入口は北海道ならではの二重扉!
遠く離れた地で井桁に橘を見ると、それだけで安心してしまいます。
歴代お上人の御廟を参拝。
もともと鎌倉時代に日持上人が訪れ、石にお題目を記したと伝えられる函館の地に、江戸時代になって法華のお坊さん・清寛上人が草庵を結んだ、というのが実行寺のルーツのようです。
実行寺の裏山をかなり上った所に、日持上人の御経石が実在するというので、行ってみました!
北海道といえども7月の山中は蚊の巣窟です!
登れど登れどそれらしい石が見当たらないな~・・・と思っていたら
お!何だろう?
あった!日持上人の御経石だ!!
日持上人は、日蓮聖人の十三回忌法要を済ませた翌年正月一日に、単身弘通の旅に出ました。
そして奥州を巡化しながら北上し、海を渡って蝦夷にやって来たと伝えられています。
初めに上陸したのが函館なんだそうですよ!
この御経石はもともと函館山の山頂にあったそうですが、観光施設の建設に伴い、この場所に移されたそうです。
石が鶏のトサカに似ていることから「鶏冠石」とも呼ばれています。
この石にはいくつか伝説があるそうです。
一つは、その昔この石の近くで殺された母子がいて、付近にそのすすり泣く声が聞こえて村人は困っていましたが、日持上人が石にお題目を記すと、すすり泣きの声はピタリと止んだそうです。
もう一つは、日持上人が大陸に渡る直前、この石にお題目を記していったというものです。
お祖師様の大目標であった広宣流布を成し遂げるという決意表明であったかもしれませんし、生まれ育った祖国への惜別の想いだったのかもしれません。(日持上人の筆跡を残すために、その部分を文字として刻んだ状態になっていると思われます)
ちなみに御経石がある山の一角ですが、函館の古い地図を見ると「七面山」と書かれていました。
実行寺の境内にもそれと思われるような石碑が建っており、信徒さん達が遙か遠くの七面山に見立てて登詣したのではないかと思われます。
お寺の奥様が、北海道における日持上人の伝説は他にもありますよ、と教えて下さいました。
函館市街から直線距離で30kmは離れている恵山近くの椴法華(とどほっけ)。
僕は波乗りが趣味なので、全く先入観なしに北海道のサーフポイントを見てみたくて訪問したのですが・・・
「法華」って入っているし、面白い地名だな~と思っていました。
日持上人は大陸に渡る前に道南界隈を巡化に歩いていたそうで、この近辺の海岸沿いでも村人との交流があったようです。
当時、不漁に悩んでいた村人が日持上人にその旨を話すと、日持上人は海に向かってお題目を書いたといいます。
すると、ほどなくして見たこともない魚が大量に網にかかり、それから豊漁に沸いたそうです。
村人は以来その魚を日持上人にあやかって法華(ホッケ)と呼んだそうです。
椴法華という地名も(アイヌ語だけでなく)そういった逸話に由来するのではないか、と奥様は仰っていました。
ところで僕が実行寺を訪問したかったのには理由がありました。
梅津福次郎翁の足跡を見てみたかったからです。
春に訪問した茨城県常陸太田市の久昌寺
熱心な法華信者であった水戸光圀公が、母・久昌院の菩提を弔う為に創建したお寺です。
大正末期、不況や軍国化の流れの中で、老朽化した久昌寺が再建できないのではないかという時に、巨額の寄付をしてピンチを救ったのが常陸太田出身の梅津福次郎氏でした。
梅津氏は裸一貫で函館に渡り、持ち前の商才で大成功した方だ、と久昌寺で伺いました。
そして没後は梅津家の菩提寺である函館・実行寺に埋葬されたと聞きました。
実行寺の境内に梅津家の墓所がありました。
梅津福次郎氏は50代で前妻ヤエさんを亡くし、晩年は再婚したタケ子さんと函館で暮らしたようです。
墓所は福次郎氏が設計し、自分を支えてくれた二人の妻と寄り添うようにお骨が安置されているそうです。
宗門の大壇越に感謝し、合掌しました。
実行寺のシンボル・日持上人のご尊像は、檀家総代でもあった梅津福次郎氏が寄進したのだそうです。
しかし太平洋戦争の情勢もあり、建立を中止せざるを得なかったといいます。
そして梅津福次郎氏自身も戦時中、昭和17(1942)年に亡くなってしまいました。
残されたタケ子夫人は、昭和27(1952)年、開宗700年に合わせて日持上人像を境内に建立しました。
福次郎氏の遺志を、確かに継いだわけです。
梅津福次郎氏が営んでいた商店の建物が、今も函館市内に現存するという情報を、実行寺の奥様から入手したので、早速行ってみました。
市電の「十字街」という停留所の目の前に、その建物はありました。
石造りのシックな外観です。
店の外壁には当時の扱い品目が!
え~と・・・和洋酒食料鑵詰味噌醤油雑貨・・・いろいろ手広くやってた商店だったんですね!
現在、所有者は変わり、地元の職人・作家が造る工芸品や衣類の展示販売をするお店になっています。
梅津商店当時の雰囲気を損なわぬような和モダンの店内になっていますし、何より2階で梅津福次郎氏の資料を保存・展示してくれているそうなんです!何て素晴らしいオーナー!
これが当時、店頭に掲げられていた商店の看板です。
当時の新聞広告でしょうか、何でも扱ってるのはもちろん、正月二日から店を開けて働いていたことが窺えます。
応接室もそのままの状態で保存してくれています。
初めてお姿を拝見します。噂どおり実直そうな方ですね!
大正~昭和の激動の時代、戦争や大火の困難に遭いながらも、人一倍努力して大成功したそうです。
梅津福次郎氏のすごいところは、そうして得た巨万の富に溺れることなく、縁のあるところに徹底して施したことでしょう。
商売の拠点であった函館市や出身地の常陸太田市のみならず、宗門にも相当な寄付をしていたようです。
今回の旅で初めて知ったのですが、日蓮宗のお坊さんを養成する「信行道場」の開設に際し、梅津福次郎氏は莫大な私財を寄進していたといいます。
僕のお世話になっている菩提寺のお上人をはじめ、あのお上人もこのお上人も、皆さんが結界修行を積んだ信行道場の、いわば「父」ですよね!
眼下に函館港を望む実行寺。
この函館の地に足跡を残した日持上人、梅津福次郎翁という二人の先師先哲の偉業に触れることができました!