日蓮聖人のご霊跡めぐり

日蓮聖人とそのお弟子さんが歩まれたご霊跡を、自分の足で少しずつ辿ってゆこうと思います。

小倉山常寂光寺(右京区嵯峨小倉山)

2025-01-01 13:58:43 | 旅行
久しぶりに嵯峨野エリアを訪問してきました!
(外国人観光客でごった返す「竹林の小径」)
思い起こせば40年前、高校の修学旅行でも界隈のお寺巡りをしましたが、歴史にも寺院にも全く興味がなかった当時、散策を退屈にさえ感じていました。



(畑越しに落柿舎を望む)
五十路も半ばを過ぎ、古刹の点在する、あの長閑な雰囲気に触れたくて、自ら嵯峨野を歩いちゃってるんですから、僕も随分変わったんだな~と思います。 


(中院山荘跡から小倉山を望む※)
嵯峨野の西側には小倉山があります。
標高300mに満たない低山ですが、遠く東山を望む清雅の地、古くから公家たちが山荘を構えました。
(※)中院山荘を構えた宇都宮頼綱は、宇都宮妙正寺開山・妙正尼の祖父にあたる。


(天台宗二尊院境内にある時雨亭跡)
小倉山は百人一首のルーツでもあり、山の中腹には藤原定家が百首を選定した「時雨亭」の遺構もあります。



今回は、この小倉山の山裾に佇む日蓮宗の名刹、常寂光寺です。



墨塗りの山門が迎えてくれます。
薬医門の左右にある築地(ついじ)塀、通常は土壁じゃないかと思うんですが、ここでは格子になっています。



あとで境内を歩いてわかったんですが、常寂光寺には塀らしきものが見当たらないんですね!
風景の良さ、開放的な雰囲気を優先しているのでしょうね。



山門をくぐると受付があり、ここで拝観料を支払います。


戦後、日本全体が貧しかった頃、寄進者もなく荒れてゆく一方の常寂光寺を見かねて、先代ご住職に拝観料制のきっかけを与えた方がいました。
(右が平野威馬雄氏:12月2日付読売新聞「時代の証言者」より引用)
フランス文学者で詩人の平野威馬雄氏(料理研究家・平野レミさんの父)です。
常寂光寺の先代ご住職と親しく、よくこちらを訪れていたそうです。



宗門寺院では相当初期からの拝観料制だったでしょう。
そのおかげで荒廃を免れ、また昨今のオーバーツーリズムにも、ある程度対応できていると思います。
先人の英断に感謝です。



仁王門です。
茅葺き屋根の仁王門は、佐渡(妙宣寺、実相寺)以来かな?
かつて六条堀川にあった大光山本圀寺、その広大な境内にあった門を移築したといいます。


(五条堀川付近にある大光山本圀寺跡)
本圀寺自体は事情により山科に移転し、旧地には現在、題目塔と塔頭寺院が残るのみです。
そう考えると、常寂光寺の仁王門がいかに貴重であるか、よくわかります。




左右に据えられる仁王像は、若狭小浜の長源寺にあったお像だそうです。
長源寺は本圀寺の旧末寺、身延山21世日乾上人など、多くの傑僧を輩出しており、宗門史のポイントとなるお寺だと思います。
近いうちに伺いたいと考えています。



境内のほとんどは急峻な斜面です。
木の生え方から、その傾斜ぶりがわかると思います。



急な石段を登った先には…


本堂だ!
二層の屋根が印象的です。


縁起によれば、「小早川秀秋の助力を得て、桃山城(伏見城)客殿を移築して本堂とした」ということです。
桃山城(伏見城)は秀吉が築き、家康が建て直した名城です。
小早川秀秋は、関が原の戦いで西軍から東軍に寝返ったことで有名な武将ですよね。
いろんな因果を経て、常寂光寺本堂に落ち着いたのでしょう。



本堂の裏手に、歴代お上人の御廟があります。
時代の移り変わりとともに、常寂光寺にも盛衰があったことと思います。
今日まで法灯を継いでくださった先師たちに、心から感謝いたします。



御廟域の中心には、開山堂があります。
こちらには、常寂光寺を開山された究竟院日禛上人が供養されているそうです。


日禛上人は名門公家の広橋家出身、14才のとき本国寺15世・中道院日栖(せい)上人の門に入り、このとき究竟院と号したそうです。
(日禛上人画像 狩野宗秀筆:昭和44年 京都国立博物館年報より引用)
相当な秀才で、18才で本国寺16世を継承、23才のときには一如院日重上人を請じて求法院檀林を開くほどでした。


日禛上人のお名前は1年前、方広寺大仏殿のブログを書く際、調べものをしていて初めて知りました。
(東山茶屋町に遺る大仏殿石垣)
文禄4(1595)年、豊臣秀吉建立の大仏殿(※1)千僧供養(※2)に際し、京都日蓮宗門にも招請状が届きました。
(※1)この時代、奈良の大仏殿は戦火で焼失しており、京都東山にそれに代わる巨大な大仏殿が建立された。
(※2)秀吉は大仏開眼を契機に、自分の先祖と亡き両親追善のため、今後毎月、仏教8教団からそれぞれ100人の僧を集め、千僧供養会を修することを決めた


招請状を受け取った京都日蓮宗門は、騒然となります。
この招請に応じることは、宗門が古来堅守してきた不受不施義(※)に反するからでした。
(※)他宗の人の布施・供養は受けてはならない、他宗の僧や寺社に布施・供養をしてはならないという制戒
(大仏殿の発掘調査跡は、公園になっている)
出仕するとなれば、法華信徒でない秀吉の依頼を受けて、他宗の僧侶と同座してお経を読む、法要後に秀吉からの食事供養を受けることになる。
逆に出仕を断れば、秀吉は、特に晩年の秀吉は暴虐でしたから、一宗破却など簡単にやってのけるでしょう。


実は招請状が届く直前、秀吉の暴虐さが露呈した実例がありました。
秀次事件です。

(村雲瑞龍寺本堂内に展示されている秀次銅像原型)
一度は秀吉から後継者のお墨付きを得ていた豊臣秀次ですが、秀頼が生まれるや急に秀吉から疎まれ、高野山に蟄居ののち、自刃に追い込まれました。


(浄土宗瑞泉寺に祀られる秀次一族墓所)
首は京の三条河原に晒され、その前で秀次の子女妻妾39人が次々と処刑されてしまったという、あまりに、あまりに凄惨な事件でした。


京都宗門は、六条本国寺において出仕の諾否を話し合いますが紛糾、結局「極めて不本意だが、天下人の秀吉だけは例外にしよう」という現実的な意見が大勢を占め、日蓮宗門としては取り敢えず一度だけ(※)、出仕することとなりました。
(※)結果的に20年間、毎月出仕していたという

そんな中、当時本国寺住持だった日禛上人は、妙覺寺住持・仏性院日奥上人とともに、「いかなる理由であろうとも出仕すべきでない、不受不施義は守る」という意見を貫き、遂に出仕することはありませんでした。


(常寂光寺堂宇の瓦には本国寺楓紋が入っている)
ただ不出仕となると、自分を支えてくれた本国寺衆徒や檀那まで断罪される可能性があることから、日禛上人は翌文禄5(1596)年、住持職を弟子に譲って本国寺を退出、身延山や佐渡などを巡拝したのち、小倉山の麓に常寂光寺を開創、ここに隠棲したのです。


寺地は小倉山一帯を所有する豪商・角倉(吉田)栄可が寄進したといいます。
角倉栄可は角倉了以の従弟にあたります。

開山堂の隣には、角倉栄可の供養塔と

その顕彰碑があります。
(顕彰文は京都中世史研究者・林屋辰三郎氏による)
文禄四年十月朔日(※) 角倉家の当主 吉田栄可が京都本圀寺日禛上人の需(もと)めに応じ その所領を寄進」した、と刻まれています。
調べると第1回目の千僧供養会が文禄4年9月25日ですから、もうその直後に、日禛上人はご自分の身の振り方を決められていたのでしょう。
(※)朔日は1日のこと


一方、堂宇の建立を助けたのは…
瑞龍院妙慧日秀尼(俗名とも、秀吉の実姉、秀次の実母)
三好吉房(瑞龍院日秀尼の夫)
小早川秀秋(武将、秀吉の甥)
加藤清正(武将、秀吉と同郷)
小出秀政(武将、秀吉の叔父、三男は日禛上人の弟子)
その他、多くの京都町衆
いずれも、本国寺時代から日禛上人個人に深く帰依していた、法華の篤信者です。
当時の人はお寺ではなく、お上人の人格、人柄に奉じていたのでしょう。
日禛上人の窮地を救いたいと、できる限りの援助を申し出たのです。



また彼ら一人ひとりの背景について詳しく書きませんが、共通しているのは、秀吉に非常に近かったけれども、その横暴さに失望した人々、という印象を僕は持ちました。



特に秀次の母であった瑞龍院妙慧日秀尼は、実弟(秀吉)の所業で、悲しみの底に落とされたわけです。
間もなく日禛上人のもとで出家剃髪、やはり小倉山の麓、村雲の庵に籠り、子の追善を供養し続けたのです。


日禛上人が頑なに千僧供養会への出仕を拒んだのは、秀次事件の直後。
宗祖以来の宗義を曲げたくなかった、というのは確かでしょうが、悲嘆に暮れ、自分にすがってきた日秀尼という弟子、そのあまりの無常さ、やりきれなさというのも、日禛上人の覚悟に影響していたのだろうと、僕は思います。

また、宮崎英修上人著「不受不施派の源流と展開」によれば、寛容なスタイルに舵を切る宗門を相手に、日奥上人が生涯、論争し続けたのに対し、日禛上人は慶長4(1599)年の大坂対論で、家康の譲歩案にようやく翻意したそうです。
なんとなく、日禛上人の心情を推し測ることができるのではないでしょうか。


(近江八幡にある村雲瑞龍寺本堂)
日秀尼の庵はのちに今出川、そして近江八幡へと移転、現在の村雲御所瑞龍寺門跡や妙慧山善正寺(京都東山)のルーツとなります。


ちなみに、かつて村雲の庵があった場所には現在、嵯峨村雲別院というお寺があります。

常寂光寺から北にほんの300mくらい、師弟のお寺が並ぶように存在しているのが、とても印象的でした。


ところで日禛上人、常寂光寺に隠棲された時、まだ働き盛りの35才。
どんな余生(?)を送っておられたのでしょう?
(常寂光寺境内からの眺望)
歌人としても一流だったそうですから、風景を眺めては一首詠むような生活だったのかなぁ…う~ん、退屈そう。

と思っていたら、こんな逸話を見つけましたよ!


丹波と嵯峨を結ぶ大堰川(※)浚渫工事は、慶長11(1606)年、角倉了以の手により完成、それまで人馬に頼っていた物流が、高瀬舟による水運に変わることになりました。
(※)渡月橋から上流が大堰(おおい)川、下流が桂川(諸説あり)
(小倉山と嵐山の間を流れる大堰川)
ところが肝心の舟夫が集まらない。困った了以は、懇意にしていた日禛上人に相談します。


そこで日禛上人は、本国寺の備前(今の岡山県)における末寺・法蔵寺(廃寺)の檀家に、船頭を生業としている人が多いことを思い出し、彼ら18名を嵯峨に呼び寄せました。
(渡月橋付近を航行する和船)
彼らが大堰川流域の人々に操船技術を教えたことで舟運は繁盛、京都の経済も潤ったといいます。


備前からやってきた船頭たちは最初、秋から春にかけての季節労働をしており、常寂光寺を宿舎としていました。
(角倉町バス停:右端には渡月橋が見える)
のちに彼らは家族を呼び寄せ、嵯峨にある角倉家の土地に移り住みました。
今の角倉町です。



ちなみに常寂光寺の妙見様↑は、かつて角倉町にお祀りされていたのを、のちに常寂光寺境内に遷座してきたそうです。


こんな風に日禛上人、隠棲といっても恐らく、ご縁のある方々の相談に乗ったり、ときには地方に出向いて都合をつけたりと、案外忙しくされていたかもしれませんね!

日禛上人は元和3(1617)年、57才で化を遷されたといいますから、実に22年間を常寂光寺で過ごされたことになります。



日禛上人が遷化された3年後、境内のいちばん眺めのよい場所に、とても美しい塔が建立されます。
多宝塔です。


(北畠聖龍筆「法華経二十八品巻物見返絵」より引用)
多宝塔は、法華経の第十一、見宝塔品に出てくる塔で、経文では空中に浮かんでおり(住在空中)、お釈迦様と多宝如来がその中に並んで座った状態(坐其半座 )で、お説法を始めるのです。



常寂光寺の多宝塔内部には、実際に「釈迦如来と多宝如来が安置されている(常寂光寺縁起)」そうですよ。



この多宝塔建立を援けたのは、京都町衆の辻藤兵衛直信という方です。
実は例の千僧供養会で、同じく不出仕を決めた日奥上人、調べると生家は呉服商を営む辻家で、当主は代々、「辻藤兵衛」を襲名するそうです(ちなみに日奥上人のお兄様は辻藤兵衛紹二)。
多宝塔の辻藤兵衛直信が日奥上人の縁者なのか、確証はありませんが、恐らくそうでしょう。


今、ブログを書いていて僕がふと思ったのは、見宝塔品第十一って、最後の偈文は「宝塔偈」ですよね。
法華経を持つことは素晴らしい、と同時に、とても難しいことだと説いています。
(宝塔偈:僕のお経本より引用)
「此経難持」を体現した日禛上人の追善に、かつて同志だった日奥上人の縁者が、多宝塔を寄進していた…。
う~ん、深い。深いなぁ。



まあまあ、妄想も多分に入ってますが(笑)、自分の中ではすっごく納得できました。
この辺りで今回のブログ、終えたいと思います。

南無妙法蓮華経。


(参考文献)
・「小倉山の常寂光寺」(昭和56年:小山和著 法華会)
・「京の地名」(昭和37年:田中緑紅著 京を語る会)
・「続・日蓮宗の人びと」(昭和62年:宮崎英修著 宝文館出版)
・「不受不施派の源流と展開」(昭和44年:宮崎英修著 平楽寺書店)


(注)大光山本圀寺の寺名表記についてですが、もともと鎌倉から京都に移されたのは「本国寺」でありました。江戸前期に徳川光圀が一字を与え「本圀寺」となった歴史を踏まえ、拙ブログでは時代背景によって表記を使い分けています。