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―四方のたより― スローな一日
「新しきものの真の新しさを捉える唯一の方法とは、古きものの「永遠」のレンズを通して世界を見ることだ。実際コミュニズムが「永遠の」思想であるのならば、それはヘーゲル哲学における<具体的普遍性>として機能する。どこにでもあてはまる抽象的で普遍的な特質というのではなく、新しい歴史状況がめぐりくるごとにモデルチェンジされるべきだという意味で、永遠なのである。」
「資本主義のパラドクスは、実体経済といあ赤ん坊を健やかに育てながら、金融投機という汚水は捨てられないことにあるのだ。」
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「古典様式は神秘という「秘匿されたもの」を、「悟性的な」単に「昇華された」自然において描き出そうとし、マニエリスムは「秘匿されたもの」を、「寓意的な」「イデア」のうちに往々にして「デフォルメされた」自然において力を発現せしようとする。
かくて形而上学的意味でも、二つの相異なった、とはいえ存在論的関連においてはいずれもそれなりに存在関連的な、人間性の原身振り-ウルゲベルデ-と関わり合うのである。そのいずれもが―それぞれ相異なるあり方で―深淵的なものに関連づけられている。
古典主義者は神をその本質-エッセンツ-において描き出し、マニエリストは神をその実存-エクジステンツ-において描き出す。
古典様式の危険は硬化であり、マニエリスムの危険は解体である。
マニエリスムなき古典様式は擬古典主義に堕し、抵抗としての古典様式なきマニエリスムは衒奇性へと堕するのである。」
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さすがに今日は出かける当て処とてなく、日なが一日まったりと読書に勤しむ。
S.ジジェクの「ポストモダンの共産主義」とG.R.ホッケの「迷宮としての世界」、まったく分野も異なる2冊を、気分転換よろしく並行して読んでみているが、内容が内容だけに進捗具合は遅々としたものだ。
<日暦詩句>-28
栂の杖にささへられ
ひとつの伝不詳の魂がさすらっていく
影は巌にも水のうへにも落ち
硬い時雨のそそぐ田舎-プロヴァンス-にきて
その魂の鴫のにはかに羽ばたく。
―安西均詩集「花の店」所収「西行」-昭和30年
―山頭火の一句― 行乞記再び-昭和7年-161
6月19日、同前。
曇、時々照る、歩けば暑い、汗が出た、田部、岡林及、岡町行乞、往復6里、少々草臥れた。
朝の早いのは、私自身で感心する、今日も4時起床、一浴、読経回向、朝食、―6時前に出立して3時過ぎにはもう戻つてきた、山頭火未老!
-略- 途中、菅生のところどころにあやめが咲いてゐた、「あやめ咲くとはしほらしや」である、山つつじを折つてきた、野趣-山趣?-横溢、うれしい花である。-略-
笠から蜘蛛がぶらさがる、小さい可愛い蜘蛛だ、彼はいつまで私といつしよに歩かうといふのか、そんなに私といつしよに歩くことが好きなのかよ。
今夜は行乞所得で焼酎を買ふことが出来た-十方の施主、福寿長久であれ、それにしても浄財がそのままアルコールとなりニコチンとなることは罰あたりである-、そしてほろほろ酔ふた-とろとろまではゆけなかつた、どろどろへは断じてゆかない-。
※表題句の外、6句を記す
![05051 05051](http://santouka.cocolog-nifty.com/alpha/images/2011/05/05/05051.jpg)
Photo/川棚温泉近く豊浦町黒井菖蒲園のあやめ
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