山頭火つれづれ-四方館日記

放浪の俳人山頭火をひとり語りで演じる林田鉄の日々徒然記

旅のいくにち赤い尿して

2009-06-03 16:55:29 | 文化・芸術
Trd0906022003011p1

―山頭火の一句―

前回より10日ほど遡るが、行乞記、昭和5年9月14日付の項に載る。この日の宿は人吉町の宮川屋。

「行乞相があまりよくない、句も出来ない、そして追憶が乱れ雲のやうに胸中を右往左往して困る」と書きつつ、熊本を出発するとき、これまでの日記や手記はすべて焼き捨ててしまったが、記憶に残った句を整理したとして、23句を連ねている。

また「一刻も早くアルコールとカルチモンとを揚棄しなければならない、アルコールでカモフラージュした私はしみじみ嫌になつた、アルコールの仮面を離れては存在しえないような私ならばさつそくカルチモンを二百瓦飲め-先日はゲルトがなくて百瓦しか飲めなくて死にそこなつた、とんだ生恥を晒したことだ!-」と書きつける。

おそらくこの未遂事件は、熊本出奔前のことだろう、むしろこの不始末が直接の引き金となって、このたびの行乞放浪となったとみえる。

―世間虚仮― 不思議の海丘群

八代海南部の海底に世にもめずらしい海丘群があった、という西日本新聞の記事-本日付-

熊本県水俣市から西南西約10kmにある水深約30mの海域に、平たんな海底から盛り上がるように直径50m、高さ約5mの円形の丘が80個近く密集するという、写真のようななんとも不思議な、貝で固めた円形の古墳状が並んでいるような海丘群。但しこの写真あくまでイメージ図で実写ではないそうだ。

もっとも記事によれば、旧日本海軍が1913年に作成した八代海の海図にも海丘群に似た記述があったというから、今回のような実態調査はせずとも、一部にその様態は知られていたのもかもしれない。


―表象の森―「群島-世界論」-09-

「わたしは詩人ではない
     詩人ではない
 わたしはただの一つの声だ。
 わたしはそっくり響かせる
 人々の 想いを
      笑いを
      泣き叫びを
      吐息を‥‥
 わたしは詩人ではない
      詩人ではない
 わたしはただ一つの声だ。」 -オク・オルナラ

つねに<語り部>は傍らにいた。物語る人として。入江の潮騒ぎに向けてことばの倍音をこだまさせる者として。プランテーションの夜の闇に侵入して響きわたる透徹した声として。彼らの口から唱えられるモノガタリのモノとは得体の知れない霊性と聖なる凝集に満ちた未知の生命力の核心であり、時の激烈な流転と場所の自在の交錯とを含み込む可変的な時空間だった。語り部の口からモノが闇夜の真空に忽然と立ち上がるとき、周りを取り囲んで聞き耳を立てていた人々は、おのれの身体の記憶に脈打つ裡なる血流のとどろきの音に震撼した。自らが知り得ぬ出来事と感触の痕跡がその血流のなかにたしかに流れていることを‥。そしてその<時の痕跡>は外部から与えられたものではなく、自己の内奥に古くから潜んでいる未知の何かであるにちがいない、という確信がそこにあった。

文字に置換しうる「歴史」の論理的な言葉が決して捕獲しえない、古い記憶の混淆と可逆的な運動性とを、語り部の声の織物は示していた。その、薄い皮膜に包まれて漂う謎めいた胎児のような物語は、プランテーションの群島を覆う混濁した豊饒な記憶の森のなかで育まれ、いまだ外界に生まれざる未知の生命の心音だけを静かに刻みながら、人々の耳から耳へ、象徴の森から森へと、胎児の姿のまま運ばれていった。この密やかに遂行された物語の「運搬」こそが、群島のすべての記憶をつくりなす力だった。

「僕は海を愛する銅色のニガーにすぎん
 健全な植民地教育を受けた人間
 オランダ ニガー おまけにイングリッシュの血が入っている
 僕はノーボディか さもなけりゃ一人で国家-nation-だ」 -デレク・ウォルコット「帆船“逃避号”」

「君たちの記念碑はどこにあるのか 君たちの戦は 殉教者たちは?
 君たちの種族の記憶は? お答えします――
 あの灰色の円屋根の納骨堂の中 海です。
 (‥‥)
 それから トンネルの終りの明りのような

 帆船のランタンがあった
 それが創世記だった
 それから ぎゅう詰めにされた叫び声
 糞尿 呻き声があった--

 出アフリカ。
 骨と骨は珊瑚によって盤陀-ハンダ-付けされて
 モザイク模様
 鮫の影の祝福によって覆い包まれて――」 -デレク・ウォルコット「海が歴史である」

歴史的事実が教えるアフリカ人奴隷の大西洋上での受難の物語は、一度海面下に潜伏することで専横的な「歴史」の権力構造から離脱し、別種の力、無名性に依拠する錯綜した<関係>が示す重層的な声の綾織りとしての深い浸透力を獲得したのである。こうした統合的な力の伏在に確信を得たからこそ、ウォルコットは「海は歴史である」と宣言しつつ、自らをノーボディと呼びながら、その無人称性を「国家-nation-」という、もう一つの統合力の怪物に突きつけることもできたのだろう。

 -今福龍太「群島-世界論」/9.誰でもない者-オメーロス-の海へ/より


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