山頭火つれづれ-四方館日記

放浪の俳人山頭火をひとり語りで演じる林田鉄の日々徒然記

けふはけふのみちのたんぽぽ咲いた

2005-03-23 21:16:02 | 文化・芸術
ichibun98-1127-041


<歩々到着>-4


山頭火こと種田正一が松崎尋常高等小学校高等科を修了し、
私立周陽学舎に入学したのは明治29年、数え15歳のこと。
周陽学舎は明治10年、防府野崎の有志により設立された私立校で
明治41年の中学校令で周陽中学校となり、大正4年、県に移管され山口県立防府中学校となる。
昭和23年の学制改革で、県立防府高校と改称され、翌年には防府高等女学校と統合され、現在の県立防府高校に至っている。
この周陽在学時に、正一は学友らと回覧雑誌の発行を始めていたらしい。
町の大人たちに混じって俳句の句会にも出ていたという話もあるようだ。
明治32年、数え18歳、周陽を首席で卒業し、県下随一の県立山口中学に4年編入している。
当時の山口中学は、高校への進学率が全国でも長らくトップの座を占めているほどの名門校。
立身出世主義に徹したスパルタ教育で名を馳せていたらしい。
文芸に名をなした国木田独歩、嘉村磯多、中原中也らも輩出しているが、彼らはある意味でこの全国有数のトップ校のはみだし者だったのだろうか。
天下の俊英・秀才の集う山口中学では、さすがに正一もあまり目立った存在ではなかったようだ。
途中編入でもあるし、同期生とのあいだに深い交わりもなく過ごしたのか、これといった音信も残されていない。
明治34年春、卒業時の成績は151名中22番だったという。4年編入というハンデを思えば優秀だったともいえようか。
同期生たちが、東京帝大、京都帝大へと進学していくなか、父親の放蕩やまぬ家庭内の問題もあってか、彼は進路を決めかねていた。
この頃、父・竹治郎は、妾の磯部コウを入籍している。彼女はサキ投身の以前から関係のあった女性。どうやらコウに女児が誕生したらしく、私生児にする訳にもいかず入籍の手続きとなったようだ。
同年5月、早稲田大学の初代学長になった高田早苗の遊説が山口市内の永楽座で催され、正一は高田の「国民教育論」を傾聴した。
この時の遊説は、大学設立の基金募集のために各地を廻っていたのだといわれる。
この講演を聴き、正一は早稲田へ行こうと決したようだ
同年7月、開通まもない山陽本線に乗って単身上京した。



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