
―四方のたより― 転位-関係のフォルムから空間のフォルムへ
26日付の項で、即興において「場面の創出」こそめざされなければならぬ、と記した。
だが、この課題は並大抵のことで実現=肉化=するものではない。いわば我々四方館にとっては超課題にもひとしく、その道程には峻険な階梯が立ち塞がっていよう。
そこで私の作業仮説だが、ある一つの転位=関係のフォルムから空間のフォルムへ=、が大きな手がかりになる筈だ、と考えてきた。
関係的表象、そのフォルムは、かりにAとB、1対1の表象世界なら、その変容はだれでも容易に把握できるだろう。瞬間的になら、逐次的におもしろいこと、意外性に満ちたことをも、さまざま生み出していくことはそれほど難しいことではない。短い時間の即興なら、お互いがある程度の発想の柔軟さ、自在さを持ち合わせてさえいれば、かなり洒脱な表象世界をものすることができる。
しかし、そのおもしろさを、意外性を、いくら積み重ねていっても、関係的な表象がどこまでもそこにとどまっているかぎり、「場面の創出」には至らない。いやむしろ重ねられるにしたがい、おもしろさや意外性の効果は減殺されるもので、初発の斬新さはどんどん色褪せていく。
関係的なフォルム、その表象は、あるとき、どこかで、空間のフォルムへと転位されなければならない。架橋されなければならない。その転位が起こったとき、その架橋がなされたとき、はじめて「場面の創出」を孕む契機となりうるのではないか、ということだ。
この作業仮説、さしあたりはAとB、1対1ではじめていくのが、なんといってもわかりやすい。二人のあいだでこの転位が肉化されるとすれば、次にSoloへと、そしてさらにTrioへと、困難さは増すばかりだが、道はひらけてきうる筈だ。
私が神澤師から学んだことは、この一点に集約しうる、といっていい。
先夜のDance Caféを経てほっと一息、昨日-28日-は今年最後の稽古だったが、些か強引に過ぎようかとの思いを抱きつつ、この作業を課していくことにした。
みじかい時間だったが、次への、たしかな一歩を踏み出した。
<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>
「霜月の巻」-31
豆腐つくりて母の喪に入
元政の草の袂も破ぬべし 芭蕉
破-ヤレ-ぬ
次男曰く、名残ノ裏入。芭蕉も、前句を母と子の二人暮しと読取ったらしい。
元政-ゲンセイ-は深草の上人。俗名石井源八郎元政、元和9年に京都で生れ、幼少の頃から彦根藩主井伊直孝に仕えた。詩文を好み、生来多病だったといわれるが、その後、日蓮宗に帰依して25歳の時致仕、妙顕寺の日豊に就いて出家した。深草に称心庵を結び、石川丈山・陣源贇・熊沢蕃山らとの親交が知られる。また、元政の長姉は井伊直孝の側室春光院となって、藩主直澄を生んだ人。元政は寛文8年の没、享年46歳。父母はいずれも長寿だったが、母親の死は息子の死より僅かに早く、後を追うようにして元政も死んでいる。
その元政の親思いは有名な話である。とりわけ、父の死後、母尼に仕えた孝養ぶりはその遺された詩文や和歌の随所に見られる。五男二女の末子として生れたが、晩年の元政と老母とのあいだは、事実上母ひとり子ひとりの信風月だった。そういう男の服喪の心を、芭蕉は付けている、と。
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